おい茂るオリーブの木の豊かさ

 「正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。
 「見よ。彼こそは、神を力とせず、
  おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」
  しかし、この私は、
  神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。
  私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」(詩52:6-8)

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 商人たちの、もはや建前すらかなぐり捨てた立ち振る舞い。
 その対極に、食うや食わずやという人々もおおぜいいる。
 いずれにせよ、貧富という基準軸、所得という基準軸で自分や世界を見ていることには変わりはない。
 上の詩人は「神の恵みに拠り頼む」と言っている。これは御父の基準軸による世界観である。
 この、御父の基準軸に移動させられることが救いである。
 所得とはまるで関係のない「おい茂るオリーブの木」の豊かさを、この軸の上で実感することができる。

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砕かれたたましい

 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。
  砕かれた、悔いた心。
  神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩51:17)

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 「ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との前置きがある詩。

 ダビデは激しく悔いていて、そして、うなだれている。
 その中で、神に真にささげるべきものは「砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心」であり、全焼のいけにえではないと詠うほど、犯したこの大きな罪について自分の内面を見つめている。

 数多い律法は、そのどれをも守ることを御父は要求する。
(ちなみに、私はキリスト教徒がなぜ豚肉を食べるのかを、律法からは理解できない。)
 律法を守ることができない罪人は、自らを悔い改める。
 言い方を変えると、律法は罪人を悔い改めへと導くのである。
 そして、「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)とあるように、あまりにもこの律法を守ることができず、罪の中で死に、イエスの御技どおりによみがえる。

 ダビデは上の詩の中で、深く悔い改めている。
 「砕かれたたましい」は、イエスが開通させた死とよみがえりの道に引き寄せられると、嫌でもそうなっていく。
 この、御父によってたましいがくだかれることが、たましいの救いである。

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富とたましい

 「どうして私は、わざわいの日に、
  恐れなければならないのか。
  私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
  おのれの財産に信頼する者どもや、
  豊かな富を誇る者どもを。
  人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
  自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
  ――たましいの贖いしろは、高価であり、
  永久にあきらめなくてはならない。――
     …………
  しかし神は私のたましいを
  よみの手から買い戻される。
  神が私を受け入れてくださるからだ。セラ

  恐れるな。人が富を得ても、
  その人の家の栄誉が増し加わっても。
  人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、
  その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
  彼が生きている間、自分を祝福できても、
  また、あなたが幸いな暮らしをしているために、
  人々があなたをほめたたえても。
  あなたは、自分の先祖の世代に行き、
  彼らは決して光を見ないであろう。
  人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、
  滅びうせる獣に等しい。」(詩49:5-8,15-20)

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 「恐れるな。人が富を得ても」と詩人は綴るが、それにしても、他人の富を、彼とは関係のない自分がなぜ恐れるのだろう。
 もう15年以上前のことになるが、実は自分にもこのような時があった。
 その頃の恐怖感を後から振り返ると、他人の富や成功に対する恐れというよりか、自分の経済上また存在としての失敗というものを、富者を見ることによって意識せざるを得なくなるからだったのではないかという気がする。平たく言うと、富者を見ると自分が惨めになった。
 今の私はお金はなくとも自分の存在を取り戻し(しかも御父によって取り戻し)、彼ら富者を恐れたりうらやましいとは思わなくなった。
 このことは、観念やメソッドや思想ではない。「神は私のたましいをよみの手から買い戻される」か否かに掛かっている。主語は神であり私ではない。これが恵みである。
 このことを言い換えると、人々のたましいはよみにあり、神が恵みによってこのたましいを救ってくださるのである。

 たましいがよみにあること、これはどの人も同じである。
 富者も貧者も変わるところがない。
 ただ、両者の違いとして、富者が自分を省みることは希であるから、たましいのことなど考えないし、当然自分のたましいがよみにあるとか、そういう発想自体ない。
 自分の知り合いで、自分の内面を見るのがすごく恐くて嫌だと言った人がいるが、端的に言って、彼は彼自身を見ないようにごまかしていて、ごまかしつづけるには外に目を向けるしかない。そういう奴の方が、ここでいう富者になりやすいとは思う。
 だが、私はいつも思うに、今際の際に生涯を振り返るとき、億万長者は、今際の際に富者であったことが喜ばしいだろうか。「うーん高層ビル8棟建てれてよかったー」、ばたん(死に伏せる音)、とか、一体あるのだろうか。「ああイエス様に救われて満足だー」、ばたん、という方が自分にはずっと想像しやすい。
 そして、平生より後者のような満足感がしばしば湧き上がることが救われたということであり、確かに「自分の身のしろ金を神に払うことはできない」のだ。

 もうひとつ言えることがある。
 満足感は消失しないのだが、富はなくなる。あっという間になくなる。

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神とともにいる孤独

 「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。
  人が一日中「おまえの神はどこにいるのか。」と私に言う間。
  私はあの事などを思い起こし、
  御前に私の心を注ぎ出しています。
  私があの群れといっしょに行き巡り、
  喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに
  神の家へとゆっくり歩いて行ったことなどを。

  わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。
  御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。
  御顔の救いを。」(詩42:3-5)

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 詩人は絶望している。
 かつては共に宮参りもした人々は、なにかあったのだろうか、今は詩人を責め立てている。
 こういうことは、私も思い当たることがある。
 昔日の楽しい事々が思い出されては、それとは真逆の今の境遇にうち悩むのである。

 詩人は自分に問い、神により頼んでいる。
 このような状態で「私はなおも神をほめたたえる」ことができるのか正直わからないが、孤独にあってもどんなときでも、御父を認めることはできる。
 そして、そのような存在であるところの神を信じている人は、そのような存在と共にいる分、「おまえの神はどこにいるのか」と詩人に罵る人々よりはこの孤独な時を乗り越えやすい。
 では、神を信じるとはどのようなことだろうか。信じると言うだけならあの祭司長たちもそう言っている。
 信じると言うよりは、ヨブのように強引に信じさせらるのであり、救い主が到来してのちは、このイエスが築いた十字架と復活の道のりに引き寄せられて御父と和解に至るのであった。

 さて詩人はこれからどうなるだろうか。
 元の人間関係に戻ることは、あまり期待できないのではないかという気がする。
 しばらく孤独な時を神に支えられて過ごした後、あらたな関係性ができあがってゆくのではないか、そんな気がする。
 孤独なときにどう過ごすかは、とても大切なことだ。個人的には蓄えの時だと思っているが、いずれにせよ神と共にある孤独は耐えやすく、やがて大きな実りをもたらすというのは間違いない。

 これは蛇足なのだが、もし私がこの詩を書くとしたら「私はもう絶望だ!」としか書けないのだが、この詩人は、自分のたましいに「なぜ、おまえは絶望しているのか」と語らせて、自分の絶望感を客体化している。
 そうすると、「絶望だ!」と主観だけで私小説的にやるよりも読み手との距離感ができる分、ああこの詩人は絶望しているのだなと読み手としても受け止めやすい。さすがは詩人。

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敵について

 「幸いなことよ。
  弱っている者に心を配る人は。
  主はわざわいの日にその人を助け出される。
  主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、
  地上でしあわせな者とされる。
  どうか彼を敵の意のままにさせないでください。」(詩41:1-2)

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 テレワークの日々が続いている。
 通勤もなく1人で仕事ができて理想の環境と思いきや、これが違う。
 仕事に入り込むことがとても難しいのだ。
 週1回ほど出勤するとき、30人いるセクションは自分も含めて5人ほどしかいないのだが、それでもひとけがあって、すっと仕事に入り込める。不思議なものだ。

 その5人ほどというのは、8割出ないようにするために管理職が作成した勤務表に従って出勤しているのであるが、当たり前のことだがその5人の中には嫌なやつもいる。
 上の詩でいうところの敵といっていい。
 この前なんかは、お互い口一つ聞かなかった。腹が立ってしょうがない。

 テレワークの日々が続いて、もう一つ気づいたことがある。
 1人で居続けるので、種々の刺激がなく頭が全く働かない。これは同僚から聞いて、確かにそうだと気づかされた。本当に頭が動かない。
 そこで気づいたのが、口一つ聞かない敵というのもネガティブな刺激を与えてくれるのだから、実は必要不可欠なものなのではないだろうか。
 仮に、自分の好ましい人しか周りにいなかったとしたら、そこは黙示録の最後にあるような天国だ。天国は素晴らしいところだと思うが、今、私がいるのは、この現実の世界だ。
 この現実においては敵はいるものであり、しかも敵はネガティブであるからこそかえって頭を動かしてくれているのかもしれない。
 もしもこの世の天国だったら、あっという間に呆けてしまうだろう。それは本当の天国に行ってからでいいと思う。

 上の詩に出てくる敵であるが、詩篇を最初に読んだときには、敵がやたらと多くて、かなり違和感を感じた。
 しかし、今読み返してみると、敵はいなくなってしまえというのはあまりないような気がする。
 むしろ、敵は敵として、その敵から守ってくださいというのが多いだろう。
 神が私を造ったのであれば、敵もまた神が造ったのである。
 できることの限られたテレワークのこのしょうもない期間の中で一番の収穫は、現実を生きる上での敵のありがたみだった。

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偽善者

 「暴虐な証人どもが立ち
  私の知らないことを私に問う。
  彼らは善にかえて悪を報い、
  私のたましいは見捨てられる。
  しかし、私は――、
  彼らの病のとき、私の着物は荒布だった。
  私は断食してたましいを悩ませ、
  私の祈りは私の胸を行き来していた。
  私の友、私の兄弟にするように、私は歩き回り、
  母の喪に服するように、
  私はうなだれて泣き悲しんだ。
  だが、彼らは私がつまずくと喜び、相つどい、
  私の知らない攻撃者どもが、
  共に私を目ざして集まり、休みなく私を中傷した。
  私の回りの、あざけり、ののしる者どもは
  私に向かって歯ぎしりした。
  わが主よ。いつまでながめておられるのですか。
  どうか私のたましいを彼らの略奪から、
  私のただ一つのものを若い獅子から、奪い返してください。」(詩35:11-17)

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 35篇のこの部分に接して、私はカフカの掌編がありありと思い浮かんだ。
 「判決」というもので(「カフカ短篇集」(池内紀 訳、岩波文庫)より。)、若くして成功した主人公は、うだつがあがらない「友人」への優しさに満ちた思いなどを、引退して力なく年老いてゆく父親に知らせに行く。ところがこの父親は「友人」とつながっていてすべてを知っており、主人公の偽善の思いや行為を力の限り非難する。主人公は外に出て川に身を投じるのだが、この今際の際ですら「お父さん、お母さん、ぼくはいつもあなた方を愛していました」などと言う。

 この主人公は典型的な偽善者だが、自分ではそうとは気づいていない。
 おそらく自分に酔ってすらいるだろう。
 だが、父親や友人はじめ周りの人々は、彼の偽善を見抜いている。
 その偽善が裁かれたというのが、この掌編である。

 さて、上の詩篇に戻ると、「暴虐な証人どもが立ち 私の知らないことを私に問う。」(11節)というのは、古今東西そういうものなので、詩人であるダビデは実際に周りじゅうから攻められていたのだろう。あることないことで何人かから攻められるこのような体験は、私にも何度かある。

 13節以降は自己弁護が綴られるが、「彼らの病のとき、私の着物は荒布だった」(13節)というのは詩人の偽善だろう。
 なぜ彼は荒布を着るのだろうか。
 彼らの病の快癒のためだろうか、それとも、彼らの病の快癒を祈る姿を見てもらいたいのだろうか、あるいは、その姿に自分で酔っているのだろうか。
 こういう偽善はある種の臭みがつきまとう。上の掌編の主人公と同種のものだ。
 山上の説教の中で、イエスは「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。」(マタイ6:16)と言っているとおりである。

 では、人はすべて偽善者なのだろうか。
 多かれ少なかれ偽善者なのだが、善についての異なる原理が存在する。
 私たちすべての者は御父の前に罪人であるが、イエスの十字架の死と復活をとおして御父との和解を果たすと内住の聖霊が私たちに宿る。
 この内住の聖霊が私たちを善へと突き動かしている。
 このとき、善を行うのは偽善者の私たちなどではない。
 私たち自身が善をなすのではないから、あの特有の臭みもないのである。

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正しい者

 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
  たましいの砕かれた者を救われる。
  正しい者の悩みは多い。
  しかし、主はそのすべてから彼を救い出される。
  主は、彼の骨をことごとく守り、
  その一つさえ、砕かれることはない。」(詩34:18-20)

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 正しい者の悩みは多い。
 なぜ正しい者の悩みは多いのだろう。
 それは正しいが故ではないだろうか。
 この世は正しくなんかはないのである。

 正しくなんかないこの世を大人の世界と肯う人も数多い。
 元事務次官の発した「貧困調査」という言い訳は有名だが、ああいう言い訳をする人で溢れている。
 しかし正しい人は、大人の世界と割り切ろうにも心の方がついてゆけない。
 むしろ正しい人は、彼らの方が正しいのではと日々悩み続けている。

 この世は正しくなんかなくとも、主は常に正しい。主が正しさの基準だからだ。
 だから悩む人は主のもとに帰ろう。
 「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。」
 悩みがなくなることはなくとも、主が支えてくださるので悩み抜くことができる。

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誰にもわからない主の御心

 「まことに、主が仰せられると、そのようになり、
  主が命じられると、それは堅く立つ。
  主は国々のはかりごとを無効にし、
  国々の民の計画をむなしくされる。
  主のはかりごとはとこしえに立ち、
  御心の計画は代々に至る。」(詩33:9-11)

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 近年、人があまりにも多かった。
 上野の美術館を巡った後に休む喫茶店、これがどこに行っても長蛇の列で休みどころではない。
 これは4,5年前からなのだが、最近に至っては美術館そのものが人でいっぱいになり、とても作品をじっくりと鑑賞できる雰囲気ではなくなってしまった。
 京都、ベネチア、バルセロナをはじめとして観光客があまりにも多く、オーバーツーリズムと呼ばれていたが、現地の住民の生活が成り立たなくなったそうだ。

 とにかく量なのだ。より多くの人、より多くの利益、より多くの情報。
 こういったものは、畢竟「国々の民の計画」に帰する。
 これは、天にも届く塔を築き上げようというのと変わるところがない。
 あのとき御父は、そんな塔は破壊してしまった。
 「主が命じられると、それは堅く立つ」、御父がなぜそうしたのかは、よくわからない。
 ともかく主が命じたのだ。

 私たちは、この主の命令には、理屈抜きに従う。というより、逆らいようがない。
 人が多すぎたことについては、あるいは共食いが生じたのだという自然科学的な因果関係で納得する人もいるだろうし、塔を壊したことについて人間の傲慢がという類の後知恵をする人も少なくない。
 しかし、頭での理解や納得など、主の御業に対して何の役に立つというのだろう。
 「御心の計画は代々に至る」、この御心の計画は誰にも分らない。
 それゆえに主を畏れてこうべを垂れる。

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行くべき道

 「わたしは、あなたがたに悟りを与え、
  行くべき道を教えよう。
  わたしはあなたがたに目を留めて、
  助言を与えよう。」(詩32:8)

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 主は内住の聖霊を通して、私を行くべき道に導き、言葉とは違う助言をくださる。
 私には、私を生きているというよりも、むしろ主に突き動かされているということが少なくない。
 それにしても、平坦で安楽な道のりとはなんとほど遠いものか。
 しかし、イエスのこの狭き道で味わう摩擦感こそ生きているという実感を与えてくれる。
 もしも広くて平坦な道だと、この実感が出てくる余地がない。

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窮地にある者の祈り

 「私は、敵対するすべての者から、非難されました。
  わけても、私の隣人から。
  私の親友には恐れられ、
  外で私に会う者は、私を避けて逃げ去ります。
  私は死人のように、人の心から忘れられ、
  こわれた器のようになりました。
  私は多くの者のそしりを聞きました。
  「四方八方みな恐怖だ。」と。
  彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、
  私のいのちを取ろうと図りました。
  しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
  私は告白します。
  「あなたこそ私の神です。」(詩31:11-14)

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 ダビデの賛歌。
 祈りの中で、主に窮状を訴えている。
 周り中からの非難、そして忌避。

 祈りの中で、私たちは上のダビデ王のように、自分の心中を言い表して主に伝える。
 このような祈り方は他にはあまり見られないかもしれない。
 古来からのこの祈りの形式は、はからずも自らの自我に気付かせ個を芽生えさせたかもしれない。
 そうしてダビデは自らの思いを明らかにして主に注ぎだしている。

 時事ネタはできるだけ避けたいのだが、最近では、他県ナンバーの車を見つけた地元の人々が種々のいやがらせを繰り広げるとのこと。石を投げるとか金属パイプで叩くなど。
 その映像を見て、自分は意外感なんかちっともなかった。
 これは人の典型的な行動様式だからで、誰もが少しは思い当たるところがあるだろう。
 それで、上のダビデの詩を私たちはよくわかるのである。

 ちなみに、上に書いたいやがらせの類は、日本では1人ではしない。必ず群れる。
 みんなでやれば、赤信号など平気で渡れる。
 自我も個もないから、自分一人では判断がつかない。みんながやるからやっているにすぎない。
 しかしそれでは、自分を生きていることにはならないのである。
 今ここで、ダビデは主の前にたったひとりだ。そして、自分に向き合っている。
 このとき、主は一番の相談相手、聞き役になってくれる。

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