奴隷の霊からの解放

 「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。」(ローマ8:13-15)

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 希代の芸術家である岡本太郎は、「世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。」(「自分の中に毒を持て」,p.137」)と書いている。
 ここでいう「流されたままで生きている」というのが、上の聖書箇所に言う「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けた」ということになるのだろうか。
 マニュアル全盛の現代において、この奴隷の霊はむしろ歓迎されている節がある。コンビニに勤める外国人が「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかどちらがいいだろうかと日本人に相談すると、マニュアル通りに言えばいいんだと返ってきたという話を聞いたことがある。

 このような奴隷の霊から人を解放するのがイエスの十字架と復活である。
 イエスと同じように肉に死に御霊によみがえる。これを執り行うのはその人自身ではなく御父である。
 御父はその人と和解してくださり、その人は罪赦される。生ける水の川が枯れていた泉からあふれ出て、自由とは何かをその人は知る。死人が死んで生まれ変わったのだ。
 そしてこの人は、「ありがとうございます」なのか「ありがとうございました」なのかをはじめ様々なことを自分で自律的に行ってゆく。これを生きるというのである。

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[一版]2021年 9月12日
[二版]2024年 3月31日

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イエスはこれ以上ないほど愛してくださる

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」(ローマ8:35)

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 イエスにある者であっても患難や苦しみに遭うのは、上の聖句からも明らかであるし、私たちの経験からもそうである。
 ここ半年近く、私はその苦しみのさ中にいる。
 昨年11月頃に詩篇を読んでいたときには、なぜかとても心苦しくなっていった。初めてのことだ。
 途中でやめて理論的なロマ書を読み始めると、今度は引っかかるところがほとんどなく、過去の記事を修正してお茶を濁すしかなかった。
 しかし、こういうときであっても、イエスは私を愛してくださる。それどころか、これ以上ないほどに愛してくださるのだ。具体的には書けないがびっくりした。なんと有難いことだろう。
 日ごろ客体化して書いているつもりでいる私が今回はあえて私小説を書いたのは、イエスにある者にはどんなときにもイエスが愛してくださる、支えてくださるということを証ししたかったからである。どんなときでも愛してくださる。

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からだは罪のゆえに死んでいても霊が義のゆえに生きている

 「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
 肉にある者は神を喜ばせることができません。
 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。」(ローマ8:5-10)

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 御父の恵みによって御霊をいただいた私たちは、今まで通り肉を持ち続けながらこの御霊を宿している。
 肉の思いが湧き出るこの身は、一方で御霊による思いに突き動かされる。
 まさに「からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きてい」るのである。
 だから、その人がキリストのものかどうかは外側からは分からない。
 むしろ、キリストのものであるその人は、外側からはどう見えようと、内側のものによってゆるぎない歩みをしているのである。

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[一版]2021年 9月11日
[二版]2024年 3月20日

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救いの型

 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ7:25-8:4)

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 信仰は、つかみ取る類いのものではなく、与えられて備わるものである。
 神はイエスに「肉において罪を処罰」したが、ここに私たちへの救いの型が示された。
 私たち自身で「処罰」するのではなく、恵みによって、万物の父が私たちに「処罰」を行うのである。
 そして私たちは「キリスト・イエスにある者」にさせられる。

 救われてイエスにある者は、「罪に定められることは決してありません」。
 それは、外側にあった律法が、聖霊として内側に内住するからである。
 罪赦されるのみならず、この内側のものに突き動かされるようになる。
 イエスが主なのは、単に主としてあがめているのではなく、このようにして実際に私のあるじになってくれたからである。

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[一版]2021年 9月 5日
[二版]2024年 3月17日

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律法を行おうとするとかえって罪深くなるというパラドックス

 「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。
 もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。
 ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。」(ローマ7:15-20)

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 「自分がしたいと思うこと」とは何かというと、聖なる律法を遵守することである。
 頭ではいつもそう思っている。
 だが、実際にやっていることと言えば「自分が憎むこと」、「自分のしたくないこと」、すなわち律法に反することばかりなのである。
 これは一体、どういうことだろうか。
 律法を遵守したいと頭では願うが、自分の肉が実際にやることは、その律法に照らすと罪にあたってしまう。
 「善をしたいという願い」を持つ私たちの意志にかかわらず、そのことによって私たちの肉は罪を犯すのである。「かえって、したくない悪を行」うことになる。
 こうして、「私には、自分のしていることがわかりません。」という地点に陥る。

 しかし、この「自分のしていることがわかりません」という地点こそ、あの狭き道への入り口なのである。
 律法を行おうとするとかえって罪深くなる、このパラドックスは用意されていたものであり、この狭き道の先には十字架とよみがえりがある。
 そして、律法を何一つ守ることのできないこの肉が、恵みによって赦されるのである。

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[一版]2011年10月 1日
[四版]2024年 3月10日

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聖なる律法

 「私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。
 それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。
 それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。
 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(ローマ7:9-12)

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 ここでいう「死」とは生物としての人の死とは違って、ここでいう「殺した」というのは殺人とは違う。
 「死」とは聖なる律法の罪に死ぬことであり、あえて言うなら御父に殺されることを指す。
 もう行き詰まってしまってどうにもならなくなった私を御父が殺して、そして御父は私をよみがえらせる。
 このわざは2000年前に御子イエスによって示されたもので、私たちはこのイエスと同じようになって救われるのである。

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[一版]2021年 8月28日
[二版]2024年 3月 3日

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