イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
ナザレのイエス
「まだわからないのですか。覚えていないのですか。五つのパンを五千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。また、七つのパンを四千人に分けてあげて、なお幾かご集めましたか。わたしの言ったのは、パンのことなどではないことが、どうしてあなたがたには、わからないのですか。ただ、パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に気をつけることです。」
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った」(マタイ16:9-12)
「それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:27)
「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」(使徒3:1-8)
---
少し前、集中して聖書に読みふけった。
ヨハネ黙示録の1-3章。
ヨハネ伝。
またヨハネ伝。
ヨブ記(の一部分)。
マタイ伝。
マルコ伝。
ルカ伝(の3/4)。
ロマ書。
そして、みたび、ヨハネ伝。
今日、3つの聖句を取り上げた。
無論これもまた、我田引水以上のものではない。
だが、「このこと」自体は、「その頃」には既に「はっきり」と思っていた。
まず、使徒行伝を三番手に起用。
これは当時「予定」にはなかったのだが、たまたまぱらりと開けて、そして何気なく目を通すと、……!、…びっくりして腰抜かす。
「ナザレのイエス」……!
す、すごい……!
ここもやはり、100回読んでもちっとも何とも思わなかった。
「『ナザレ』のイエス」!」
「美しの門」という麗しき名の、しかし実は悲惨きわまりない場所、その場所の「住人」?のひとりが、いつものように「お情け」をたかる。
「男は何かもらえると思って」。
するとペテロは、コンパクトに、しかし(おそらく)力強く、その男に対応する。
「金銀は私にはない。」
……! ただただ、驚嘆するほかない!
だって、あの「うすのろペテロ」じゃ、…およそない。
「あのとき!」、その「やっぱりダメペテロ」。
ここも、……ヨハネ伝は峻厳。
そして……。
さて、時は過ぎまして、また話を元に戻しまして「美しの門」でのワンシーン。
……あのペテロ、何度やってもとんちんかんな「ダメペテロ」が、「金銀は私にはない。」という切り出しをする。
続いて、(おそらくは、少々の間をおいて)「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
すると、あの「たかり男」が、みるみる立つ!
ここを読んで、「そうだよ! そうなんだよ!」、心の中で叫ぶ、「その頃の僕」。
「その頃」は、どこ読んでも、そうやって叫んでた。心の中で。
「たかり男」が(おそらく瞬時の判断で)「神を賛美しつつ、……宮にはいって行」く。
「その頃の僕」は、「たかり男」と肩組んで一緒に「宮にはい」った。
もちろんあらん限りの大声で讃美して!
「この頃は、僕は讃美自体していていないな、そういえば……。」
このことは、たった今気付いた。
そして、それでよし、と「確認印」を静かに押す。
ペテロは、もしかすると、やはり「ダメペテロ」の生涯だったような気がする(これは全くの憶測にすぎない)。
しかし、ペテロは、ご覧の通りのことを、ごく自然にやってのける。
で、やはり時に失敗して、「やはり俺はダメペテロだ」。
さて次。
これもまた、もちろん憶測以外の何者でもない。
「ベツレヘムのイエス」、ではない。
「ナザレのイエス」!
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った」(マタイ16:9-12)
「それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:27)
「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮にはいる人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい。」と言った。
男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」(使徒3:1-8)
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少し前、集中して聖書に読みふけった。
ヨハネ黙示録の1-3章。
ヨハネ伝。
またヨハネ伝。
ヨブ記(の一部分)。
マタイ伝。
マルコ伝。
ルカ伝(の3/4)。
ロマ書。
そして、みたび、ヨハネ伝。
今日、3つの聖句を取り上げた。
無論これもまた、我田引水以上のものではない。
だが、「このこと」自体は、「その頃」には既に「はっきり」と思っていた。
まず、使徒行伝を三番手に起用。
これは当時「予定」にはなかったのだが、たまたまぱらりと開けて、そして何気なく目を通すと、……!、…びっくりして腰抜かす。
「ナザレのイエス」……!
す、すごい……!
ここもやはり、100回読んでもちっとも何とも思わなかった。
「『ナザレ』のイエス」!」
「美しの門」という麗しき名の、しかし実は悲惨きわまりない場所、その場所の「住人」?のひとりが、いつものように「お情け」をたかる。
「男は何かもらえると思って」。
するとペテロは、コンパクトに、しかし(おそらく)力強く、その男に対応する。
「金銀は私にはない。」
……! ただただ、驚嘆するほかない!
だって、あの「うすのろペテロ」じゃ、…およそない。
「あのとき!」、その「やっぱりダメペテロ」。
ここも、……ヨハネ伝は峻厳。
そして……。
さて、時は過ぎまして、また話を元に戻しまして「美しの門」でのワンシーン。
……あのペテロ、何度やってもとんちんかんな「ダメペテロ」が、「金銀は私にはない。」という切り出しをする。
続いて、(おそらくは、少々の間をおいて)「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
すると、あの「たかり男」が、みるみる立つ!
ここを読んで、「そうだよ! そうなんだよ!」、心の中で叫ぶ、「その頃の僕」。
「その頃」は、どこ読んでも、そうやって叫んでた。心の中で。
「たかり男」が(おそらく瞬時の判断で)「神を賛美しつつ、……宮にはいって行」く。
「その頃の僕」は、「たかり男」と肩組んで一緒に「宮にはい」った。
もちろんあらん限りの大声で讃美して!
「この頃は、僕は讃美自体していていないな、そういえば……。」
このことは、たった今気付いた。
そして、それでよし、と「確認印」を静かに押す。
ペテロは、もしかすると、やはり「ダメペテロ」の生涯だったような気がする(これは全くの憶測にすぎない)。
しかし、ペテロは、ご覧の通りのことを、ごく自然にやってのける。
で、やはり時に失敗して、「やはり俺はダメペテロだ」。
さて次。
これもまた、もちろん憶測以外の何者でもない。
「ベツレヘムのイエス」、ではない。
「ナザレのイエス」!
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