イエスから学ぶもの

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

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 「あー極楽極楽」、温泉に浸かったときの、お定まりの第一句であろうか。
(ちなみに私は、「温泉」という趣味を有さない。)

 イエスがなぜゆえに来られたか、それは何度も書いているように「永遠のいのち」を「死人たち」に与えるがため、これが今の私の考えである。
 冒頭の聖句で言えば、「たましいに安らぎが来ます」、これは「永遠のいのち」を言い換えた言葉、そういう捉え方だ。

 では、「どうすれば」「たましいに安らぎが来」る、そうイエスは仰っているか。
 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば……」。
 メソッドにすることは全くもって不本意であることを予めお断りした上で、あえて次の2点を箇条書きにして抽出する。

1.「わたしのくびきを負」うこと。
2.「わたしから学」ぶこと。

 1について、イエスは手を変え品を買え、福音書の中で繰り返し仰っていることだ。例えば下記の聖句に、私はその典型を見る思いを持つ。

 「それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:24-25)

 寄り道になるが、いつだったろうか、「マモン(富)」について書いた。
 現代的な用語を用いるならば、「マテリアル」、このことばが一番包括的な表現として適っていると思うので、以降はもっぱら「マテリアル」と書く。
 どんなに遅くとも産業革命以降は、実に人間は「マテリアル」をもっぱら追い求める存在であり続けたように思う。
 マドンナという米国人歌手による「マテリアル・ガール」が流行したのは、私の高校生の頃だろうか。
 正に、「マテリアルワールド」だという感がある。
 そして、今の私は、「マテリアルワールドそれ自体の中で、『いかにしてマテリアルとお付き合いするか』、換言すると、『いかにしてマテリアルとの距離感を保つか』」、これを試みているさなかにある。
 お給料を素直にただ感謝して頂く身、それ以上でもそれ以下でもない。
 ためらいつつも踏み込んで書くならば、「マテリアルワールド」だからこそ、その「ワールド」の中にあっての「神からの恵み」という、そんな位置づけであろうか。
 ただ、「頂いてから」、ここが非常に問われているように思える。
 例えると、「もらった分だけショッピングして全部使って、で、来月の給料日が早く来ないかなー…」と、自らが「ワールド」に積極的に参入する、これは止めようということである。
(ここに例示した「人間像」こそ、それこそマモンの奴隷ではなかろうか。)

 また、内村鑑三は、何かの著書にて、大略次のようにしたためている。
 いわく、ジンギスカン、彼はあれだけ広大な領土をものにし、そして首府サマルカンドに「諸国の王」に招集を掛けて集め、彼の前に彼らを土下座「させてみる」のだが、このとき彼は側近につぶやいた。「どうにも、むなしいものだ……」。
 いわく、豊臣秀吉、彼は日本統一を果たし朝鮮半島にまで手を伸ばし、そうして今際の際に詠んだ句は「夢のまた夢」という、人生の虚しさについてのものだった……。
(どの本の中での記述なのかを探す作業を途中で放棄して、遠い記憶を頼りにして書いたことをお断りする。内村鑑三の書きぶり、そのインパクトが強かったから、私もこのように「概略」を覚えている。「この記述」がどの本であるのかをご教授いただければ、存外の喜びである。)

 マテリアル、そして名誉欲。
 なんとむなしいものではないか。
 追い求めても追い求めてもなお、キリがない。少し前に取り上げた「サマリアの女」、彼女もそうだ。これは快楽の奴隷だ。

 「空の空」(伝1:2)、ああ、その、なんとむなしいものよ。
 ただ、この「空の空」が「こころに引っかかって」、そして「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学」ぼうとするならば、「宝物」を得ること叶う、この事もまた、福音書の中でイエスが一貫して仰っていることだと思う。
 そうして、「空の空」から「卒業」できるのならば、それこそ「伝道者の書」は御用済みになる。
(逆に言えば、伝道者の書が「入門書」になるのならば、これは幸いなのではないかと、今の私はそう思う。「1週間前の私」とは、この書物についてやや捉え方が異なってることを付記する。)

 「いのちを救おうと思う者」はもっぱらマテリアルや名誉欲または快楽「のみ」を追い求め続けている…、これはさすがに言いすぎであろうか。

 最も身近な福音書、この中にも、「マテリアル人間」とイエスとの対比構造が描かれている。
 マタイ19:16-22。俗に言う「金持ちの青年」の箇所だ。
 彼はイエスに訊ねる。「永遠のいのちを得るためには、……」。
 イエスとのやりとりを経た彼は、「青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」と、マテリアルを惜しんでイエスの元を去っていった…。
(なお、ここでイエスは、彼を「鼻であしらった」という感を、私は持っている。なぜなら、イエスは端的に「律法」を「突きつける」のだから。)
 彼は、イエスの呼びかけ「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」という「よきおとずれ」を「理解?」できず、結局は「マテリアルワールド」の道を選択した恰好になる。

 しかしながらそれにしても、現代のこの「マテリアルワールド」にあっても、「永遠のいのち」にあずかる人々が存在する、それも少なからず存在するという「事実」は、注目に値する事項と思う。

 話を冒頭の聖句に戻そう。寄り道がすぎた(しかし、寄り道は大切だとも、また思う)。

 2.「わたしのくびきを負」うこと。
 これもイエスは、言葉を換えて何度も仰っている。
 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:38)
 そう、「わたしのくびき」、即ち「自分の十字架」。
 この「自分の十字架」とは、神から課せられた使命の類である。
 「自ら探し出す」類のものではおよそない……、今の私が意を強くして思うところだ。
 かくいう私にとっての「自分の十字架」、「神から課せられた使命の類」、それは平日の職務、またもっぱら休日での「聖書」についての雑論記述…、そのような想いを日に日に強くしている。
 これもまた、「自ら探し出」したわけでは、全くない。
 あれこれと「整理作業」していって、そうして不思議と定まっていった「軸」、そういう感が日に日に強くなってゆく。
(試みに、ブックマークからリンクしてある私のホームページにアクセスされたい。今は、この「ホームページ」を乱雑かつ急速に書き進めている最中である。当該ホームページ、本聖書ブログ、また、やはりリンクしてある「日記」、これらを書き続けているのが今の私であり、また、これらを書けば書くほどに、不思議と「軸が更にしっかりと定まる」感を持つ。更に付言するに、本「聖書ブログ」を、9月に入ってから「急に」真摯な取り組みをし始めた「事実」、このことをご留意下されば幸いに思う。)

 「あなたにとっての十字架とは?」…、それは私の「責任外」だ。
 主導権は、どこまでも神なのだから。

 さて次に、「わたしから学」ぶということ。
 聖書、わけても福音書があるではないか、端的にこのことを指摘するだけで必要にして十分と思う。
 何度も引用しているのだが、重複を厭わず引用する。

 「もしあなたが人生の幸福を心から望むならば、キリスト教を神学や教会主義と取り替えてはならない。むしろ、あなたは自分でキリスト教をその源において、即ち、福音書のうちに、とりわけキリストみずからの言葉の中に、求めなさい。」
(「眠られぬ夜のために・1」、ヒルティ著、草間・大和訳、岩波文庫。その「1月1日」の項より)

 重複を厭わず何度も引用するのは、3年前にこれを読んで単に通りすがった私が、昨今この言を思い出し、それで飛びつくかのようにもっぱら福音書ばかり読み込んだという、この「エピソードの賜物」、そのような「理由?」のように思う。
 ヒルティが「このこと」を「1月1日」、すなわち「最初に」したためた理由が、今にして分かるような気がする。

 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」、私には重く感じます。
 イエスは「極楽極楽」に誘いたいのではない。
 「極楽だけれど、ちょっとは『荷を課す』よ」という意味には、今の私には到底解せない。
 重たいんだ。ずしりと。
 これを、……やはりかつぐ、日々、一歩一歩……。
 上に書いたが、やはり「自分の十字架」だと、腹をくくっている。
 「腹をくくる」、全く幼稚な仮説以上のものでしかないのだが、あるいはこの言葉は、「最高刑の十字架に掛かって『死ぬ』ということ」、その言い換えなのかも知れない。

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」、ここ最近私が綴っているように、実に実に、「マテリアルワールド」の中で、みながそうなのだと思う。
 電車の車中で人々を観察していると、その感が強くなる。
 そんな彼らにイエスはいざなう。「わたしがあなたがたを休ませてあげます」、と。
 そうしてイエスは約束する、「そうすればたましいに安らぎが来ます」。
 言い換えると、「永遠のいのち」だ。
 「マテリアル」、それは旧約における、とうに過ぎ去った約束でしかない。

 今手元に聖書がある人は、幸いだと思う。
 この「小さな書物の中」にこそ、実に実に「全て」がある。私の確信するところだ。その確信に基づいて、今日もこうして書いている。
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