批判する、ということについて

 「こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい。そして、いたるところで力のかぎり、すべて善きものをはげまし、かつ支持するようにし、卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。そうすれば、前よりも満足な生活に入ることができよう。実にしばしば、まさにこの点に一切がかかっているのである。」

(ヒルティ、「眠られぬ夜のために 第一部」(草間・大和訳、岩波文庫)、2月5日の項より。)

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 昨日いちにちを過ごしてみて、この言を自然に思いついた。
 「こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい。」
 できるわけねーだろっ、とか、100年前の異国人に突っ込み入れつつ、帰宅後改めて開いた「眠られぬ夜のために」。

 ヒルティは、続いて綴っている。
 「卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。」
 「悪いもの」、「下らぬもの」という判断を下すこと、これは「批判」というカテゴリーの中に入るだろうに、と思う。

 ところでこの本の解説を、少し前に読んだ(「眠られぬ夜・1」にまとめて書いてある)。
 ヒルティという人は、若いときこそちょっとばかし酒飲んだり決闘(!)したりもしたが、勉学に刻苦し続け、まず故郷・キュール市の弁護士を15年、その頃の仕事ぶりが街中の評判となって代議士になったり、何とかという論文(!)が注目されてベルン大学で教鞭を執ったり、スイス国軍裁判所の裁判官になったり…、果てはスイス全体の偉人になりました、おしまい、大略そんな紹介がなされていた。

 お前はウルトラマンで最後はM78星雲に帰ったのかいっ!
 それほどの美辞麗句の羅列が、あまりにも気に入らない。
 法廷という場は、自分が弁護するクライアントのためなら黒を白と言うこともまったく厭わない、そういう場なのに。

 弁護士15年。
 キュールというところがどこら辺なのか、2つの地図、それからネットをつついても、遂に分からなかった。
 ハイジが出てきそうな愉快そうな街だったら、そもそも弁護士業など成り立つまい…。
 晩年は国際法の分野で有名になるらしいんですけど、想像するに、若かりし頃のキュール市での仕事というのは町医者の類で、「何でも屋さん」だった15年だったのだろう。
(日本にも「六法」ということばがありますよね。うち2つは「裁判のルールについて」なので、4つですか。数多ある諸法律にもそれなりに精通してなくてはなりませんし)。
 壮絶さに、思いを馳せます。
 そりゃあ、「幸福論」なんてタイトルの本書いちゃうし、この「眠られぬ夜のために」も書くでしょう。
 苦難・苦渋多き人生だったことだろうと思います。

 そう思い連ねていって、「こころみに、しばらく批判することをすっかりやめてみなさい」に再び戻る。
 すると、ヒルティの胸の内に「穏やかならざるもの」がひとかけらもなかった、そのようなところからは、およそ程遠かったことと思う。
 もし穏やかな心持ちだったのならば、そもそもこんな事は書かないだろうし(着想すら得ることができず、平凡な一生をひっそりと終えたはずだ)、更に続けて「悪いもの」、「下らぬもの」という、とめどもない「批判」の言があふれでることもない。
 「批判」の対象なき人など、いようか?
 イエスですら、マタイ23章で、それは激烈なパリサイ人・律法学者批判をやっているではないか。

 ただ、ヒルティと私のような人間とが違うとしたら、次の一点だろう。
 「その場」で憤ったり非難したりせず、ひとまずはそれを心の中にしまっておく、その忍耐力。

 「卑俗なものや悪いものを下らぬものかつほろび去るものとして無視しなさい。」、無視というのもまた至難の業のように思えるのだが、試みてみたいと思う。

(今日のこの文章は、かなり前に書きかけてあったものを、今日、それなりの形にしてみました)。
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