苦難について

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」(ヘブル12:4-12)

 「どんな幸福な生活にも起こる数多くの試練や心労を、堪えがたい重荷と考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのである。
 その後の方の見方は、もちろん信仰があって初めてできることであり、またそれが信仰の最も明らかな利益の一つでもある。」
(「眠られぬ夜のために・1」、ヒルティ著、草間・大和訳、岩波文庫。その「3月1日」の項より)

 「かれの内心の争いが最高潮に達したとき、アウグスティヌスはある家の庭で苦しんでいたが、……」。
(「告白(下)」、聖アウグスティヌス著、服部英次郎訳、彼による解説 p.275 より引用)

---

 「ヘブル書は難解だ」、しばしば耳にしたことばだった。
 これには前々から、軽い疑問を抱いていた。

 思うところあり今朝開いて、そして思った。
 「どこが難解なの?」と。
 きわめて理路整然としている。
 接続詞を大切にしているのが、特徴的に思えた。
 だから、書き手(詠み人知らず)、彼が何を言わんとするのかが手に取るように分かる。
 一方で、二日ほど前、やはり思うところあってヤコブ書を開いた。
 一時期、ひどく親しんだ書物だ。
 改めてひもとくと、これ、……。
 まあ「ある事項について」は後日書くと思うが、……「接続詞」以前の文章に思えた。
 だから今の私には、「ヤコブ書の方が難解」に思える。ヤコブさんが何を言いたいのかを把握できないからで、それを指して「難解」と私は書いている。
 そして思うに、「ヘブル書が難解」なのは、「難解にしたいから」だと。
 前置きが長くなった。

 さて本論。
 「苦難、これは有り難く頂戴せよ。」
 冒頭の聖句とヒルティ、それとアウグスティヌスについての解説記事、これらの抜き出しは、単にここへ演繹させたいからだ。

 ヒルティはどこかで書いている(ほんとに忘れた)。苦難のない人というのは、およそ神から見捨てられた人だ、というようなことを。
 そのことの実証、それは冒頭のヘブル書の引用で事足りるかと思う。
 実に苦難こそ、神からの最良の治療薬、そう思う。

 さくじつ新聞を見開いて、……、「半面以上の大記事」に胃を痛めた。
 大見出しの記事、さすが「ジャーナリズム宣言」をしてくれただけのことはある。
 そして思う、「それだからしんどいんだろっ」と。
 しかしなにしろあれだけの大記事だったから1つくらいは有益な情報があって、おかげで一つの「作戦立案」叶い、これを書いている今朝方は、あとは「その作戦」を粛々と行えばよろしい、そうと心は定まっている。
 さくじつ胃を痛めた甲斐があったというものだ。
 実に神は、おりに叶った「苦難という良薬」を与えてくださる、その観が強い。
(ほんとに「おりに叶った」だなー…。)

 さて、「ヘブル書引用」、これをこの一文から行っていることに心を留めていただきたく思う。

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

 そう、ヘブル書におけるこの段落は、「苦難一般論」というよりかは、もっと的を絞って、「罪との戦い、その中での苦難の位置づけ」なのだろう、そう思いつつこの聖書箇所を読んだ。

 アウグスティヌス、彼は「血を流すまで抵抗」して、そうして「罪という一大問題」を「消化」した、その「ほんの一例」だ。
(語彙不足を恐縮と思う。「消化」よりも「トレース」ということばが個人的にはしっくり来るのだが、そうするとなおのこと自らの力量不足が顕わになってしまう。)
 彼の苦難に次ぐ苦難、それは、この記事をご参照いただきたい。
 彼は「弁論学」をたまたまやっていたから「告白」をしたためること叶った訳で(これこそ全てのものが益になる、その恰好の好例だ。ロマ書8:28)、名も知れず神にだけひそやかに「告白」して、そうしてひっそりと天に召された大勢の人々がいるに違いない。
 どの人も、大苦難あってのことのはずだ。

 この世での苦難、これは神からの良薬だ。
 この苦き良薬飲まずして、人としての成長はないだろう。
 あまり好きなことばではないが「人格形成」、これを神がやって下さる訳だから、なおのこと、この良薬が与えられたら、それは恰好の機会だ。
 神は、人間が「いちにんまえ」に育って欲しいと願っておられる、そのようにすら感じる。
 そう、苦い。
 「胃を痛める」なんてもんじゃない。

 罪の解決(回心)、この最大の問題に処する薬もまた、「神からの良薬」だ。
 福音書が伝えるイエスの苦難、十字架の道。
 ここに、その手本を見る。
 罪なきイエス。
 神たるイエス。
 そのイエスが、「十字架」という「良薬」を、敢えて「あおって飲む」…。

 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ伝19:30)

 「酸いぶどう酒」なのだ、やはり。
 だからこそ、イエス(だけ)が師なのかと思う(マタイ23:10)。

 しかし他方、このことも言えると思う。
 これもヒルティの言を引用する。正にその通りと思うので。

 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある。これは、神が、ほかのだれよりも、このようなみずから進んで苦しみを堪え忍ぶ人びとのそば近くにいられるということである。」
(「眠られぬ・1」の1月9日の項より)

 最後に、全くの偶然なのだが、書き終えようとしてそのさなか、名ブログ「生協の白石さん」を何気なく見やると、実に興味深い記事があったので、ここにリンクしておこう。
 白石さんの仰るとおり、あのマリーンズ(というかオリオンズ)が日本一に輝く。
 「あのファイターズ(!)」は、今季パリーグ1位、そしてプレーオフに臨む。
 ほんじつの記事も、大方これを言いたく筆を執った。
(しかし、「白石さん」は、全く計算外だった。)
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

罪から愛されるほど、罪赦される

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

---

 「罪から愛されるほど、罪赦される」、この逆説めいたアイデアは、アウグスティヌスについて書いたときに、ふとひらめいた。

 この逆説をもっとも体よく我田引水できる聖書箇所は……、やはり昔なじんだロマ書7章しか思いつかなかったので再度の引用をお詫びする(一度目はこちら)。

 冒頭の聖書箇所は、端的に、つぎのように要約されよう。

1.罪からの求愛に応ずる
2.懊悩の叫び
3.神への感謝

 律法についてかつて書いた記事を、ここにリンクする。
 重複を厭わず、その記事から抜き書きする。
 「神の秩序、神の善の基準というのは、そこまでも徹底した厳格にして峻厳、完全なもの」。

 そして、ほんじつは、いくつかを付け加えたい。

 「人間は、その不完全さ故に、『厳格にして峻厳、完全な』『神の秩序』に、どこまでもあこがれる存在である。」

 さらにこうも言えるのではなかろうか。
 「どこまであこがれようとも到底到達し得ない…、人間は『そういう』存在にすぎない」、とも。

 「罪からの求愛に呼応して懊悩する」、これは、「あこがれてはくじける」と書くと分かりがよいだろうか。
 そして「ある一点」を超えたとき、突然「神への感謝」へと転じる……。

 「人間は『そういう』存在にすぎないという認識」、これが「量的には」なんらの変化もないにもかかわらず、しかし「向き」ががらりと変わる…、そういう印象を持つ。
 換言すると、「ベクトルの長さは不変だが、その向きがくるりと変わった」、そういうイメージだろうか。
 このイメージ、それは日本語でいうところの「回心」、これがしっくりくるように思える。
(「新生」、「よみがえり」等よりも、という意味で。)

 「罪」、この大問題についての「今後のアイデア」として書き留めた以上のものではない…、この小記事をそう位置づけてくだされば幸いに思う。
 そして、「罪」、これは「十字架」という重大問題と対にして捉えるもの、そのことに留意していることを付記しておく。
 罪と赦しは、やはりセットだろうという観を強く持つので、「十字架」を語らない「罪」の議論には、さほどの意味はない、という前提の上に立脚していることも記しておこう。
 更に、「罪」自体を捉えようとするとき、「律法の存在」が大前提だ、このことについて確信を少し深めたことは、ほんじつの収穫だ。

 そういうわけで、なおのこと、ほんじつのこの小記事は「書き留め」以上の意味はない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『ネルソン伝に序す』より

 「然れども国民の声は神の声なり、国民の理想に循《したが》ひしものにして天理に反《そむ》きしものは甚だ稀なり、能《よ》く国民の志望を充たせし人は常に能く人類の幸福を増進せし人なり、ネルソンは英国民の理想に応《かな》ひて世界進歩に偉業を呈せり、英国に忠実なりし彼は人類全躰の恩人なり。
 然れどもネルソンの勲績は……、陸にウエリングトン公あり、海に提督ネルソンありて『義務』の念は永久に英国軍人の脳裡に打ち込まれたり。」
(内村鑑三、明治27年11月したためる。青空文庫から引用。)

---

 ある方から、それは便利なサイトをご紹介いただいた。
・国立国会図書館デジタルアーカイブポータル(ndldap) - デジタルアーカイブ統合検索

 いやーこれはありがたい!
 さっそく試みに「内村鑑三」と入れてクリック。
 出てくる出てくる。
 「ネルソン伝に序す」、これなどは、私は探そうと思って探すことのできる文書ではないから、喜んでダウンロードし、なにしろ短文なので目を通す。
 冒頭の引用は、その一部より。

 「然れども国民の声は神の声なり」で始まり、「提督ネルソンありて『義務』の念は永久に英国軍人の脳裡に打ち込まれたり」で終了する形式、そこに注意が行った。
 ここから想像を膨らませるに、「英国軍人の脳裡に打ち込ま」れし”精神”が「国民」を培うのではなかろうか、と。
(”精神”という用語が誤解を招きやすいことについては、ただただ語彙不足をご了承いただきたい。)
 言い換えると、(当時の)英国民がネルソンを生み、そのネルソンが英国民を育んだのではないか、と。

 明治27年、1894年。
 110年も前の、遠い外国に材を採った昔話でございました。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『福音書はすべての人に語りかける』仮説

 「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。」(マルコ2:14)

---

 本ブログの「ブックマーク」欄に、私こと Levi のホームページへのリンクを張っている。
 そのホームページのトップには、なぜ私が Levi を名乗るか、そのことを(少しばかし)紹介させていただいている。やはり冒頭のマルコ伝聖書箇所を引用して。

 自分は実に、「取税人だった」……。
 福音書が私に、「そう語りかけた」。
 あれは、ゆうに3年は前のことだ。

 あるいは「ゲサラの狂人」が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マルコ5:1-15)。
 あるいは「長血を患い続けた女」や「ヤイロ」、その人達が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マルコ5:22-43)。
 あるいは「百人隊長」が、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マタイ8:5-13)。
 さらには、「律法学者、パリサイ人」らすらも、福音書を読む人に語りかけてくるかも知れない(マタイ23章)

 こう挙げてゆくと、福音書は古今東西のすべての人に語りかけているように思えてくる。
 「良い地」(マルコ4:8,20)でさえあれば、いつかは「福音書の語りかけ」が耳に届くのではなかろうか。
 昨日の記事「アウグスティヌス紹介」でも、彼の十代後半の頃の記事として、既に「神と共に生きる真実の休息をこいねがう」という章題が見いだされる。
 あれだけの荒れようだった彼も、実は「良い地」だったように思える。
 私事で恐縮なのだが、中学1年の頃には「ざんげ」観念は、自身の内にはっきりと芽生えていた(だから「苦しんでしまう」ことになると思う)。それをもって自らを「良い地」だったとするのは、無論傲慢にすぎる。ただ思う、「良い地」たらんと欲して「良い地」になれるものではなかったと。
 そうすると「まじめ」はいいこと、心底そう思う。
 また、「ふまじめな人」のなかにも、それこそ「良心のかけら」がきらめく。
 これも私事で恐縮なのだが、私の亡き父の処世術、それは「ワル」だった。
 葬式の時でさえ言われたのだから、「ワルぶり」はよっぽどだったのだろう。
 そんな「ワルの」亡き父も、しかし子どもには良くしてくれた(それも様々な意味で)。
 だから、「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ7:7)、この通りだ。

 さてほんじつ冒頭の聖句を引用して、我が身について再確認する。
 「私はまったくもって取税人だ」、と。
 そして、それでいいと思っている。
 「取税人」を受け入れた上で、では、「どのように取税人を生きるか」、そういう割り切りだ。
 ザアカイが取税人を辞したわけではない(ルカ19:1-10)。
 「取税人」は「律法学者」には、なりようがないではないか。
 「まじめ」な私は、「ふまじめ」の試みも「ワル」への転身も、到底叶わなかった。
 「まじめ」は「まじめ」なのであり、「まじめ」を受け入れた上で「そのまじめさ」をどう生かすか…。

 さて、ほんじつも「まじめな取税人のいちにち」を始めますか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アウグスティヌス紹介

 「第二巻
  青年時代にすすみ、十六歳のとき、学業を中断して父母の家で、
 放埒な生活をはじめ、特に仲間とともに犯した窃盗をもっともきびしく裁く

    第一章 青年時代とその罪の回想
    第二章 放縦の生活に身をゆだねる
    第三章 学問を止めて家にかえる。父母の配慮
    第四章 仲間と犯した窃盗のこと
    第五章 罪の動機について
    第六章 (略)
    第七章 (略)
    第八章 共謀の心理
    第九章 罪は悪い仲間によって助長される
    第十章 神と共に生きる真実の休息をこいねがう

  第三巻
   ……ある不純な恋愛関係……、、十九歳の時キケロの書物「ホルテン
  シウス」を読んで、知恵の愛を呼び起こされた。またマニ教徒の迷妄に
  陥ったが、…。……。

    第一章 愛を求めてそのとりことなる
    第二章 演劇に熱中する
    第三章 学校生活では、首席をしめたが、乱暴者たちの行為を
         嫌悪する
    第四章 キケロの「ホルテンシウス」を読んで、知恵の愛を
         呼びおこされる
    第五章 聖書を読んでその文体の単純なのに失望する
    第六章 マニ教の迷妄のとりことなる
    第七 ~ 十一章 (略)

  第四巻
   (冒頭言略)

    第一章 みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、
         人を欺く
    第二章 弁論術を教え、ある婦人と不純な関係を結び、
         いかがわしい占星家を軽蔑する
    第三章 占星術を信じて、老練な医師や友人の忠告にも
         したがわない
    第四 ~ 第十六章 (略)

  第五巻
    二十九歳のときの体験を語る。マニ教の有名な司教ファウストゥスに
   会ってその無知さを知り、……捨てた。母の意志に逆らってローマに
   行き弁論術を教え、同じ学を教えるためにミラノに移る。(以下略)
    第一 ~ 第十三章 (略)
    第十四章 アンプロシウスの説教に心を動かされて、邪教を捨てる
          ようになる

  第六巻
   ……。かれは三十歳になったが、……。……、再び古い罪に陥り、
  たえず死と審判の恐怖におびやかされる。

    第一 ~ 第十章 (略)
    第十一章 いかに生きるべきか、その道を知らない
    第十二 ~ 第十四章 (略)
    第十五章 古い女とは別れたが、また新しい女と交わる
    第十六章 たえず死と審判の恐怖におびやかされる

  第七巻
   ……、三十一歳のときを回想して、……。……カトリック教会の教えを
  全面的に承認することはできない。……悪の起源について煩悶する。
  ……。

    第一、二章 (略)
    第三章 自由意志が罪の原因である
    第四章 (略)
    第五章 さらに進んで悪の起源をたずねる
    第六章 占星家を斥ける
    第七章 悪の起源をたずねあぐんで悩む
    第八 ~ 第十九章 (略)
    第二十章 プラトン派の書物を読んで、認識は開けたが、
          傲慢も増長する
    第二十一章 (略)

  第八巻
   (冒頭言略)

    第一 ~ 第四章 (略)
    第五章 古い意志に捉えられて、回心することができない
    第六章 (略)
    第七章 ポンティキアヌスの話に深く感動して、自分の身の
         不幸を嘆く
    第八章 庭園に逃れ、内心の争闘
    第九、十章 (略)
    第十一章 霊と肉との闘争
    第十二章 「取って読め」 - ついに回心
    (以下略)
(「告白(上)」、聖アウグスティヌス著、服部英次郎訳、その見出しを抜き出した)

 「……、かれの内心の争いが最高潮に達したとき、アウグスティヌスはある家の庭で苦しんでいたが、子供の「取って読め、取って読め」とくりかえす歌声のようなものを耳にした。かれは有名な修道士アントニウスがたまたま教会の福音書朗読で聞いた聖句(「マタイによる福音書十九の二十一)を神の声と考えて、神のもとに立ち返ったということを思い起こして、かの子供の「取って読め」という声を、聖書を開いて最初に目にとまる句を読めという、神の命令だと考えた。ところで開いてみると、そこには、「宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いと妬みをも捨てて、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を満たすことに心をむけてはならない」(「ローマ人への手紙」十三の十三 - 十四)としるされてあった。これを読み終わると、かれの心は、平安の光に満ちあふれて、疑いの闇はまったくなくなった。」
(「告白(下)」、聖アウグスティヌス著、服部英次郎訳、彼による解説 p.275 より引用)

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14新改訳)

---

 見出しを抜き出す作業にひどく時間を要したのだが、その甲斐はあったように思う。

 上に一部を引用させていただいた「解説」を更に読み込むと、彼の回心は32歳のとき、「告白」執筆完成はおおよそ48歳の頃ということがわかる(当初、この書は「懺悔録」と呼ばれていたとのこと)。
 すると、「48歳の彼」が、「罪深かった歩み」、それに気付く「苦しみ」、そして「克服(すなわち回心)した32歳」、こういった流れにのっとり回想した書……、今の私の、この本への捉え方だ。
(この観点から、「抜き出し」に際して、一部の寄り道や些細に思えた事項を省略させていただいた。また、回心後は全て省略した。)

 その「抜き出し」をざっと俯瞰して、私が最も注目するのは、以下の「章」だ。
 「第七巻 第三章 自由意志が罪の原因である」。

 「自由意志」(自我)はデカルト以降かと思いこんでいたが、「自我」ということばには至らないまでも、とうに「自我」に悩んでいたことを見いだしていたとは!
 私も「自我」には、…実に、悩まされた! 「内心の争闘」とは、よくぞ言ったものだ。
 いっときなど、「デカルト諸悪の根源説」を本気で思ったほどだ(随分前のことだが)。
 「自我という概念」、これは人類普遍のもの…。
 これを知って、しんから安んじた。
 なぜといって、「自我」そのものはあるとして、では「自我」をどうするか、ということに考えを進めることが叶うのだから。
 そう、私は「自我」に、「悩まされ続けて」いる。
 実にまったくなんにも変わらない。
 だが、「自我という概念」に対する見解、これが180度変わった…。

 「自我」をどう取り扱うか…。
 もしかすると、「『取り扱い』そのものをイエスに丸投げする」、この地平線が見えてくるような気がする。
 「地平線」、これがほんじつの収穫物。

 そういうわけで、デカルト(? 思いこみに基づいている)には、寧ろ「自我」を「発見」してくれてありがとう、という感に様変わりした。
 学生時代に面白く読んだ「方法序説」を、再読してみようか。
(「当時かろうじて分かった」という安易な理由で取り上げたにすぎなかったのだが、リンク先を調べると安価なのがよろこびだった。「告白」も、ぜひとも再販してください。)

 「抜き出し」を再度俯瞰すると、意図的な抜き出し故なのだが、返す返す興味深い。
 逆説めくようだが「罪から愛されるほど、罪赦される」…。
 …どうも切れ味がよくない……。
 「抜き出し」作業で疲れたことにしておこうか。
 しばらく、アウグスティヌスで行きます。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

聖書の『背骨』

 「聖書は一名これをイエス・キリストの伝記といってもよいと思います。その旧約聖書というものは、キリストがこの世に生まれてくるまでの準備を述べたものであって、新約聖書はキリストのこの世における行動や、あるいは直接キリストに接した人の言行等を伝えたものであります。もし聖書の中からキリストという人物を取り除いてみるならば、ちょうど穹形(ゆみがた)の石橋から枢石(かなめいし)を引き抜いたようなものでございまして、その全体が意味も形像(かたち)もないものとなるだろうと思います。聖書が解しがたいのは文字のゆえではなく、また理論が込みいっているわけでもなくて、実にキリストがその枢石であることがわからないからでございます。」
(『一日一生』 5月18日の項、岩波全集版?)

---

 過日、ある方から、上の引用を頂戴した。
 「こういうことですよね」、と。
 ええ、そう思いますとも。
 内村鑑三の冒頭の引用、それと今の私の思うところ、それは実に、相似形だということを確信させていただきました(無論私の方が「小さい」わけですが)。

 「一日一生」。
 この本は、私は三冊保有している。
(1)教文社版(生誕百年記念版、昭和35年、山本泰二郎 編)
(2)角川文庫版(昭和45年、武藤陽一氏による解説付)
(3)教文社版[新版](鈴木範久氏による解決付)

 私は昔日、(1)に随分親しんだ。
 今思うと、これが「内村鑑三との邂逅」であった。
 (3)は、聖句を新共同訳に、また本文を口語体に翻訳してあるので購入してみた。ちなみに、1度めくっただけだ。
 (2)は古本屋で見かけて購入した「単なるコレクション」…、そう思って取り出してみたら、かなり詳細な解説が付されていることに気付き、「じきに読む予定」に押し込んだ(ちなみに、安く入手できた覚えがある)。
 「冒頭の引用」は、もっぱら「便利なので」、ある方が下さった「引用」を、そのまま用いさせていただいた。
 上記(1)ないし(3)のいずれとも、冒頭の「引用」とはニュアンスが異なっていたので、おそらくは岩波全書版と想像するが、もし違っていたらご容赦願いたい。

 「実にキリストがその枢石(かなめいし)」、そう、聖書はそういう書物と今は思っている。
 「福音書こそ聖書の『背骨』」仮説。
 いつだか福音書について書いた頃から、それは思っていた(だからこそ書いた。リンク省略)。
 分けても「ヨハネ伝は『脊髄』」仮説は、さすがに今は、踏み込みすぎだろうか。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

ヨセフ、彼のほんとうの成功

 「ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。
 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」(創27:18-20)

 「さて、ヤコブはユダを先にヨセフのところに遣わしてゴシェンへの道を示させた。それから彼らはゴシェンの地に行った。ヨセフは車を整え、父イスラエルを迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた。
 イスラエルはヨセフに言った。「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」(創46:28-30)

---

 「成功哲学」なる「概念」があることを、かなり前に知った。
 「ブログランキング」というサイト?を眺めると、「成功哲学」のひとことで括ってしまうことのできる、それはそれは多くのブログ群が上位に陳列されている。
 新聞での本の広告群に目を見やっても、「成功哲学」にカテゴライズされるタイトルを多く見かける。

 さて、ほんじつのタイトルを、「ヨセフ、彼のほんとうの成功」とした。
 ヨセフというと、大方の人は、彼の宰相就任、そしてその政治手腕発揮、この「豪華絢爛絵巻」の方に目がゆくのではなかろうか。
 教会の説教で観た(!)「ヨセフ」のビデオも、「宰相就任時の就任儀式の豪華絢爛さ」の箇所にばかり、やたら長大な時間を割き、また細かいディテールを追求していた(つまりそこにお金を掛けた)、そんな記憶が蘇る。
(今売っているのかを、私は知らない。ボロモデムでネットがつながらないし。)

 ところで今私が「追求している課題」、その第一は、聖書。
 その第二は、「家庭」である。
 ほんじつは、この二兎を敢えて追ってみよう、そう思い立ち、それで創世記をぱらぱらめくり、そして、冒頭に挙げた2つの聖句を選んでみた。
 前置きが長くなった。

 「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、それは、「あの豪華絢爛絵巻の世界」ではない、これが今の私が思うところだ。
 創世記には、何人もの人についての物語が、それは丹念に描かれている。
 アブラハム。
 その子イサク。
 そしてこのイサクの子、ヤコブ(イスラエル)。

 冒頭に挙げたのは創世記から、2箇所。

 ヤコブという男の若かりし頃、彼は「どうしようもない」人間だ。
 冒頭に挙げた聖句、その1つめ、こここそ「そのどうしようもなさ」の頂点である。
 お父さんであるイサクは年老いて、ろくろく目も見えない。
 正にイサクのその弱点を突く形で、冒頭の聖句通り、平気でウソをつく。
 「私は長男のエサウです」、と。
 重ね重ね、「どうしようもない奴」だという感をもつ。
(「愚母の教唆」、この点も無視できないと思うが、これはいずれ書くかと思う。)
 ヤコブ、彼の苦渋に満ちた波瀾万丈の人生は、実にここから始まったように思える。だが今は「ヤコブ物語」は、さて措こう。
(対比して、「イサク物語」は、おおむね平穏な印象を受ける。)

 このヤコブの子どもたち・12人兄弟の末っ子、彼こそヨセフ。
 この「ヨセフ物語」について……。
 彼の悲惨な境遇。
 なにしろ父・ヤコブの愛情を独り占めしてしまうものだから、当然のように兄たちからひどいいじめを受ける。
 またヨセフも、「若い」。
 というか「幼い」。
 暖かみを持って換言すれば、「あどけない」。
 兄たちに捨てられて隊商商人に拾われエジプトに連れて行かれ、そしてかの地で、奴隷として売られてしまうヨセフ(創37:26-28,36参照)。
 この「ヨセフ物語」も大幅にはしょって、上に書いた宰相就任とその政治力発揮の箇所。
 ここに「ばかり」目が行き「ヨセフは大成功を収めました、おしまい」……、これこそ冒頭に記した「成功哲学」的な読み方だろう。
 「まだ先があるだろうに、この物語は」、私はそれを言いたく筆を執った。

 冒頭に取り上げた2番目の聖句。
 父ヤコブ(イスラエル)が、老体に鞭打ちエジプトまで赴き、そうして、「それは可愛い末っ子」ヨセフとの再会の場面、その頂点。

 「家族の和解」。
(創48:14-49:1に注目されたい。)
 4000年に渡って綿々と続くユダヤ人の血筋、そのほんの最初の頃の物語だ。
 その頃の「4000年前の家庭回復」の物語……。
(なお、例えばマタイ1:1-17にて特異に見られるように、ユダヤ人は血筋を重視すると、しばしば聞いた。)
 「ヨセフ、彼のほんとうの成功」、これを今の私は、「家庭回復」に成功した点に見る。
 なぜなら、この一点にこそ、実にユダヤ人4000年の歴史、それが幕を開けるのであるから。

 この「成功」の過程を俯瞰してゆく中で、どうしても外せない要素がある。
 「世界中を襲った大飢饉」。
 これなくして、ヨセフはあれだけの政治力を発揮できなかったであろうし、ユダ達がエジプトの地に向かうこともなかったはずだ。
(創41:57、創42:3に注目のこと。)

 「この大苦難」、その克服なくして「成功」なし……。
 そのような「広い意味」では(巷間言われているそれとは全く異なる意味で)「成功哲学のほのかな香り」、それを「ヨセフ物語」から私はかぎ取る。
 実にいにしえの昔から、東西多くの人が、その人その人の切り口で、この「広い意味」について論じているような気がするのは私だけだろうか?
 ヒルティも、ことある毎に語っていることを、日々知り続けている。
(「幸福論」に、まとまった論考があるそうだ。)
 「成功」という「ことば」を用いる、今の世の中では「ある種の誤解」を受ける危惧を抱いている、そのことは付記しておこう。

 「家庭の回復」、これが今、私の追い求めている「第二の要素」であることは、前置きした。
 であるから、「ヨセフ物語」を「ビデオの観点」とは全く異なる観点からほんじつ書き進めたというのは、今の私の我田引水であると率直に思う。
 「家庭の回復」。
 これをもっともっと大々的に追求している人を、今のところお二方、私は知っている。
 小説家の小川洋子氏。
 「博士の愛した数式」の著者と書けば、現代日本人もおおかた「ああ、あの人…」と頭をよぎるものがあるかも知れない。
 もうお一方、哲学畑出身の信田さよ子氏。
 この人は、…ある意味、「戦っている」という印象すら受ける。
 一方私はというと、「とあるビルに籠もって、もっぱらデスクとパソコンが与えられて日常業務を日々こなすだけの『ただの男』」であって、上に挙げたお二方の足下にも及ばないものである。
 そうと理解しつつ、「オフはもっぱら(聖書と)家庭」を「自分なりに」追求してみよう、そう静かに決意する自分を、今こうして筆を進めていっても、思いを新たにする。
(「第三の課題」、それはそういうわけで、「後々の作業」との位置づけだ。)

 二兎を追うの愚、その試みの「成功」のジャッジ、それは読者にお任せするほかない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

イエスから学ぶもの

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

---

 「あー極楽極楽」、温泉に浸かったときの、お定まりの第一句であろうか。
(ちなみに私は、「温泉」という趣味を有さない。)

 イエスがなぜゆえに来られたか、それは何度も書いているように「永遠のいのち」を「死人たち」に与えるがため、これが今の私の考えである。
 冒頭の聖句で言えば、「たましいに安らぎが来ます」、これは「永遠のいのち」を言い換えた言葉、そういう捉え方だ。

 では、「どうすれば」「たましいに安らぎが来」る、そうイエスは仰っているか。
 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば……」。
 メソッドにすることは全くもって不本意であることを予めお断りした上で、あえて次の2点を箇条書きにして抽出する。

1.「わたしのくびきを負」うこと。
2.「わたしから学」ぶこと。

 1について、イエスは手を変え品を買え、福音書の中で繰り返し仰っていることだ。例えば下記の聖句に、私はその典型を見る思いを持つ。

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)

 寄り道になるが、いつだったろうか、「マモン(富)」について書いた。
 現代的な用語を用いるならば、「マテリアル」、このことばが一番包括的な表現として適っていると思うので、以降はもっぱら「マテリアル」と書く。
 どんなに遅くとも産業革命以降は、実に人間は「マテリアル」をもっぱら追い求める存在であり続けたように思う。
 マドンナという米国人歌手による「マテリアル・ガール」が流行したのは、私の高校生の頃だろうか。
 正に、「マテリアルワールド」だという感がある。
 そして、今の私は、「マテリアルワールドそれ自体の中で、『いかにしてマテリアルとお付き合いするか』、換言すると、『いかにしてマテリアルとの距離感を保つか』」、これを試みているさなかにある。
 お給料を素直にただ感謝して頂く身、それ以上でもそれ以下でもない。
 ためらいつつも踏み込んで書くならば、「マテリアルワールド」だからこそ、その「ワールド」の中にあっての「神からの恵み」という、そんな位置づけであろうか。
 ただ、「頂いてから」、ここが非常に問われているように思える。
 例えると、「もらった分だけショッピングして全部使って、で、来月の給料日が早く来ないかなー…」と、自らが「ワールド」に積極的に参入する、これは止めようということである。
(ここに例示した「人間像」こそ、それこそマモンの奴隷ではなかろうか。)

 また、内村鑑三は、何かの著書にて、大略次のようにしたためている。
 いわく、ジンギスカン、彼はあれだけ広大な領土をものにし、そして首府サマルカンドに「諸国の王」に招集を掛けて集め、彼の前に彼らを土下座「させてみる」のだが、このとき彼は側近につぶやいた。「どうにも、むなしいものだ……」。
 いわく、豊臣秀吉、彼は日本統一を果たし朝鮮半島にまで手を伸ばし、そうして今際の際に詠んだ句は「夢のまた夢」という、人生の虚しさについてのものだった……。
(どの本の中での記述なのかを探す作業を途中で放棄して、遠い記憶を頼りにして書いたことをお断りする。内村鑑三の書きぶり、そのインパクトが強かったから、私もこのように「概略」を覚えている。「この記述」がどの本であるのかをご教授いただければ、存外の喜びである。)

 マテリアル、そして名誉欲。
 なんとむなしいものではないか。
 追い求めても追い求めてもなお、キリがない。少し前に取り上げた「サマリアの女」、彼女もそうだ。これは快楽の奴隷だ。

 「空の空」(伝1:2)、ああ、その、なんとむなしいものよ。
 ただ、この「空の空」が「こころに引っかかって」、そして「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学」ぼうとするならば、「宝物」を得ること叶う、この事もまた、福音書の中でイエスが一貫して仰っていることだと思う。
 そうして、「空の空」から「卒業」できるのならば、それこそ「伝道者の書」は御用済みになる。
(逆に言えば、伝道者の書が「入門書」になるのならば、これは幸いなのではないかと、今の私はそう思う。「1週間前の私」とは、この書物についてやや捉え方が異なってることを付記する。)

 「いのちを救おうと思う者」はもっぱらマテリアルや名誉欲または快楽「のみ」を追い求め続けている…、これはさすがに言いすぎであろうか。

 最も身近な福音書、この中にも、「マテリアル人間」とイエスとの対比構造が描かれている。
 マタイ19:16-22。俗に言う「金持ちの青年」の箇所だ。
 彼はイエスに訊ねる。「永遠のいのちを得るためには、……」。
 イエスとのやりとりを経た彼は、「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」と、マテリアルを惜しんでイエスの元を去っていった…。
(なお、ここでイエスは、彼を「鼻であしらった」という感を、私は持っている。なぜなら、イエスは端的に「律法」を「突きつける」のだから。)
 彼は、イエスの呼びかけ「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」という「よきおとずれ」を「理解?」できず、結局は「マテリアルワールド」の道を選択した恰好になる。

 しかしながらそれにしても、現代のこの「マテリアルワールド」にあっても、「永遠のいのち」にあずかる人々が存在する、それも少なからず存在するという「事実」は、注目に値する事項と思う。

 話を冒頭の聖句に戻そう。寄り道がすぎた(しかし、寄り道は大切だとも、また思う)。

 2.「わたしのくびきを負」うこと。
 これもイエスは、言葉を換えて何度も仰っている。
 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)
 そう、「わたしのくびき」、即ち「自分の十字架」。
 この「自分の十字架」とは、神から課せられた使命の類である。
 「自ら探し出す」類のものではおよそない……、今の私が意を強くして思うところだ。
 かくいう私にとっての「自分の十字架」、「神から課せられた使命の類」、それは平日の職務、またもっぱら休日での「聖書」についての雑論記述…、そのような想いを日に日に強くしている。
 これもまた、「自ら探し出」したわけでは、全くない。
 あれこれと「整理作業」していって、そうして不思議と定まっていった「軸」、そういう感が日に日に強くなってゆく。
(試みに、ブックマークからリンクしてある私のホームページにアクセスされたい。今は、この「ホームページ」を乱雑かつ急速に書き進めている最中である。当該ホームページ、本聖書ブログ、また、やはりリンクしてある「日記」、これらを書き続けているのが今の私であり、また、これらを書けば書くほどに、不思議と「軸が更にしっかりと定まる」感を持つ。更に付言するに、本「聖書ブログ」を、9月に入ってから「急に」真摯な取り組みをし始めた「事実」、このことをご留意下されば幸いに思う。)

 「あなたにとっての十字架とは?」…、それは私の「責任外」だ。
 主導権は、どこまでも神なのだから。

 さて次に、「わたしから学」ぶということ。
 聖書、わけても福音書があるではないか、端的にこのことを指摘するだけで必要にして十分と思う。
 何度も引用しているのだが、重複を厭わず引用する。

 「もしあなたが人生の幸福を心から望むならば、キリスト教を神学や教会主義と取り替えてはならない。むしろ、あなたは自分でキリスト教をその源において、即ち、福音書のうちに、とりわけキリストみずからの言葉の中に、求めなさい。」
(「眠られぬ夜のために・1」、ヒルティ著、草間・大和訳、岩波文庫。その「1月1日」の項より)

 重複を厭わず何度も引用するのは、3年前にこれを読んで単に通りすがった私が、昨今この言を思い出し、それで飛びつくかのようにもっぱら福音書ばかり読み込んだという、この「エピソードの賜物」、そのような「理由?」のように思う。
 ヒルティが「このこと」を「1月1日」、すなわち「最初に」したためた理由が、今にして分かるような気がする。

 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」、私には重く感じます。
 イエスは「極楽極楽」に誘いたいのではない。
 「極楽だけれど、ちょっとは『荷を課す』よ」という意味には、今の私には到底解せない。
 重たいんだ。ずしりと。
 これを、……やはりかつぐ、日々、一歩一歩……。
 上に書いたが、やはり「自分の十字架」だと、腹をくくっている。
 「腹をくくる」、全く幼稚な仮説以上のものでしかないのだが、あるいはこの言葉は、「最高刑の十字架に掛かって『死ぬ』ということ」、その言い換えなのかも知れない。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」、ここ最近私が綴っているように、実に実に、「マテリアルワールド」の中で、みながそうなのだと思う。
 電車の車中で人々を観察していると、その感が強くなる。
 そんな彼らにイエスはいざなう。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」、と。
 そうしてイエスは約束する、「そうすればたましいに安らぎが来ます」。
 言い換えると、「永遠のいのち」だ。
 「マテリアル」、それは旧約における、とうに過ぎ去った約束でしかない。

 今手元に聖書がある人は、幸いだと思う。
 この「小さな書物の中」にこそ、実に実に「全て」がある。私の確信するところだ。その確信に基づいて、今日もこうして書いている。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )

『平和』ではなく『剣(つるぎ)』

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)

---

 イエスは、冒頭のマタイ伝聖句のように「宣言」し、その上で「3年間の宣教」を経て十字架に掛かった。そして、復活…。
 これが、「よきおとずれ」、言い換えると「福音」、そのアウトライン…、このように総括するのは、いささか乱暴にすぎるだろうか。

 さくじつ書いていたように、「人間界」はみな「死んでいる」状態にある…。
 だからこそ神たるイエスが、「この地」に来られた。
 もっぱら「死んでいる人」に「永遠のいのち」を与える、そのために。

 「死んでいる状態の人間界」、その改革なのであるから、それこそ正にタイトル通り、「イエス」というのは『平和』ではなく『剣(つるぎ)』なのか、そういう思いが募る。
 この「剣」でばっさり斬られるとき、彼は全世界をも敵に回さざるを得ない。
 まさしく「家族の者がその人の敵となります」とあるとおりに。

 そうして斬られて斬られて、全世界が敵となり、遂には最高刑の十字架に処せられて「それこそ死んで」、そうして「永遠のいのち」、これを得ること叶う…。

 こう書き進めてゆくと、ルカ伝との「かみ合わせ」がはなはだ悪い、……ふと、そんな感が頭をよぎった。
 ややあわててルカ伝を開いてみると、私が念頭にあった聖句、それは正確には、次のように記されていた。

 「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ伝2:13-14)

 「平和が、御心にかなう人々にあるように」。
 なるほど神は、それは注意深く整合性を取っているように素直に思えたので、安んじた。
 やはり聖書、それも、なんといっても福音書なのだ。
 神に抜かりがあろうはずがない。
 「御心にかなう人々に」は、なるほど確かに最終的には「平和」が叶うに違いない。
 この「平和」、それを言い換えると、「新しいエルサレム」(黙21:2)なのではなかろうか……、今の私は、ぼんやりとそう想っている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

死人たち

 「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:22)

---

 先日、「サマリアの女」についてしたためた。
 そして私は、このサマリアの女が「死んでいる状態にある」ということ、また、そのことをイエスは端的に指摘したことを綴った。
 そして、その「死んでいる」人に「永遠のいのち」を与えるがために、もっぱらイエスは来られたのだ、ということも。

 聖書(分けても福音書)のメッセージは、一貫している。
(ルカ伝だけは「サービス精神」が旺盛にすぎて、その当然の帰結として誤解を生みやすい、そういう想いを持っていることも、少し前に記したと思う。)

 今日の聖書箇所も、その「一貫している」メッセージ、そのほんの一箇所を採り上げてみた。
 イエスは言う。
 「わたしについて来なさい」と。
 実にこれぞ、唯一無二の処方箋なのだろう…。
 その感を、日に日に強く持つ。

 ここで問題となるのはもっぱら、「わたし」とは誰か、ということである。
 牧師ではない。イエスである。
 私は教会を全否定する者ではない。
 このことは何度か重ねて表明してきたところである。
 だが、「教会という装置」は、実に「この手の勘違い」をしばしば招きやすい「装置」であるという感、これもまた、日に日に強く持ちところである。

 今、1テモテと2テモテを、ざっと俯瞰した。
 「1テモテ3章」、こういうを「指示」を出すからこそ、「教会という装置」はなるべくしてこうなったのだな、その確認作業以上のものではない。
 「監督」、……ねぇ(註:1テモテ3:1)。

 繰り返すが、イエスが自身を指して、「わたしについて来なさい」と言っていることにご留意いただきたく思う。
 「監督についてゆく」のでは、ない。
 そしてこれも繰り言なのだが、教会というところは、この「監督」が前面に出て指導を行う、そのような場所だというのが今の私の認識だ。
 このことそれ自体は、大方の人の同意を得ることができると思う。
 そうなると、上に書いた「勘違い」が生じるのは、寧ろ当然のように思えてくる。
 これこそ「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせ」ることの愚ではないか、と。

 重複を厭わず何度でも書くが、私は教会を全否定する者ではない。
 「教会ニーズ」、これは潜在的に、とても大きい。
 この私にしても、今だに愛用する「最初に自腹を切って購入した聖書、この宝物」、これは、教会の「事務」が夜もたまたま開いていたからこそ入手すること叶った物なのだから、そういった点で、「教会」への恩義はやはりある。
 寄り道になるのだが、我が家には何冊も(下手すると何十冊も)聖書が転がっているのだが、どうしたわけか、それらは全く開く気にならない。不思議なことだ。「最初に手にしたぼろぼろの聖書」ばかりを、開いている。検索ソフトすら、いざというとき以外には用いていない。
 しかしながら、毎日こう書き連ねてゆくと、思うところはある。
 2000年来の神学、そしてその上に成り立つ教会。
 「それ」と今の私の位置、これは、同じように見えて実は対極の位置にある、その構造が、日に日に見えてくるように思える。
 だからといって、特に思うところ感じるところも、また、ない。
 「教会」と「戦う」などということは、それこそ愚の骨頂だ。
 「2ヶ月後の私」が何を書いているのか、それは全く分からないのだが、さしあたり今は「聖書について、教会とは対極の立場にいる」ということの自己確認作業として、この段落を書いてみた。

 最後にこれは、書いておこう。
 実は私は、「教会から破門」された人間である…。
 今思う、「破門」してくれて、ほんとうにありがとう、と。
 「破門」がなければ、一生「ぬるま湯」だったことだろう
 この「ぬるま湯」の粘度の高さといったら、ない。。
 それこそ「死人のぬるま湯」だ。
 ただ、「死人」なりに、様々な事物、書物群に接してきたことは有意義だった、そうとも位置づけることが今はできる。これがあるから、思い立てば、すぐに「1テモテと2テモテを開く」程度の芸当は、あっさりとこなすことができる。
 そうして、今日もイエスについてゆく。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ