新しい約束

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:20-22)

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 律法とは、神の完全な秩序の文字である。
 これを守るように言われた人間には、しかし、律法を行い切ることがどうしてもできない。
 そのことは、イエスの山上の説教で先鋭化して明らかにされる。
 そうすると、「律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められない」とあるのは、そもそもだれひとり、神の基準に照らせば律法を行なうことができておらず、それゆえ義に到達し得ない、ということだ。
 これが旧約の時代である。

 「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました」。
 すなわち、十字架のイエスと、その復活である。
 イエスは肉を十字架につけてこれを処罰し、神がその処罰を良しとしてこのイエスをよみがえらせた。
 ここでいう「肉」は、私たち一人一人の罪、アダムの肉のことである。
 イエスが旧約時代よりメシア(キリスト:救世主)と待ちこがれていたのは、この意味において成就した。イスラエル再興という些末なことのためになど来られたのではない。

 そして、このイエス・キリストは、新しい約束をこの全世界に導入してくださった。
 それが「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」である。
 イエスが私たちの罪の身代わりに十字架で処罰したのであれば、神の御目に、私たちはキリストにあってこの罪は赦されている。
 しかも、その処罰の正当性は、神のわざである復活によってゆるぎない。
 だから、キリストによる罪の赦しもまた、ゆるぎない。旧約時代とはその点、全く異なる。

 イエス・キリストを信じる信仰は、全世界すべての人の鼻先にぶらさがっている。
 だが、すべての人がイエスキリストを信じるわけではない。
 更に言えば、パウロの回心(使徒9:3-19)のようなことが、キリストの信仰のために不可欠なのだろう。
 ちなみにこのパウロは、律法を突き詰めようとしていた。
 人間が、神の基準に照らせば律法を行なうことができておらず、それゆえ義に到達し得ないということ自体は、今も全く変わっていない。
 この律法が、義に飢え乾く人を追いつめ、義とされるための新しい約束へと進ませるのである。

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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
Unknown ()
2008-09-14 11:43:22
よろしければ。
踏み絵、踏みますか?

http://rokorikorikoriko.blog44.fc2.com/
 
 
 
Unknown (Levi)
2008-09-15 11:49:00
 はじめまして。
 ブログ拝見しました。
 最近立ち上げたブログのようですが、何かあったのでしょうか。
 内容は、私が思うところと一致する部分も少なからずあります。

 よろしかったら、リンクの許可を頂けませんか。
 
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