律法を追うこと、律法が来ること

 「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。
 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。
 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:30-32)

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 それにしても、彼らの律法に対する扱いはどうであっただろうか。
 自分自身は律法を守れていると思っている。
 たとえば金持ちの青年はイエスに向かって「そのようなこと(戒め)はみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)と無自覚に言い放つ。
 守れているので義が自分にあると思うばかりか、福音書に書かれている安息日論争のように、他人にまで押しつける。
 ところが神からすると、そんな彼らは律法からはほど遠いところにいる。このことは、イエスが山上の説教などで言っているとおりである。
 もとより行ないによって律法に到達できる者はいないが、彼らはまるで到達していないにもかかわらず行ないによって義に到達したと思いこんでしまった。このことが彼らにとってつまずきの石となり、救われて信仰に至ることが少なかったかも知れない。

 さて、上の聖書箇所で対比されている異邦人の義については、同じくロマ書の4章にあるとおりであり、つまりアブラハムの義のことである。
 人間には不可能と思える神の約束を信じ続け、ついに約束の子を授かる。
 これは型であり、神はイエスを介した救いを多くの人に約束している。
 このことを信じ続けるならば、イエスが出会ってくださり救われる。
 その過程で、律法の方からその人に突きつけてくるものがある。

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『神に不正があるのですか』

 「このことだけでなく、私たちの先祖イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。
 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:10-16)

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 「神に不正があるのですか」、理不尽な目に遭うとき、また、復讐したくてたまらないようなときなど、私たちはしばしば神の不正を疑う。あるいは神が裏切ったとすら感じる。
 しかし、それはそうではない。
 なぜなら、神は常に正しいからである。より正確に言うなら、正しさの基準は神なのである。
 復讐などしたくなる卑小な自分は正しさの基準など持ち合わせていないし、もし、それでも自分が正しいとするのなら、それはむしろ独りよがりなのだろう。
 理不尽な出来事をお許しになった神が、どんな場合でも常に正しいのである。

 その、正しさの基準であるところの神は、「自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」。
 長子であるエサウではなく、ヤコブ、あの卑劣なヤコブが愛されるのである。
 人間の頭で考えると、なぜそうなるのかまるで理解がいかない。長子に相続の権利があるのは、当然のことではないか。
 しかし人間がどう頭をこねくり回そうと、これこそ神の正しさなのである。
 そうであるから、私たちはこの神にこうべを下げて祈りを捧げる。

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[一版]2017年12月30日
[二版]2019年11月27日(本日)

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キリストの愛

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

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 自分語りをする。

 数々の困難、患難に遭うとき。
 自暴自棄になりそうなとき。
 そういうときにふっと私が思い出すことがある。
 それは「私はイエスから『いのち』を与えられたほどに特別に愛されているのだ」ということである。
 そしてそのことに思い至ると、こんなことでくじけるなんて『いのち』に照らして何と勿体ないことか、そういう思いに駆られて忍耐できるようになる。
 「キリストの愛から引き離す」というよりも、困難の時にこそキリストの愛を再確認できるというのが個人的な実感だ。

 上の聖書箇所は迫害の激しい時代だったので、こういう書きぶりになったのだと思う。
 だが個人的には、キリストの愛というのは信じる者には一体で、キリストの愛から引き離すと言われてもやりようがない気もする。
 金メッキははげてしまうが、地金はどこまで削っても金なのである。

 イエスは私たちを、根底のところで支えてくださっている。
 日頃はほとんど忘れていても、いざというときに思い出される。
 表向きイエスを棄てることが、もしかするとあるかもしれない。
 だがそうであっても、イエスはなおも私たちを愛し続けてくださっているのである。

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[一版]2011年10月30日
[二版]2017年12月24日
[三版]2019年11月22日(本日)

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『益』とはなにか

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」(ローマ8:28-29)

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 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあるところの「益」とは、誰にとっての益だろうか。
 専ら自分自身にとってのものではなく、神および神の秩序にとっての益である。
 もし私たちが「神のご計画に従って召された人々」なのであれば、神および神の秩序にとって益なことは、自分自身にとっても当然に益である。
 私たちは、イエスを長男とする家族なのである。

 このことについては、モーセの一生を思い出すとよく分かる。モーセは順風満帆にリーダーになったであろうか。そうではなく、彼には不遇な時期が長く続いたのである。しかし、その時期を抜けたときに、すべてのことが、神とモーセ自身の双方にとって益として働いた。

 益となる、ということを専ら自分自身についてのことと考えるならば、聖書は単なるご利益宗教に堕してしまう。
 それどころか、そのような読み方というのは、自分に都合の良い言葉をあちこちから拾い集めて我田引水の解釈を施しているだけで単に聖書を利用しているのであり、聖書に接するというのとはまるで違ってくる。
 この聖書に対するスタンスの違いも「神のご計画に従って召された人々」に関することであり、そのスタンスを変えてくださるのは御子なのである。

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[一版]2015年 7月12日
[二版]2019年11月21日(本日)

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肉に従う責任

 「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:12-13)

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 私たちは、肉に従う責任を、確かに肉に対しては負いようがない。
 この、肉に従う責任は、もっぱら神に対して負っているのであり、このことを罪という。
 その罪ゆえに、私たちは神の御前に死んでいる。いや生きてはいるのだが、それは生物体としてのそれ以上のものではない。
 しかし、イエスの十字架と復活が私たちの身に起こると、私たちは罪赦され、信仰が与えられる。
 そのとき私たちは、御父の思いの通りに思い、考え、動くようになる。強いられるのではなく、変えられたのである。
 こうして、神とともにある本来的な生が回復されてゆく。

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[一版]2015年 7月 5日
[二版]2019年11月18日(本日)

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死んでいるからだ、生かす霊

 「もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:10-11)

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 私たちのからだは、どの人も死んでいる。罪のゆえに死んでいる。
 神の律法を遵守できず、死んでいる。義人はいないのである。
 そうすると、「霊が、義のゆえに生きてい」るかどうかが焦点となる。
 キリストによってもたらされる、この霊は、自分の力ずくでぶんどることはできない。
 救い主が、恵みによって、この霊を下さるのである。
 そのとき、からだは死んだままでも、この霊が私たちを突き動かして生かしてくださるようになる。

 そうなるためには、まず、からだの死んでいることを私たち自身がはっきりと自覚できることがスタートラインになる。

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[一版]2015年 6月27日
[二版]2017年12月10日
[三版]2019年11月17日(本日)

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信仰は求めて与えられる

 「信仰は求めて与えられる」

 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
 肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:5-8)

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 私たちは一体、肉に従うか御霊に従うかを、自ら選択したのであろうか。
 そうではない。私たちには、肉に従う以外ないのである。
 神の律法に服従できない肉。神の怒りを買う肉。
 ところが、キリスト・イエスは、私たちのこの肉への従属から解放してくださるのである。
 肉は極刑で処罰され、そののちイエス同様復活して義と認められる。
 このこともまた、自分で選択して行う類のものではない。
 だから、自分の選択によって信仰する、ということはなく、信仰は求めて与えられるものなのである。

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[一版]2015年 6月21日
[二版]2017年12月 3日
[三版]2019年11月16日(本日)

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いのちの御霊の原理

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。
 神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:1-4)

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 神の律法は素晴らしいものだ。
 ただ、この神の律法、完璧な律法を守ること、守り通すことが、人間にはどうしてもできない。
 それというのも、人間に備わるアダムの肉のためである。
 このアダムの肉は、神の定めた律法を完遂しようとしてもできない、罪深いものである。
 このことについて、聖書には、「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました」と書かれている。

 無力なアダムの肉の代わりに、何を「神はしてくださ」ったのだろうか。
 「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです」。
 世に遣わされた神の子イエスは、アダムの肉をもっていた。「人間・イエス」である。
 人間・イエスは、もっぱら処罰されるために、この世に来られた。
 そして、神の子がまとったアダムの肉は、罪を犯していないにもかかわらず、最も罪深いとして、極刑である十字架の上で徹底的に処罰された。
 これは神が下した処罰である。
 では、神は何を処罰したのだろう?
 イエスを、ではなく、アダムの肉、これを処罰された。

 このアダムの肉の処罰が「いのちの御霊の原理」によって腑に落ちたとき、その人のアダムの肉も処罰される。
 つまり、私たちは、神の律法をどれ一つとして守れなかったかどで、極刑に付される。
 イエスと同じように処罰され、そして、イエス同様復活する。
 そのときに「律法の要求が全うされる」、すなわち、律法に照らして罪なき者とみなされる。
 実際には罪はある。
 だが、ないとみなされる。これが私たちの「救い」である。
 アダムの肉は処罰されて、罪と死の原理から解放され、今はいのちの御霊の原理のうちにある。
 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。
 処罰されたアダムの肉を持ち続けていても、罪に定められることはない。

 そういうわけで、このアダムの肉は、自力で処理しようとしても、けっしてできず、どうしても「処罰され」るものである。
 そうであるから、信仰とは力ずくで勝ち取るようなものではない。力ずくで信仰させられるのである。

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[初版]2007年 9月12日
[二版]2007年11月11日
[三版]2008年 2月20日
[四版]2008年10月13日
[五版]2011年10月 8日
[六版]2015年 6月14日
[七版]2017年11月23日
[八版]2019年11月15日(本日)

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罪の処罰と御霊の支配

 「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

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 イエスの十字架について。
 「肉において罪を処罰された」とは、罪なき肉を持つイエスがこの極刑を受けることよって、私たちの肉に宿る罪に処罰を与えたという意。
 言い換えると、イエスは自身を犠牲にする十字架によって、私たちの罪を罰したのである。
 このことは、恵みによって復活のイエスと出会ったときになされる。すなわち、罪の赦しである。
 このときに内住した聖霊が私たちを突き動かすようになる。

 ところで、先日同僚と話していて、できるだけ矢面に立たないで責任を取らないようにして、というようなことを言っていて、私も同じ立場には違いないから同調したということがあった。
 この同僚の言っていることは、減点主義の日本社会を生き抜く上ではまったく正しい。
 責任を負えずに減点されるリスクを考えると、そういう方向性になる。我が身はかわいい。
 しかし、この方向性は、上の引用聖句にいう「肉に従って歩」むことなのだと思う。
 「御霊に従って歩む」とき、リスクのある、しかも自分の得にもならないことを、あきれられながら引き受ける、そういうことがたまにある。
 もちろん損なことは頭では分かるのだが、後悔はない。
 社会ではやりずらいのだが、満足感は小さくない。

 この物質主義的な社会は肉に従って歩む人々が築いたものであるから、御霊に従って歩む私たちはこの社会の中ではうまくはやれないのではないかと思う。
 しかし、聖霊が内住し、この聖霊に突き動かされるということは、人に根源的な充足感とか満足感をもたらしてくれる。
 言い換えると神と共にある喜びであり、被造物である人間にはもともと不可欠なものに違いない。

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解放

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:1-2)

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 「こういうわけで」、とは、直前の「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:25)を指している。
 言い換えると、イエスによる救いとそれによる変化を指している。
 この8章は全体的に、イエスが出会ってくださって罪赦されるとはどういうことかが、7章との対比で書かれている。
 だから、この8章で書かれていることは、誰かれにも当てはまるものではないのではないかと思う。

 上の引用箇所には、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」と「罪と死の原理」が対比されている。
 言い換えると、罪赦されて内住の聖霊に突き動かされていることと、その前の、律法を守ろうとしては守れずに律法に死んでゆく過程とが対比されている。ちなみに、さらにその前の、律法そのものを知らない段階があるが、ここでは省略する。
 私たちは律法に死んではじめて解放され、聖霊という内なる律法に従うようになる。
 それで私たちは、肉の罪はあっても罪に定められることはないのである。

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