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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



岡山駅から吉備線で約20分の備中高松駅で下り、駅から岡山方向へ200m引き返し、済生会吉備病院の前の道を左に曲がると、山裾に秀吉の止水堤遺構が残っています。

有名な備中高松城の水攻めの堤防は、ここ(蛙ヶ鼻)からからほぼ吉備線のルートに沿って足守駅付近までの3119mに及んでいます。

 

築堤の規模は、江戸時代の歴史書に高さ7.5m、底部22m、上幅11mとあり、土砂の総量は、38万5976立方メートル、10トンダンプカーで延べ6万4329台となります。

この土砂を工事期間で割ると、1日当たり3万2165立方メートル、10トンダンプカーなら5361台が必要ですが、すべて人力で運搬し築堤することが可能なのか、経営コンサルタントの多田土喜夫さんは疑問を持ち<以下の説を展開>しています。

<天正10年4月15日に備中高松城を囲んだ秀吉軍は、高松城の周囲に広がる沼地を迂回して、秀吉の布陣する蛙ケ鼻から南へ向かい、足守川右岸の東側低高地を経て加藤清正の陣があったJR足守駅付近の山に至る軍用道路を最初に建設した>高松城のハス

<その道路は、高松城周囲の沼地より僅かに0.8mくらい高いレベルだったが、それを水攻めの堤防として活用できることに黒田官兵衛が気づき、5月8日から道路の上にさらに土俵を積んで12日後には沼地よりも1.6m高い堤防とした>築堤基礎の遺跡

<既に完成していた道路を運搬ルートとして活用しながら、その上に高さ80cm、幅10m、長さ3119mの土俵を積むだけであれば、2万4952立方メートル>これなら上に書いた量の僅か6%の土量で済むことになります。清水宗治の首塚

<遺跡として残っている蛙ヶ鼻堤防は、自然の山裾を削ったものと判明していて、隣接した山の土で作った土嚢を、山から軍用道路方向へ運ぶためのスロープとして使っていたので、道路部分の堤防よりも高いまま現在まで残った>高松城本丸跡にある清水宗治の辞世の句

確かに物資の補給路を断つための水攻めであれば、水深1mもあれば十分と考えられるので、歴史書にある高さ7mは、秀吉の力を吹聴するための誇大広告だったのではないでしょうか。

参考文献:備中高松城主清水宗治の戦略 多田土喜夫著



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