彼らはあなたのみことばを守りました

 「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。」(ヨハネ17:6)

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 イエスの祈り。
 ここでイエスは、御父に私たちを取りなしている。

 一体いつ、私たちは御父のみ言葉を守っただろうか。守ることができたであろうか。
 第一、私たちのアダムの肉は、そのようにはできていないではないか。
 それなのに、イエスは「彼らはあなたのみことばを守りました。」とみなした上で御父に取りなしている。
 みことばを守ることの到底叶わぬ私たちを、みことばを守ったから義とみなして下さい、そうイエスは御父にとりなしている。
 そして、イエスがこれから行う十字架と復活のわざを通して、私たちはこの信仰義認にあずかったのである。

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[一版]2011年 5月14日
[二版]2017年 7月 2日
[三版]2019年 4月14日
[四版]2021年 4月 3日
[五版]2023年 5月28日

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イエスを知るということ

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)

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 イエスの御父への祈り。

 聖書はいったい、何のためにあるのだろう。
 人の魂が救済されるためのものだろう。
 世界や宇宙の万物が書かれているわけではない。
 イエスの十字架と復活が、手を変え品を変え書かれている。

 だが、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。
 聖書は教科書や参考書とは違う。
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、全くそうなのだが、この箇所を読んで文意を理解したというだけでは、イエスを知ることからはほど遠いだろう。
 イエスを知る、イエスに出会う、ということは、頭の上の理解ではなく、端的に体験なのである(参/黙3:20)。

 このイエスに出会う体験を通して永遠のいのちを授かる道のりが十字架の道である。
 この十字架の道は、まさにこれからイエスが切り開く。
 私たちは、イエスが切り開いたこの狭き道をこれから歩んでゆく。
 つばきをかけられ殴られ、鞭で打たれ十字架に掛けられて死ぬ、そのような苦しみの道だ。かつてなかったほどの大きな苦しみが襲い続ける。
 そして死んでのち、復活のイエスに出会ってイエス同様復活する。
 正にこのとき、自分の体験した苦しみは、あのイエスの道だったのだとわかるのである。

 それにしても一体、どのようにしてその道を歩むこととなるのだろう。
 それは人には分からない。
 この狭き道は入ろうとして入るのではなく、気付くと歩かされているのである。

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[一版]2014年10月19日
[二版]2017年 7月 1日
[三版]2019年 4月 7日
[四版]2021年 3月28日
[五版]2023年 5月21日

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世に勝つとは

 「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)

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 ひとことに孤独と言っても、さまざまな意味合いが含まれている。
 本来的な意味での孤独の他に、社会的な孤立であるとか、さみしさというのも含まれているように思える。まだあるかもしれないが、それらの区分けは、今の自分にはまだできていない。
 イエスがここで言っているのは、孤独というよりも孤立のことである。
 弟子たちにも捨てられ、世にむち打たれあざけられながら十字架に架かる、そういう孤立である。
 しかしイエスは、「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。」という。
 御父がイエスと共におられて、イエスが御父の御心を行なっているということが、このイエスを根拠づけている。

 一方、弟子たちはイエスを信じたというが、そのイエスは「あなたがたは今、信じているのですか」と、つれない。
 信仰とは、自分で信じる類のものではなく、恵みによって信じさせられるものなのである。
 この信仰に至るとき、私たちにはイエスが共にいて支えてくださる。罪赦されて、御父との和解が叶ったからだ。
 そうは言っても私たちは世にいる人間であるから、もはや世の者ではなくなった私たちは孤立する。
 しかし世と争っているのではない。世で見失っていた自分を、与えられた信仰によって回復できたのである。御父の子としての自分である。
 このときに、イエスの「わたしはすでに世に勝ったのです」という言葉が実感される。

 聖書に接するということは、多くのものを失うことを覚悟してでも自分を取り戻すことと言えるように思う。

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[一版]2017年 6月18日
[二版]2019年 3月31日
[三版]2023年 5月20日

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復活のイエスに会うとは

 「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」(ヨハネ16:21-22)

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 復活のイエスに出会う際、私たちは今まで経験したことのなかったほどの激しい苦痛が続く。
 しかしやがて、復活のイエスは戸の外に立ってたたいてくれる。
 このイエスと出会うことで、御父は私たちと和解してくださり、あらゆる罪が赦される。
 罪にさいなまれて続けてきた私たちの、この解放感とこの喜びよ。
 この内面の、腹の底に溜まるような満足感は、パンによる満腹とは明らかに違う。
 何より、この御父との和解という満足感は、もうなくなることはないのである。

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御父の子らしい自然さ

 「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。
 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」(ヨハネ16:12-15)

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 真理の御霊、内住の聖霊について。
 
 「その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます」とは、一言で言うと、そのとき、私たちは瞬時にして変えられるということである。
 では、どのように変えられるのだろうか。コミュ力が上がったり鉄の心臓になったりするのだろうか。
 残念なことにそうではない(これらは世では必要なものだ)。
 私たちは自然でいられるようになる。

 教会に行って間もなかった頃のことだが、職場からの帰りの車中、席に座る自分の前におばあさんが立った。心底疲れ切っていたのだが、教会に行く者たれと全身全霊で席を譲ったことがある。本当は譲りたくなどなかったのだから、偽善以外の何物でもない。
 しかし今はごく自然に譲っている。座ってくれる人、断る人、さまざまだ。
 席を譲るなど些細なことが何なのだと言われそうだが、ここで席を譲っているのは私ではなく内住の聖霊なのである。
 私はこんなにひどい人間であっても、内住の聖霊がこの私を例えばこのように動かしてくれるのである。

 そうなると、内住の聖霊にあって、和解してくださった御父の子らしく私は自然なのである。
 これが救いの果実として瞬時に与えられるものであり、イエスが上の聖書箇所で約束するものである。

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[一版]2019年 3月24日
[二版]2023年 5月 7日

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イエスの有り難みはどこに

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
……
 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)

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 イエス様はあわれみ深いお方で、としばしば語られたり讃美されたりする。
 だが、肉のイエスのあわれみ深さばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。
 イエスのありがたみは、なんといっても、そのあわれみ深い神である「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にある。
 罪なき肉をもつ神の子イエスが、全人類の肉の処罰のためにいけにえの十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 このイエスの十字架と復活に預かると、私たちはイエス同様死んで、そしてよみがえって義と見なされる。御父と和解して、助け主が内住してくださる。
 だから、世に来たイエスがこの世から去ることは、私たちにとって大きな益なのである。

 もちろんイエスはあわれみ深かったろうと思う。
 しかしもし、このあわれみに重心を置くとすれば、いたぶられ苦しんで死んでいくイエスを嘆くばかりになってしまうだろう。
 この死にゆくイエスと、世を去ってのちよみがえったイエスがもたらすものとでは、どちらの方が私たちにとって有り難いだろうか。
 私たちは一体、歴史上の人物をあわれみたいのだろうか、それとも、救いを得たいのだろうか。

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[一版]2011年 4月23日
[二版]2014年 9月27日
[三版]2017年 6月11日
[四版]2019年 3月22日
[五版]2021年 3月21日
[六版]2023年 5月 5日

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父に祈り求めるもの

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16))

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 御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。
 今の私にはこうありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。
 だが、御父が必ず願いを叶えてくださることは違いない。
 ただ、願うものそのものを実現するというようなご利益宗教的なものではないのである。

 ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白 -ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。

    大事を成そうとして
    力を与えてほしいと神に求めたのに
    慎み深く、従順であるようにと
    弱さを授かった

    (中略)

    求めたものは一つとして
    与えられなかったが
    願いはすべて聞きとどけられた

    神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
    心の中の言い表せない祈りは
    すべてかなえられた

    私はあらゆる人の中で
    最も豊かに祝福されたのだ

 この作者の求めは、ただの一度も聞き届けられなかった。
 それどころか病弱で、この詩を書いたときにも入院していた。
 しかし、作者は今、幸福感に満ちている。まさに「心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」という実感に満ちている。
 御父はこのように、頭で求めることではなく、全人的な願いに応えてくださる。
 その人が、よりその人らしくなるように応えてくださるのである。

 私が上の詩を知ったのは、教会に行き始めた数十年前のことだ。
 当時からいい詩だとは思ったが、ある種のやせ我慢のようにも感じたことを覚えている。
 しかし今はそうとは思わない。なぜなら、私こそこの詩の「作者」だからだ。
 そして、この詩の「作者」は世界中に少なからずいるはずだ。

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[一版]2019年 3月20日
[二版]2021年 2月27日
[三版]2023年 5月 4日

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イエスの喜びと私たちの喜び

 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)

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 イスカリオテ・ユダが裏切って、ついにイエスは栄光を受けた(ヨハネ13:31)。
 上の聖句は、このことがあってのちにイエスが弟子達に語った言葉である。
 ここでイエスの言う喜びとは、どのようなものであろうか。栄光を受けた喜びであろうか。
 おそらく、イエスが奥底のところで持ち続けているものを、ここで喜びと言っているのではないかと思う。
 そしてこれは、私たちの奥底にもあるものであり、イエスは私たちのこの喜びを満たすと約束している。

 私たちはかつて、自分の中に喜びというものがあること自体を分からずにいた。
 その頃は、喜びは外部から来ると思っていたが、それはただの刺激に過ぎなかった。
 刺激がなくなるとまた欲し、自分の中の微かな喜びはますます分からなくなる。
 ところがイエスに出会うと内側から喜びが湧き出てきて、それは満たされ泉となる。
 裏切られ、そしてこれから極刑に架かることが分かっていてなお、イエスのこの喜びは誰からも奪われることがない。
 だから、私たちの喜びが誰からも何によっても奪われないのはもちろんである。

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[一版]2021年 3月13日
[二版]2023年 5月 3日

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