きょう、わたしがあなたを生んだ

 「 わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」(詩2:7)

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 御父は言われる。私に言われる。
 「きょう、わたしがあなたを生んだ」と。

 「きょう」とはいつであろう。
 御父がはじめの人アダムを生んだとき。
 イエスが肉を持つ者として生まれたとき。
 アダムの子孫である私たちが上の聖句にはじめて接したとき。
 そののち、キリストの十字架と復活と同じように、私たちが死んで新たに生まれたとき。

 私たちは、父である神とあまりに遠く離れてしまっていた。
 だが、この新たに生まれたときに御父との和解が叶う。
 ほんとうの生みの親と共にあることの、なんという安らぎ、なんという心強さよ。

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[一版]2020年 4月 4日
[二版]2023年 8月27日

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植わった木

 「その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

 悪者は、それとは違い、
 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)

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 東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる。
 あるいは世渡り上手というのかもしれないが、根がない、というか、まさに「もみがら」だ。
 彼らは自らのことを「みんな」と言う。

 一方で、「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにしっかり根を張る「植わった木」。
 一本、芯があり、彼は自らのことを「私」と言う。

 根は水路の土手が崩れることを防ぐ。
 木の実を喜んでもぎ取る人がいる。
 そして葉でできた木陰で人は一息つく。
 こういうのをこそ「栄え」というのだろう。

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[一版]2007年 5月10日
[二版]2007年 9月14日
[三版]2008年11月13日
[四版]2020年 3月30日
[五版]2020年12月20日
[六版]2023年 8月20日

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聖書の目的

 「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。
 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30-31口語訳)

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 ヨハネ伝の結び。聖書というものが書かれて編まれた目的について。

 それはもっぱら、「イエスは神の子キリストであると信じるため」である。
 それ以外の目的はない。
 イエスが救世主キリストである、ということは、聖書を通してのみ分かることだ。
 だが、ただ聖書を何回も繰り返して読めば、例えば百回読めば分かるようになるというものではない。
 百回読むとはわざなのであり、それでは肉の努力によって肉を救うということになってしまう。暗唱聖句なども同様で、救いのためには意味はない。

 だが、あるときイエスが救世主であると分かったならば、「イエスの名によって命を得」て救われる。
 この救いとは、わざではなく恵みである。
 頭やからだによる理解や努力ではなく、恵みによる出会いなのである。
 出会うためには、細々とした知識や努力は全く不要だ。
 なぜなら、聖書は、あるときその人に突然語りかけてくるからである。
 字義通りの意味をはるかに超えて、み言葉によって語りかけてくる。
 これが恵みによるキリストとの出会いである。
 聖書はもっぱら、このようにしてキリストと出会っていのちを得るために書かれている。

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[一版]2009年 7月20日
[二版]2011年 6月 9日
[三版]2014年12月30日
[四版]2019年 6月30日
[五版]2021年 5月23日
[六版]2023年 8月13日

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トマスの思考と信心

 「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」(ヨハネ20:24-28)

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 トマスは言う。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 イエスが十字架に架かったときにできた釘の跡、それからローマ兵に槍に突かれたわきの傷、こういうものが確認できればそれは確かにイエスである。こういう論理的思考をトマスは展開する。

 このような論理的思考のやり方は、特に自然科学を大きく発展させ、我々は物質に満ちあふれるようになった。だが、この論理的思考は信心とはまるで異なる。信心は論理ではないし、非合理な領域のものである。
 復活のイエスに出会ったトマスは、イエスの傷跡を確認することも忘れて「私の主。私の神。」とイエスを信じる。復活のイエスという非合理に出会うと、このトマスのような上っ面の論理的思考など吹き飛んでしまう。

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トマスはイエスを信じた

 「八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:26-20:29)

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 懐疑的な弟子トマスと復活のイエスとの出会い。

 自分の不在時に復活のイエスが現れたと聞いたトマスは、自分はそんなことは信じないと言い張った(20:19-25)。
 そのような者にも、ただ恵みによってイエスは出会ってくださる。
 トマスが復活のイエスを信じたのは、イエスのからだのあちこちを点検できたからでも、また、イエスを間近に見たからでもない。
 復活のイエスと出会ったからなのである。

 今、私たちが復活のイエスを直接見るということはない。会いに行くこともできない。
 復活のイエスの方が私たちを訪れてくださり、戸を叩いてくださる。
 そしてこのときイエスと出会うことができるということは、トマスの場合と同じである。
 このときにイエスを信じさせられるということもまた、トマス同様である。

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[一版]2009年 7月19日
[二版]2011年 6月 8日
[三版]2017年 8月 6日
[四版]2019年 6月23日
[五版]2021年 5月19日
[六版]2023年 8月 9日

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私たちは全権委任されるほど御父に認められる

 「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ20:22-23)

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 罪の甚だ多く神の怒りの下にあった私たちは、この復活のイエスを通して神から罪赦され、その神との和平の中にある。
 ここで罪とは、神の律法に違反することである。
 この律法を守り通そうとすることにトライしようとしても、アダムの肉ある身としてどうしても違反を犯してしまう。何度やってもだめなのだ。
 私たちは、神の律法を守り得ないゆえに、神の怒りの下に置かれたばかりか、この御父と対立し続けてきた。

 それでも神は御子を受肉させて世に送り、律法を守ることのできないこの肉そのものに十字架という処罰を与える。そのことを成し遂げた御子は、三日目に復活する。
 この十字架と復活のイエスへの信仰が恵みによって与えられて平安を得、御父に赦されたことを実感する。
 この御父には、罪を罪のままとする権限もあれば、罪を赦す権限もある。恵みとは後者に預かることである。

 だから大切なことは、この全能の御父から、恵みによって罪赦されることだ。
 そのとき、私たちは罪深いアダムの肉を未だ持っているにも拘わらず、創造主と和解できるのである。
 そのアダムの肉を持つ私たちは、誰かを赦すとしてもなかなか赦すことができない。もとより、赦さないのは簡単だ。
 いずれにしても、私たちは御父からこの罪の赦しを全権委任されるほど、御父から認められているのである。

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[一版]2014年12月29日
[二版]2019年  6月16日
[三版]2021年 5月16日
[四版]2023年 8月 6日

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