イエスを知るということ

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:1-3)

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 イエスの御父への祈り。

 聖書はいったい、何のためにあるのだろう。
 人の魂が救済されるためのものだろう。
 世界や宇宙の万物が書かれているわけではない。
 イエスの十字架と復活が、手を変え品を変え書かれている書物である。

 だが、読んで理解したから魂が救済されるというわけではない。
 聖書は教科書や参考書ではない。
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」とあり、全くそうなのだが、この箇所を読んで文意を理解したというだけでは、イエスを知ることからはほど遠いだろう。
 イエスを知る、イエスに出会う、ということは、頭の上の理解ではなく、端的に体験なのである(参/黙3:20)。

 このイエスに出会う体験を通して永遠のいのちを授かる道のりが十字架の道である。
 この十字架の道は、まさにこれからイエスが切り開く。
 私たちは、イエスが切り開いたこの狭き道をこれから歩んでゆく。
 つばきをかけられ殴られ、鞭で打たれ十字架に掛けられて死ぬ、そのような苦しみの道だ。かつてなかったほどの大きな苦しみが、間断なく襲い続ける。
 そして死んでのち、復活のイエスに出会ってイエス同様復活する。
 正にこのとき、自分の体験した苦しみは、あのイエスの道だったのだとわかるのである。

 それにしても一体、どのようにしてその道を歩むこととなるのだろう。
 それは人には分からない。
 この狭き道は入ろうとして入るのではなく、気付くと歩かされているのである。

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[一版]2014年10月19日
[二版]2017年 7月 1日
[三版]2019年 4月 7日
[四版]2021年 3月28日(本日)

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イエスの与える平安

 「見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:32-33)

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 イエスは私たちが平安を持つためにこれらのことを話したという。
 では、イエスが与える平安とはどのようなものであろうか。
 まずはこの平安とはやや異なるものを小説の一節から取り上げる。

 「数学問題の懸賞問題が解け、レポート用紙に清書し、郵送する前にもう一度見直しているような時、博士はしばしば、自分の導き出した解答に満足しつつ、「ああ静かだ」とつぶやいた。」
(小川洋子 著、「博士の愛した数式」、文庫版p.101)

 この静かさについては、私自身、仕事をしていてしばしば味わうのでよく分かる。
 それはもちろん好ましくほんとうに心地のよい静かさなのだが、次の仕事が始まれば再び混沌の中に消え去ってしまう。つまり、この静かさは、ある状態から抜け出たときに味わう一過性のものにすぎず、いつもあるものではない。
 それとは違ってイエスの与える平安、安らかさは、恒常的に存在している。
 御父がいつも共にいてくださるので、ひとりのようでひとりではない。
 陰に陽に支えてくださり、そっと導いてくださる。
 患難の中にあるときも変わることなく、表面的には翻弄されても底のところではゆるぎない。
 実はここ数ヶ月、患難の中にあった。もうしばらく続きそうだが、世のすさまじさを身をもって知った。
 気持ちに余裕はなくなったが自分を見失わずに済んでいるのは、やはりイエスのおかげだと思う。
 彼らに頭を垂れることそれ自体は訳もないが、自分にはそれはできない。到底できない。
 イエスは世に勝ったと言うが、多分こういうことなのではないかと今は思う。

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混同

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。
……
 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(ヨハネ16:7,16)

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 しばしば、イエスはあわれみ深いお方で、と語られたり讃美されたりする。
 だが、肉のイエスのあわれみ深さばかり取り上げるのは、個人的にはピントがずれているように思える。
 イエスのありがたみは、なんといっても「わたしが去って行くこと」、つまり十字架に架かること、それから、「またしばらくするとわたしを見」るという復活にある。
 罪なき肉をもつ神の子イエスが、全人類の肉の処罰のためにいけにえの十字架に架かり、そのことがよしとされて復活する。
 このイエスの十字架と復活に預かると、私たちはイエス同様死んで、そしてよみがえって義と見なされる。御父との和解が成立し、助け主が内住してくださる。
 だから、世に来たイエスがこの世から去ることは、私たちにとって大きな益なのである。

 もちろんイエスはあわれみ深かったろうと思う。
 しかしもし、このあわれみに重心を置くとすれば、いたぶられ苦しんで死んでいくイエスを嘆くばかりになってしまうだろう。
 死にゆくイエスと、世を去ってよみがえったイエスがもたらすものとでは、どちらの方が私たちにとって有り難いだろうか。
 私たちは一体、歴史上の人物をあわれみたいのだろうか、それとも、救いを得たいのだろうか。

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[一版]2011年 4月23日
[二版]2014年 9月27日
[三版]2017年 6月11日
[四版]2019年 3月22日
[五版]2021年 3月21日(本日)

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イエスの友

 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。
 わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)

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 十字架に架かる直前のイエス。
 イエスはいのちを敢えて捨てる。
 なぜか。
 友にもいのちを捨てさせるためである。いのちを長らえさせるためではない。
 この難しいことについて、イエスは自ら手本を示す。これこそ神の愛なのだ。
 このイエスはいのちを捨てて、そしてよみがえる。
 友にもこの道を歩ませて、永遠のいのちの喜びに満たされて欲しいとイエスは願っている。

 しもべは、イエスが何故敢えていのちを捨てるのかが分からず、想像も付かない。
 だが、友はよく分かっている。あるいは、あとで合点がいく。
 友としもべとでは、だから全く違う。
 しかし、イエスのしもべが恵みによってイエスの友になるということが、ままあるのである。

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[一版]2017年 6月 1日
[二版]2019年 3月19日
[三版]2021年 3月14日(本日)

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イエスの喜びと私たちの喜び

 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」(ヨハネ15:11)

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 イスカリオテ・ユダが裏切って、ついにイエスは栄光を受けた(ヨハネ13:31)。
 上の聖句は、このことがあってのちにイエスが弟子達に語った言葉である。
 ここでイエスの言う喜びとは、どのようなものであろうか。栄光を受けた喜びであろうか。
 おそらく、イエスが奥底のところで持ち続けているものを、ここで喜びと言っているのではないかと思う。
 そしてこれは、私たちの奥底にもあるものであり、イエスは私たちのこの喜びを満たすと約束している。
 そもそも私たちはかつて、自分の中に喜びというものがあること自体を知らずにいた。
 その頃は、喜びは外部から来ると思っていたが、それはただの刺激に過ぎなかった。
 刺激がなくなるとまた欲し、自分の中の微かな喜びはますます分からなくなる。
 ところがイエスに出会うと内側から喜びが湧き出てきて、それは満たされ泉となる。
 裏切られ、そしてこれから極刑に架かることが分かっていてなお、イエスのこの喜びは誰からも奪われることがない。
 だから、私たちの喜びが誰からも何によっても奪われないのはもちろんである。

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ぶどうの木の刈り込み

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:1-2)

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 イエスというぶどうの木があり、多くの枝が伸びている。
 このぼうぼうの木の手入れを御父がなさる。
 実を結ばない枝はどんどんと切り落として刈り込んで、残された実を結ぶ枝に多くの養分が行き渡るようにする。
 実とは何かは、もっぱら御父の判断による。
 人からの評価とこの御父の判断との異同は、外側からは分からない。たとえば、いかにも敬虔そうな人が実は信仰がないということは考えられる。
 信仰とは人の内側についてのもので、救われているかどうかは御父とイエスと本人以外には分からない。
 だから、なぜ自分が切り落とされないのかはその人にだけ分かることで、その人にしても、なぜあの枝が切り落とされたのかはまるで分からない。
 このことを言い換えると、恵みという。

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