「私」が「私の肉」を責める

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」(ローマ7:15-19)

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 善悪の基準はここではもちろん律法であり、「私の肉」には善がないと「私」自身が気づかされる。
 律法を奉じる「私」が「私の肉」を責めざるを得ず、これが苦しい。本当に苦しい。
 イエスは十字架で自身の身体を処分したが、「私」のこの苦しみはイエスが先に味わったものと同じである。
 そしてイエスがよみがえったのと同じくよみがえる。それは、初めからあったところのものである聖書のことばによってである。

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聖なる律法

 「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:9-12)

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 ここでいう「死」とは生物としての人の死とは違い、ここでいう「殺した」というのは殺人とは全く違う。
 「死」とは聖なる律法の罪に死ぬことであり、あえて言うなら御父に殺されることを指す。
 もう行き詰まってしまってどうにもならなくなった私を御父が殺して、そして御父は私をよみがえらせる。
 このわざは2000年前に御子イエスによって示されたもので、私たちはこのイエスと同じようになって救われるのである。

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律法は罪なのでしょうか

 「それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマ7:7)

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 もし律法を知らなかったなら自分の行いが罪に当たることを知らずに済んだとパウロは言う。
 パウロは分かっていてこう書いているのだが、律法を知らなかったなら何をやってもよかったのだろうか。
 律法がモーセを介して人々に伝えられ明文化される前からこの神の律法は存在していたのだから、律法を知っているか知らないかは罪ということについては関係がない。
 律法を知らずに罪を罪とも気づかず御父の怒りの下に居続けることすらわからないのと、律法によって罪を罪と知って生みの苦しみを味わうのとどちらがよいのかといえば後者なのである。御父と御父のご計画に従っているからだ。
 十字架の死とよみがえりの細き道はとても苦しい道のりであり、それは今までに経験したことのないほどのものである。
 もちろん誰しも苦しみは厭うので「律法は罪なのでしょうか」とこぼれるが、それは細い道を歩んでいてこそのものなのだ。

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アダムを追い込む律法

 「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。
 しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:5-6)

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 私が聖書を手にしてまもなく、山上の説教での次の聖句を知った。
 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)
 そのころたまたま寄ったコンビニのレジの女性が可愛らしく思えたのだが、それと同時に上の「すでに心の中で姦淫を犯した」が思い出された。
 そのとき私の心の中には、レジの女性を可愛いと思ってしまうということ自体がいけないことなのかという不安と後ろめたさがふつふつと湧き上がっていった。対人恐怖症の始まりである。
 もし私が聖書に接する前だったら、そのような不安など感じることもなく可愛い子ラッキー、くらいだったはずだ。

 このように、律法は肉の罪をその人に気付かせる役割がある。
 イエスの山上の説教に至っては突き詰められて、律法を遵守することなど誰一人できない、ということが説かれている。上の「姦淫」の箇所もそうだ。
 可愛い子を見たら可愛いと思うしイケメンを見たらラッキーと思う、このような私たちの肉の性質は、イエスに言わせると姦淫の罪にあたるのである。
 こうして律法は罪によって私たちの肉を死へと追いやってゆく。

 ではなぜ律法群は私たちを死へと追いやるのだろうか。それは正に死に至らしめるが為である。
 その道をひらいたイエスは自らの肉を十字架に架けて処分し、三日目によみがえられた。
 このイエスの歩みと同じになるように律法が私たちの肉を殺し、そして御父が私たちをよみがえらせる。
 このときに「自分を捕えていた律法に対して死んだ」、「新しい御霊によって仕えている」こととなる。

 律法は今も厳然と存在するが、私たちは律法から解放された。
 というのは、律法に死んで今はキリストが下さった「いのち」に生きているからだ。
 ちなみに私の対人恐怖症はきれいになくなったわけではないが、これは言ってみれば「とげ」(2コリント12:7)のようなものであり、そんなとげとは比べものにならないものをいただいたと思う。

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[一版]2009年10月18日
[二版]2011年 9月24日
[三版]2015年 5月10日
[四版]2019年10月21日
[五版]2021年 8月21日(本日)

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私の主

 「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」(ローマ6:12-15)

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 私たちは、キリストの十字架の死と同じように死に、キリストの復活と同じようによみがえった。 もしも私たちがキリストと出会ったのであれば、そうである。
 この出会いの前、私たちは律法に責め立てられて続けて自分の罪に苦しみ抜き、その苦しみたるや、かつてないほどにまでなった。
 しかしそのような私たちは、恵みによってキリストの十字架と同じ極刑に処せられ、そして罪赦された者としてよみがえったのだった。

 そうして私たちの内には、「助け主」が与えられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」(ヨハネ14:16)とあるところのものである。これは、エレミヤ31:33にある、彼らの中に律法を置くということに一致し、私たちの中で預言は成就した。

 この、内なる「助け主」が私たちの行ないに深く関わる。
 なにをやっていいか、なにをやるのはいけないのかについては、この内から突き上げてくるものがある。
 以前の罪深かったころは、肉の衝動が自分の身を突き動かしては律法に違反していたのであるから、私たちが罪赦されて神と和解できたということは、私たちの主(しゅ、あるじ)が肉から「助け主」へとがらりと変わったということなのである。
 そういうわけで、「罪を犯そう」とはそもそもならないのである。

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[一版]2019年10月18日
[二版]2021年 8月15日(本日)

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律法の下、恵みの下

 「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。」(ローマ6:11-14)

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 「神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」というのは、「神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」ではない人に言っている。
 言い換えると、恵みの下にある者にではなく律法の下にある人、キリストのバステスマに預かる以前の人に言っている。
 何を言っているのかというと、「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」、「あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」、また、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」ということだ。
 義人はいないのに義の器たれというのはきわめて厳しいことで、そもそも罪の支配をもたらすところのものである律法を遵守して罪を犯すなというのは無茶かも知れない。
 山上の説教も同じなのだが、これが御父の厳しさであり神の律法の守れなさ、人の罪深さなのである。上の聖書箇所はパウロを通した律法と言ってもいいかもしれない。
 そして律法の下にある人はこのパウロの律法をも守り行うのである。不義な者であるにもかかわらず義の器として神の手足となり、律法が引き起こす情欲に打ち勝ってゆくのだが、この律法を行おうとするほどかえって守ることのできない罪意識にがんじがらめになっていき、その果てに気づくと極刑の十字架に架けられている。
 そうしてその人は恵みの下にある者となる。この厳しい創造主と和解できて罪赦され義と認められ、律法に変わって内住の聖霊が内側から導いてくださる。「神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」のことである。

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御父からの否認、御父との和解

 「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)

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 ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。
 刑事罰などにあたることを英語では"guilty" と形容する一方、聖書が扱う罪は"sin" が相当する。
 このsin は、神の律法に叶うか違反するかであり、この判断の主体は御父である。
 乱暴に言うと、御父が私を罪に定めたなら、その理由が私には分からなくとも私はsin とされてしまうのだ。
 そして罪と罪意識でがんじがらめになったところで、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を力ずくで受けさせられる。
 キリストの死と同じように極刑に死に、キリストの復活と同じように復活した先には、「いのちにあって新しい歩み」が始まる。
 この新しい歩みに際して、御父はもはや私たちをsin には当たらないとみなしてくださる。「キリストとともに葬られた」からだ。
 それどころか、仮にguiltyとされてすら御父は私たちをsin ではないと認め続ける。これが御父との和解なのである。
 この和解のもとに新しい歩みを日常の中で進めてゆくと、いいこともいやなことも、楽なこともつらいことも多い中で、生きるということそのものへの満足感が奥底から湧いてくる。
 「キリストとともに生きる」とはこういうことだ。

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出発点としての律法

 「律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
 それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。」(ローマ5:20-21)

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 律法は守り通すためというよりも、律法を守り通せないという罪の意識を自覚させる。
 かつて私が律法を知らなかった頃は、罪の意識にさいなまれることはなかったし、明らかに悪いことも平気でやっていた。罪にあたるという意識自体がそもそもなかった。
 しかし心のどこかがうめき続けるので、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ3:2)という今も鳴り響くこの声を聞いた私は聖書を通して神の律法に接し、この律法に照らして罪深き者であり、守ろうにもどうにも守り通せない罪人であることをだんだんに自覚せざるを得なくなってきた。

 ところでバステスマのヨハネは水の洗礼を行ったが、これは救いの型を周知するものであった。これは多くの教会でも行われている。
 一方イエス・キリストによる本物のバステスマは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」とあるとおりで、それは罪からの救いを求めるすべての人に注がれうる。
 このイエスのバステスマによって人は死に、そしてよみがえる。水の洗礼に象徴されるものが実際に行われる。
 この肉から罪はなくなりようもないが罪赦され、義から程遠い者であるにもかかわらず義とみなして下さる。
 私たちをがんじがらめにし続けていた肉から、私たちは解放されるのだ。

 だから神の律法こそ救いの出発点なのである。
 律法が私たちに肉の罪を知らしめるので、それから解放されたくて十字架にすがる私たちに恵みが降り注ぐのである。

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[一版]2011年 9月 4日
[二版]2015年 4月29日
[三版]2017年10月15日
[四版]2019年 9月29日
[五版]2021年 8月 8日(本日)

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人としての死、人としてのいのち

 「もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)

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 死とは生物としての死を指すのではなく、人としての死を指している。
 いのちとは生物としてのいのちを指すのではなく、人としてのいのちを指している。
 「灰色にくすんで見える同僚たち」とか「毎月のノルマ達成に追われるだけ」といった表現が、様々な本に多く見られる。生活や仕事に追われ続けて自分自身を見失ってしまうことだが、彼らは自分自身ではそうとは気づいていない。
 一方、聖書に出てくる嫌われ者の取税人はこの点自覚が強かったので、たとえばマタイはすべてを捨ててイエスに従った。
 このように、人として死んでいる人というのは古今東西多くいたのだろう。まさに「ひとりによって死が支配するようになった」のである。
 この死から逃れることはできない。しかし、この死から復活することはできる。
 イエスの十字架と復活のわざがその初穂であり、イエスが救世主と言われるゆえんである。
 恵みによってイエスに出会うと、御父との和解によって罪赦されて、人としてのいのちがほとばしる。
 この復活のためには自分の死んでいることがすとんと腑に落ちることが第一歩であり、そのためにこそ聖書がある。

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死に服する被造物への恵み

 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
 ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。」(ローマ5:12-15)

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 善し悪しの一線というのは、明確にまたは暗黙の内に種々定められている。
 たとえば泥棒をすれば窃盗罪に当たり、しなければ当たらない。これは刑法という明文化された一線に基づいている。一線を越えたかどうかを判断するのは警察や司直であって私ではない。
 同じように、律法は御父がモーセを通して私たちに与えた一線であり、この一線を越えたかどうかを判断するのは私たちをお造りになり内面までよくご存じの御父であって私ではない。
 「死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配」したのは、この一線が暗黙の内のものであったからで律法違反には変わりはなく、このことはパウロが伝道した異邦人も現代の人々も同様である。

 神が造られた輝かしい被造物はこのように死んでしまっているが、救い主イエスは私たちをこの死からよみがえらせる。
 どのようにして救うのかというと、イエス自身がわざとして示したとおりに死なせてよみがえらせるというによってである。
 この救いはわざではなく恵みにより、そして「神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです」。
 律法を通して自分が死んでいると分かった人に与えられる特権である。

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 健やかな一日をお祈りします!

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