イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
礼拝
「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:20-21)
---
最初の患難がヨブを襲ったときの、彼の言。
ちなみに「上着を引き裂き」というのは、サブカルでポッポに言い砕くと、「なんてこった!」というときにやる古代ユダヤ人の仕草。
(やな言葉を使ってしまった。)
この仕草は、どの人も共通だ。
ここからが、ヨブは違った。
「頭をそり、地にひれ伏して礼拝」した。
礼拝。
地にひれ伏して。
しかも頭までそって。
誰が見ているわけでもないのに。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24新共同訳)とイエスは仰った。
このヨハネ福音書の文脈をさかのぼると、礼拝する場所はエルサレムでもないし「この山」でもない、今こそ「霊と真理をもって礼拝」するときだ、と仰ったのち、続けて上のように仰った。
霊としての神を霊としての人が真理のうちにあがめる、礼拝とはこういうものなのだろう。
そしてヨブは、そのような礼拝をした最初の人ではなかろうか。
場所がどこかは、問われない。
どういう行為をし、何を言い何を聴くのかも、本質的に全く問われない。
私もいつしか、そのような真の礼拝を持ちたいものだ。
いくばくか、そのチャンスが多いかも知れない。
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最初の患難がヨブを襲ったときの、彼の言。
ちなみに「上着を引き裂き」というのは、サブカルでポッポに言い砕くと、「なんてこった!」というときにやる古代ユダヤ人の仕草。
(やな言葉を使ってしまった。)
この仕草は、どの人も共通だ。
ここからが、ヨブは違った。
「頭をそり、地にひれ伏して礼拝」した。
礼拝。
地にひれ伏して。
しかも頭までそって。
誰が見ているわけでもないのに。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:24新共同訳)とイエスは仰った。
このヨハネ福音書の文脈をさかのぼると、礼拝する場所はエルサレムでもないし「この山」でもない、今こそ「霊と真理をもって礼拝」するときだ、と仰ったのち、続けて上のように仰った。
霊としての神を霊としての人が真理のうちにあがめる、礼拝とはこういうものなのだろう。
そしてヨブは、そのような礼拝をした最初の人ではなかろうか。
場所がどこかは、問われない。
どういう行為をし、何を言い何を聴くのかも、本質的に全く問われない。
私もいつしか、そのような真の礼拝を持ちたいものだ。
いくばくか、そのチャンスが多いかも知れない。
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本当の義務と人生の任務
「病的な状態は、あまりひどく気にしないでいると、ひとりでに消え去ることがよくある。……各地の療養所にたえず滞在し、無益な、心に慰めのない生活を送っている人たちもいる。このような人たちの多くは、ただ何かなすべき務めを教えてやりさえすれば、救われるであろう。つねに病気がちな人びとに実際に欠けているのは、むしろ本当の義務と人生の任務にほかならぬという場合が、かなり多い」
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の7月3日)
---
書きあぐねてぱらぱらめくって見いだした箇所。
実際のところ、上にあるとおりだと思う。
典型的な例だと、動悸。
心臓に疾患がない場合には、「気にしない」ことによって、気付くと収まる。
では、どのようにして「気にしない」ことができるようになるのか。
「本当の義務と人生の任務」に打ち込むことによって、だ。
「本当の義務」とは、「神の国とその義」(マタイ6:33)。
「人生の任務」、これは多分、望むと望まざるとにかかわらず、今与えられている「仕事」のはずだ。「職務」とか「職分」と言い換えてもいい。
療養所にいるのであれば、出て、「神の国とその義および職分」に打ち込むことを強く勧める。
「療養所」、それは病院のような狭義のものではない。
(実際に心臓に欠陥がある人には、やはり病院で休んで欲しい。)
もちろん、「病的な状態」というのも、狭義のものあるはずがない。
(「眠れない夜のために・1」、ヒルティ、草間・大和訳、岩波文庫の7月3日)
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書きあぐねてぱらぱらめくって見いだした箇所。
実際のところ、上にあるとおりだと思う。
典型的な例だと、動悸。
心臓に疾患がない場合には、「気にしない」ことによって、気付くと収まる。
では、どのようにして「気にしない」ことができるようになるのか。
「本当の義務と人生の任務」に打ち込むことによって、だ。
「本当の義務」とは、「神の国とその義」(マタイ6:33)。
「人生の任務」、これは多分、望むと望まざるとにかかわらず、今与えられている「仕事」のはずだ。「職務」とか「職分」と言い換えてもいい。
療養所にいるのであれば、出て、「神の国とその義および職分」に打ち込むことを強く勧める。
「療養所」、それは病院のような狭義のものではない。
(実際に心臓に欠陥がある人には、やはり病院で休んで欲しい。)
もちろん、「病的な状態」というのも、狭義のものあるはずがない。
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原点
「イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)
---
何年前だろう、この聖書箇所が理屈をはるか超えて「入ってきた」のは。
そのとき以来、私は Levi を名乗り続けている。
マタイでもザアカイでもなく、なぜか私には「レビ」が入ってきた。
この聖書箇所は、そういうわけで、いわば私の原点だ。
レビたちは、「こういう人たち」なる種別だ。
「こういう人たち」は、イエスにつき従っていた。
そのイエスは、彼らと食卓を共にする。
律法学者たちは、そんなイエスを責める。
彼らは、「こういう人たち」と共に食事をすること自体、信じがたい行為だと思っている。
律法学者たちが社会的マジョリティーで、「こういう人たち」は社会的にマイナーな存在だ。
しかし、イエスは次のように仰っている。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)
メジャーかマイナーかは、全く問題ではない。
問題なのは、自身の罪を認めるか否か、そしてそれゆえイエスに癒してもらう必要のある病人であるか否かということ、その自覚の有無だけだ。
その自覚が、「信じる」ということの「大きな部分」を占めていると思っている。
それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:14-17)
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何年前だろう、この聖書箇所が理屈をはるか超えて「入ってきた」のは。
そのとき以来、私は Levi を名乗り続けている。
マタイでもザアカイでもなく、なぜか私には「レビ」が入ってきた。
この聖書箇所は、そういうわけで、いわば私の原点だ。
レビたちは、「こういう人たち」なる種別だ。
「こういう人たち」は、イエスにつき従っていた。
そのイエスは、彼らと食卓を共にする。
律法学者たちは、そんなイエスを責める。
彼らは、「こういう人たち」と共に食事をすること自体、信じがたい行為だと思っている。
律法学者たちが社会的マジョリティーで、「こういう人たち」は社会的にマイナーな存在だ。
しかし、イエスは次のように仰っている。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」(マタイ21:31-32)
メジャーかマイナーかは、全く問題ではない。
問題なのは、自身の罪を認めるか否か、そしてそれゆえイエスに癒してもらう必要のある病人であるか否かということ、その自覚の有無だけだ。
その自覚が、「信じる」ということの「大きな部分」を占めていると思っている。
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罪と恵み
「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)
---
「恵み」。
私はこの言葉が指し示す概念が分からなかった。
それでこの語句を用いることを、意識して避けていた。
今も、はっきり分かったなどとは全く思っていない。
うっすらと見えかけてきた、というところだろうか。
ところであれは何年前のことになるだろうか。
日光(鬼怒川?)にあるキリスト教施設?? そこの常駐牧師がこう言った。
「ここは『たまり漬け』が名物ですが、いやあ、正に『恵み漬け』で……」。
これだけアホな発言だと、今でもはっきり覚えている。
(1度見たきりの牧師の顔は全く覚えていないが。)
思ったものだ。「それって、心地よかったとか、爽やかだとかいうのと、いったい何が違うというのだろうか……」。
この「牧師発言」が、私の「『恵み』って何さ?」ということの原点になった。
それで「恵み」という言葉は分からない、と、やり続けた。
その……なんだかんだとあってぐちぐち言ったり感情の起伏が大きかったり云々かんぬんしていても、そのさなか、ふと、しんからほっと一息つける。
これは、「恵み」と言っていいのだろう。
「満ちあふれている」かどうか、それは知らない。ここに量りはない。
ただ、これはそうだと思うのは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という箇所。
罪の自覚が累積してゆくと、あるところで神の恵みを受けることができる(または、恵みに与りやすい)。
罪、それは律法に照らし合わせて判断される。
誰が?
声を大にして言いたいが、自分自身が判断主体だ。
というより、自分自身で気付かざるを得なくなる。十字架が大きく大きく迫ってくる瞬間だ。
だから、罪と恵みとが対置される。
更に言えば、罪と恵みとは、「イエスの十字架」という接着剤によってはじめて対置される。
「罪が死によって支配したように」とあるように、罪は「死」を武器としてその人に働くから、その人は十字架のイエスと共に、死ぬ。
そして、復活し、恵みのうちにその人は生きる(参/ローマ6:4-5)。
日光の「施設」の牧師は、今日もたまり漬けを頬ばりつつ、それが「恵み」と思っているのであろうか。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)
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「恵み」。
私はこの言葉が指し示す概念が分からなかった。
それでこの語句を用いることを、意識して避けていた。
今も、はっきり分かったなどとは全く思っていない。
うっすらと見えかけてきた、というところだろうか。
ところであれは何年前のことになるだろうか。
日光(鬼怒川?)にあるキリスト教施設?? そこの常駐牧師がこう言った。
「ここは『たまり漬け』が名物ですが、いやあ、正に『恵み漬け』で……」。
これだけアホな発言だと、今でもはっきり覚えている。
(1度見たきりの牧師の顔は全く覚えていないが。)
思ったものだ。「それって、心地よかったとか、爽やかだとかいうのと、いったい何が違うというのだろうか……」。
この「牧師発言」が、私の「『恵み』って何さ?」ということの原点になった。
それで「恵み」という言葉は分からない、と、やり続けた。
その……なんだかんだとあってぐちぐち言ったり感情の起伏が大きかったり云々かんぬんしていても、そのさなか、ふと、しんからほっと一息つける。
これは、「恵み」と言っていいのだろう。
「満ちあふれている」かどうか、それは知らない。ここに量りはない。
ただ、これはそうだと思うのは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」という箇所。
罪の自覚が累積してゆくと、あるところで神の恵みを受けることができる(または、恵みに与りやすい)。
罪、それは律法に照らし合わせて判断される。
誰が?
声を大にして言いたいが、自分自身が判断主体だ。
というより、自分自身で気付かざるを得なくなる。十字架が大きく大きく迫ってくる瞬間だ。
だから、罪と恵みとが対置される。
更に言えば、罪と恵みとは、「イエスの十字架」という接着剤によってはじめて対置される。
「罪が死によって支配したように」とあるように、罪は「死」を武器としてその人に働くから、その人は十字架のイエスと共に、死ぬ。
そして、復活し、恵みのうちにその人は生きる(参/ローマ6:4-5)。
日光の「施設」の牧師は、今日もたまり漬けを頬ばりつつ、それが「恵み」と思っているのであろうか。
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何一つ
「そこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」(ヨハネ12:19)
---
この人たちは、「なにもかもうまくいく」と思っていて、実際今まではそうだったのだろうか。
まあ、今まで「なにもかもうまくい」っていた宗教的支配者階級であったからこそ、イエスのことについて「何一つ」うまくいかない、と言うのだろう。
なにもかもうまくいく、ということは、多分、ない。
昔の天皇だか上皇ですら、川の流れと坊主となんとかは思うとおりにならない、とかぼやいていたという。
せいぜい、今日はうまくいった、これが数日続くくらいだろうか。
理想的には、「うまくいく」という感想自体、不要だ。「今日も一日つつがなく終えた」くらいがちょうどよいのではなかろうか。
同様に、何一つうまくいかない、ということも、視野を広くするならば、ない。
広くなった視野、そこに「神」が入ってくる。
その神が、希望の光を放ってくださる。
「いつか、なんとかなる」という希望。
パリサイ人の視野がきわめて狭かったことは、いうまでもない。
安息日は厳しく取り締まって、神を敬うことはしない。
---
この人たちは、「なにもかもうまくいく」と思っていて、実際今まではそうだったのだろうか。
まあ、今まで「なにもかもうまくい」っていた宗教的支配者階級であったからこそ、イエスのことについて「何一つ」うまくいかない、と言うのだろう。
なにもかもうまくいく、ということは、多分、ない。
昔の天皇だか上皇ですら、川の流れと坊主となんとかは思うとおりにならない、とかぼやいていたという。
せいぜい、今日はうまくいった、これが数日続くくらいだろうか。
理想的には、「うまくいく」という感想自体、不要だ。「今日も一日つつがなく終えた」くらいがちょうどよいのではなかろうか。
同様に、何一つうまくいかない、ということも、視野を広くするならば、ない。
広くなった視野、そこに「神」が入ってくる。
その神が、希望の光を放ってくださる。
「いつか、なんとかなる」という希望。
パリサイ人の視野がきわめて狭かったことは、いうまでもない。
安息日は厳しく取り締まって、神を敬うことはしない。
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罪人だった
「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-9)
---
私は罪人だった。
今だって、こころの中は汚らしいものだし、行いだってほめられたものではない。
しかし、見てしまった、「キリストが私たちのために死んでくださった」のを。
(見させてくださったのだが。)
その光景に圧倒され、私は自身を罪人と認めざるを得なくなってしまった。
ちなみにそれまでは、自分自身について、何とも思っていなかった。
「神の怒りから救われる」には、まず自分が神の怒りを買う存在であることが分かる必要が、ある。
そして、その時流されたキリストの血は同時に、神の怒りからの救いをもたらしてくれる。
「救い」、それは、責められない、穏やかな湖のような、といおうか。
上述のように、こころが汚らしくたって、ひどい行いだって、この方からの責めから解放されるのだ。
一方で、罪の自覚に至っていないならば、得るものも何もないだろう。
(罪というものを言語化できるものでもないとも思う。)
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:8-9)
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私は罪人だった。
今だって、こころの中は汚らしいものだし、行いだってほめられたものではない。
しかし、見てしまった、「キリストが私たちのために死んでくださった」のを。
(見させてくださったのだが。)
その光景に圧倒され、私は自身を罪人と認めざるを得なくなってしまった。
ちなみにそれまでは、自分自身について、何とも思っていなかった。
「神の怒りから救われる」には、まず自分が神の怒りを買う存在であることが分かる必要が、ある。
そして、その時流されたキリストの血は同時に、神の怒りからの救いをもたらしてくれる。
「救い」、それは、責められない、穏やかな湖のような、といおうか。
上述のように、こころが汚らしくたって、ひどい行いだって、この方からの責めから解放されるのだ。
一方で、罪の自覚に至っていないならば、得るものも何もないだろう。
(罪というものを言語化できるものでもないとも思う。)
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何を求めるか
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)
---
あれもなければ、これもない。どれも欲しい。
そういうとき、何を求めるか。
イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と仰る。
無理矢理言い換えると、くさらずヤケも起こさず目を上げて、あるものの中でやるべきことをやってゆこうとする姿勢、とでも言おうか。
「目を上げて」、かなたに神の国を見つつ。
いや、「神の国」は存外そんなに遠くはないだろう。
---
あれもなければ、これもない。どれも欲しい。
そういうとき、何を求めるか。
イエスは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と仰る。
無理矢理言い換えると、くさらずヤケも起こさず目を上げて、あるものの中でやるべきことをやってゆこうとする姿勢、とでも言おうか。
「目を上げて」、かなたに神の国を見つつ。
いや、「神の国」は存外そんなに遠くはないだろう。
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生きている、ということ
「聖徒たちよ。主をほめ歌え。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」(詩30:4-6)
---
朝さめざめ泣いて、それでも昼活動して、すると充足して夕暮れにはにっこりする、こうならば分かる。
涙は、夕暮れ時。
寝ることによってしか、翌朝の喜びは来ないのか?
そうだとしたら、昼の活動によって、夕暮れ時に再びさめざめ泣いてしまうのではないだろうか。
それでいい。
昼には、いろいろあるのだから。
涙する夕暮れだって、ある。
翌朝、喜びの叫びを上げる。
昼間のいろいろで、やはりその日の夕暮れには泣くかも知れない。
これが「いのち」、すなわち「生きている」ということであり、これぞ神の「恩寵」だと思う。
一日のこのどたばたは、「生きている」ということについて、揺らいでいない。
主よ、その聖なる御名を感謝します。
その聖なる御名に感謝せよ。
まことに、御怒りはつかの間、
いのちは恩寵のうちにある。
夕暮れには涙が宿っても、
朝明けには喜びの叫びがある。
私が栄えたときに、私はこう言った。
「私は決してゆるがされない。」(詩30:4-6)
---
朝さめざめ泣いて、それでも昼活動して、すると充足して夕暮れにはにっこりする、こうならば分かる。
涙は、夕暮れ時。
寝ることによってしか、翌朝の喜びは来ないのか?
そうだとしたら、昼の活動によって、夕暮れ時に再びさめざめ泣いてしまうのではないだろうか。
それでいい。
昼には、いろいろあるのだから。
涙する夕暮れだって、ある。
翌朝、喜びの叫びを上げる。
昼間のいろいろで、やはりその日の夕暮れには泣くかも知れない。
これが「いのち」、すなわち「生きている」ということであり、これぞ神の「恩寵」だと思う。
一日のこのどたばたは、「生きている」ということについて、揺らいでいない。
主よ、その聖なる御名を感謝します。
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サツジンショウドウ
「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。
……
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。」(ヨハネ8:40,47-50)
---
全くもって人というのは、イエスがここで仰っておられるようにコロスことばっかり考えている。もっぱら自分がイキルために。
私だってそうだ。
苦しくって苦しくって、サツジンショウドウに駆られ、この人達が考えていたのと同じように私はイエスをコロシタ。
それも、十字架の上で。
イエスは、全くの無抵抗だった。
イエスは、死んだ。
そして私も共に、死んだ。
イエスは復活する。
すると恵みによって、新しい私が生きた。
私利私欲でイキルためにコロシても、今度は他人の私利私欲のためにコロされてしまう。弱肉強食の世界だ。
イエスという幹に皆がおのおのつながればよい。
……
神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」
ユダヤ人たちは答えて、イエスに言った。「私たちが、あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」
イエスは答えられた。「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしは父を敬っています。しかしあなたがたは、わたしを卑しめています。しかし、わたしはわたしの栄誉を求めません。それをお求めになり、さばきをなさる方がおられます。」(ヨハネ8:40,47-50)
---
全くもって人というのは、イエスがここで仰っておられるようにコロスことばっかり考えている。もっぱら自分がイキルために。
私だってそうだ。
苦しくって苦しくって、サツジンショウドウに駆られ、この人達が考えていたのと同じように私はイエスをコロシタ。
それも、十字架の上で。
イエスは、全くの無抵抗だった。
イエスは、死んだ。
そして私も共に、死んだ。
イエスは復活する。
すると恵みによって、新しい私が生きた。
私利私欲でイキルためにコロシても、今度は他人の私利私欲のためにコロされてしまう。弱肉強食の世界だ。
イエスという幹に皆がおのおのつながればよい。
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与えよ
「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)
---
私に病人を治すことはできない。
死人を生き返らせること、ハンセン氏病の治療、悪霊の追い出し、どれひとつできない。
ただ、持てるものを与える。
ただし、もっぱら求める者に、与えること(参/マタイ5:42)。
「ありがた迷惑」という言葉がある。
---
私に病人を治すことはできない。
死人を生き返らせること、ハンセン氏病の治療、悪霊の追い出し、どれひとつできない。
ただ、持てるものを与える。
ただし、もっぱら求める者に、与えること(参/マタイ5:42)。
「ありがた迷惑」という言葉がある。
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