生ける水の川

 「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ7:37-39)


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 心の飢え乾きを潤すためには、いったい人はどんなことをすればよいのだろう。
 遊興や酒宴は、ほんのいっときのごまかしにしかならない。
 その余韻が過ぎさってしまうと、あの飢え乾きがぶり返してくるのである。

 イエスを信じる者は、「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」。
 心の根っこの部分が、生ける水の源になる。
 今まではこの水源は塞がれていた。私たち自身の罪が塞いでいたのである。
 私たちはこの罪によって十字架という極刑に処せられ、そしてイエスによってよみがえる時が来る。

 罪は赦され、御父は和解して下さる。なぜなら私たちは罪に死んだからだ。
 このときにイエスを信じる信仰が与えられる。
 塞がれていたものは取り除かれ、心の奥底から生ける水が溢れんばかりに流れ出す。

 この生ける水の川は、私たちの内部からほとばしり、枯れることがない。
 そして、私たちの心は満ち足りる。
 一方で、外部からの刺激はこの満足感とは関係がないので、心の飢え乾きには意味をなさない。
 単にごまかしているだけになってしまう。

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[一版]2009年 1月31日
[二版]2011年 1月 4日
[三版]2014年 7月19日
[四版]2018年12月29日
[五版]2020年 9月27日(本日)

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イエスが私たちのところへと訪れる

 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)

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 パリサイ人(の遣わした役人)とイエスとのやりとり。

 公生涯のあとにイエスが行くところというのは、天の御国である。
 その御国にいるイエスを、パリサイ人は探しても見つけることができないし、彼らパリサイ人は御国に来ることもない。
 このこと自体は、私たちにとってもそうである。
 私たちがイエスを探そうとしてもどこにも見つからないし、私たちが自力で御国にたどり着くということもない。
 そうではなく、イエスが私たちのところへと訪れるのである。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙3:20)とあるとおりであり、このことが恵みなのである。

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『この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのか』

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。
 だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ7:14-17)

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 宮に上ってイエスが言うことというのは、自分たち、つまり御父と御子のことについて、そのままに言っている。
 学ぶも学問もない。
 このことについてイエスは、「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」と言っている。
 罪赦されて御父からいただいた内住の聖霊が、私たちにわからせてくれるのである。

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無理解

 「そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:3-5)

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 イエスの肉の上での兄弟たちの無理解。

 イエスと兄弟たちは、小さい子どもの頃から一緒だった。
 兄弟たちにとっては、記憶に残るあのイエスなのだ。一緒に遊び一緒にはしゃぎ、時には喧嘩したあのイエス。兄弟間でパンの奪い合いもしたかもしれない。
 しかし、今ここで彼らの前にいるイエスは、彼らの記憶の中のイエスではない。
 肉をまとった神、救い主イエスなのである。
 そうしたら、なまじ家庭で知っていた分、兄弟たちはイエスを救い主と認めることは余計にできなかっただろう。信じていない、というよりは、信じようがないという方が近いと思う。

 この無理解については、イエス自身も「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(マタイ13:57)と言っているとおりである。
 それどころかイエスは、「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)とまで言い切る。
 つまり、「いのち」を得て生まれ変わることによって、家族、親戚や旧知の間柄からの無理解にさらされ、それどころか敵にまで回られてしまうのだ。言い換えると、世渡りをやめた私たちは世から理解されなくなる。
 だが、罪に死んでいた私が、今は神との平和の中で安らいでいる。いただいたこの「いのち」に満ち足りている。

 だから、パンによって生きるのと、いのちのパンによって生きるのとは、まるで違ってくる。そしてここからして世との無理解が生じるのだろう。
 イエスもそうであったように、この無理解は避けられない。

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[一版]2018年12月24日
[二版]2020年 9月20日(本日)

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恵みを待つ忍耐

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
……
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)

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 去っていった弟子たちは、イエスに従えば「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。
 ところが、ここでイエスが言ったのは、御父の御心による恵みについてであった。行ないではなく恵みであるというのは、イエスがここで言うとおりの意味である。
 この去っていった弟子たちは、こう思っただろう。「こいつについて行ったって何もないんだってさ!」。

 では、私たちは何故それでもイエスにつき従うのだろう。何の役に立つというので聖書に接するのだろうか。
 それはもちろん、私たちがイエスに救いを求めているからだ。
 イエスは私たちをあわれんで、私たちのもとを訪れてくる時が来る。それが天からのパンなのである。
 わざではなく恵みによってなのであるから、恵みにあずかるまで忍耐強く待つ必要がある。
 去っていった弟子たちは、この忍耐が足りなかった。

 イエスとの出会いに必要なものは、行ないではなく、恵み、そしてその恵みを待つ忍耐である。

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[一版]2017年 4月 2日
[二版]2018年12月16日
[三版]2020年 9月14日(本日)

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世の基準軸、御父の基準軸

 「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:57)

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 イエスは父によって生きている。
 それ以外の何か、たとえば金銭欲や名誉欲や権力欲などによって生きているのではない。

 私たちは日ごろ、そういったものを満たすべくあくせくしていた。
 しかし、そのようなものは私たちを本当には心満たさない。
 10億儲かったら100億へ、100億儲かったら1000億へ。
 このような際限のなさは、1000億が私たちの心を満たす何かではないからだ。
 また、その逆も同じことで、金銭という軸を中心に右に回るか左に回るかの違いしかない。

 しかし、イエスが与えるパンを食べた者は、こういった世の基準軸から離れてしまう。
 「父によって生きる」という基準軸へと瞬時に移る。
 そして、御父と和解した私たちは、はじめて心満たされるのである。

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一回限りの正餐

 「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)

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 イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。
 この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。
 この十字架のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。
 そのとき、私たちは「いのち」をはじめて与えられる。

 また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。

 両者は異なる表現だが、どちらも同一の本質を指している。
 このようなことは、この一回限りである。
 一回出会いがあって赦されれば足りるからである。
 定例の儀式にはまた、別の目的がある。

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[一版]2017年 3月26日
[二版]2018年12月15日
[三版]2020年 9月 7日(本日)

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神によって教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

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 イエスは言う。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 肉をまとった神がその肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのか。それが十字架である。
 イエス自身が極刑を受け、この肉を処断された。
 そして御父はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
 このイエスの道が人々を救う。
 私たちも、このイエスに続いて自身のアダムの肉を十字架で処断され、そして赦されて復活するのである。

 ここでいう赦しは、マナとは何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話しているが、彼らが欲しいのは空腹を満たすマナであって、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
 だからイエスは、この群衆にこう仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、気づくとその人はイエスの道に入れさせられている。

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[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]2010年 3月22日
[四版]2010年12月30日
[五版]2014年 7月 7日
[六版]2017年 3月12日
[七版]2018年12月14日
[八版]2020年 9月 6日

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パンでは満たされないもの

 「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:35-37)

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 マタイ伝の中で試練にあったイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)と言った。
 しかし、この物質主義の世はパンで満ちあふれ、人々は「いのちのパン」のことなど思いもしない。加えて、現代は情報もあふれかえっている。
 だが、パンという物質や情報では、人の魂が満ち足りるものではない。
 通勤電車では客同士の喧嘩が絶えず、しかもどんどんひどくなってきている。些細なことでも怒鳴り合っている。

 つまり、パンに満ち足りるほど人は渇く。
 渇くことへの自覚がない人は、うっぷんが外に向かってたとえば他人に喧嘩をふっかける。
 しかし、これだけパンがあふれる中で、もし自分の飢え乾きに気付いたなら、私たちはイエスのもとに行く狭き道へと吸い寄せられたのだ。
 イエスは私たちに会ってくれる。そして、このイエスは私たちを決して捨てず共にいてくださる。
 人が本来求めている満足感は、このイエスと共にある満足感であり、パンの満足ではない。

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[一版]2018年12月 9日
[二版]2020年 9月 5日(本日)

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見ているのに見えない

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」(ヨハネ6:26-31)

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 五千人の給食という奇跡によってパンを食べて満足した群衆はイエスを追いかけ、翌日に見つけ出す。
 そして彼らはこう言うのだ。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか」。

 パンを食べたという鮮やかなしるしを実体験してもなお、「しるしとして何をしてくださいますか」と言うのであるから、しるしをはっきり見てすら、しるしが分からないということである。
 昨日のようにパンがぽんぽんと毎日出てくれば食い扶持に困らないわけで、そもそもしるしになど関心はないかもしれない。
 イエス自身、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言っている。

 しるしを見てすらしるしに見えない盲人は、おそらくは生まれつきの盲人だったのだろう。
 見えているのにパンにしか目がいかない。
 一方で、このヨハネ伝には、イエスが生まれつきの盲人を見えるようにしたことも書かれている(第9章)。
 盲人を見えるようにする恵みは神の主権に由来し、また、見えないままにすることもまた、神の主権に由来する。

 では、恵みは決定論なのであろうか。
 人の頭で導き出せる答えはない。
 ただ言えることは、誰もが恵まれうるということである。少なくない人が経験則からそう言うだろう。
 そのために一つだけ人間ができることは、神に祈り求めるということだ。
 祈るなんて人の頭には馬鹿らしい、パンの群衆も頭の勘定だけでしか動かない、盲人とは正にこのような者たちの謂いである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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