植わった木

 「その人は、
 水路のそばに植わった木のようだ。
 時が来ると実がなり、その葉は枯れない。
 その人は、何をしても栄える。

 悪者は、それとは違い、
 まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。」(詩1:3-4)

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 東に騒ぎあればすぐさま東に飛び行き、南の群れを見いだすや乗り遅れまいと群れに混じる。
 あるいは世渡り上手というのかもしれないが、根がない、というか、まさに「もみがら」だ。
 彼らは自らのことを「みんな」と言う。

 一方で、「水路のそば」というのは土が軟らかいと思うのだが、そういうところにしっかり根を張る「植わった木」。
 一本、芯があり、彼は自らのことを「私」と言う。

 根は水路の土手が崩れることを防ぐ。
 木の実を喜んでもぎ取る人がいる。
 そして葉でできた木陰で人は一息つく。
 こういうのをこそ「栄え」というのだろう。
 「みんな」で群れてみんなと同じ方にしか行かない人は、このような「植わった木」にはなれない。

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[一版]2007年 5月10日
[二版]2007年 9月14日
[三版]2008年11月13日
[四版]2020年 3月30日(本日)

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アダムの園の回復

 「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示22:3-5)

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 そこでは、しもべである私たちはもっぱら神に仕える喜びにあふれる。
 キリストを介した、この神と私たちひとりひとりとの関係が、ここでのすべてであるかもしれない。「のろわれるものは何もない」のだ。
 ここでは私たち人間の罪深い肉は、脱ぎ捨てられている。
 だから、人から死は、もうなくなるだろう。
 死なないということは、生殖の必要もまた、ないだろう。
 もしかすると、性別自体がないかもしれない。
 少なくとも、陰部をイチジクの葉で隠す必要は感じなくなるだろう。

 まっくらな夜もない。
 不安も恐怖も、もはやない。
 私たちのこの肉はなくなりもはや疲れないので、休んだり眠ったりする必要もない。
 その中で、私たちおのおのは、万物の創造主である神に仕える喜びを味わい続ける。
 これは人間にとってアダムの園の回復を意味する。元に戻れるのだ。

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[一版]2014年 4月20日
[二版]2020年 3月29日(本日)

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事は成就した

 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21:3-8)

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 これだけの大きな苦しみの後、遂に事は成就する。

 この世では涙を流すことの多かった者に対しても、神は慈しんでくださり、私たちの涙をすっかりぬぐい取って下さる。
 違う言い方をすると、少なからぬ者にとってこの世はまさに涙の谷、嘆きの谷なのだった。
 だが今は、「渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませ」てくださる。
 私たちはここで神と共に永遠のいのちに生きるのである。

 そして、上に書かれていることは世界の救いについてのことであるが、私たち一人一人もまた、この世界の救いと同じようにして世にあって救われる。
 これだけの大きな苦しみの後、イエスによって遂に事は成就する。
 世にいる限りは涙の谷であることに違いはないのだが、成就するといのちの水の泉から価なしに飲むことができるようになるのである。

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[一版]2014年 4月13日
[二版]2018年 9月12日
[三版]2020年 3月27日(本日)

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666シャツ

 「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(黙示13:16-18)

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 数ヶ月前なので2018年6月頃であろうか。
 帰路の乗換駅で、えらく趣味の悪いTシャツを来ている男を見た。
 そのTシャツには、黒地に黄色で「666」という数字が全身びっちりプリントされている。
 人によっては、蜂の巣の柄か何かに見るかもしれない。
 当初我が目を疑った自分は、ただ苦笑いするしかなかった。
 解釈のしようはないが、苦笑いした後複雑な思いを引きずった。
 この悪趣味な「666シャツ」は、これから目にすることが多くなるのであろうか。

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和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そしてその人の戸を叩く。
 キリストが叩いたのだと分かる者、キリストの声をそうと聞き分ける者は、その戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の食卓だ。
 神の側から、この和解の手を差し伸べてくださった。

 こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストが来て戸を叩くのを、私たちは待ち続けるのである。
 このように、神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめもまた、私たちのために神がお与えになる。
 この懲らしめのない人は神から見放されている、という旨をヒルティが書いているが、それは私もそう思う。

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[一版]2008年11月 3日
[二版]2011年11月23日
[三版]2014年 4月 6日
[四版]2018年 9月11日
[五版]2020年 3月15日(本日)

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刺激と満足感

 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3:17-18)

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 ラオデキヤ教会へのイエスのメッセージ。
 この教会は、金持ちが多かったのであろうか。

 この世でカネの力はとても強い。
 富者のおこぼれに預かろうとして、ただカネのためにこの富者に群がる者が大勢いる。このことは小説「杜子春」にも描かれている。
 杜子春は最後に目が覚めたからよかったが、そのような人はあまりない。最近では、群がられて大喜びして自分の通帳を見せびらかしている成金のこともニュースになっている。
 しかし、それにしても、手に余るほどのカネは、彼らの心をかけらでも満たすのだろうか。
 彼らの求めているものは、むしろ刺激なのではないか。ゲームのハイスコアを目指そうとする類の刺激を資産の多さに求めているように見えて仕方がない。
 彼らには満足感の類がないのだ。というか、満足しないから代わりに刺激を求める。

 内側から湧き上がる満足感は、外からの強い刺激とはまるで違う。
 刺激はその場限りのもので、より強い刺激を絶えず求めざるを得ない性質のものだが、このイエスと共にある満足感はいつも湧き上がり、これを奪う者は誰もいない。
 だから満足感の代替物としての刺激ばかりを追い求める彼らは「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」であり、しかもその自身の姿に気付いてもいない。上に書いた通帳成金を、私はとても哀れで滑稽だと思う。
 このラオデキヤの人々は、似て非なるこの両者の違いを、キリストにあって気づき始めるはずだ。

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[一版]2018年 9月10日
[二版]2020年 3月 9日(本日)

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その先にある希望

 「第五の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、私は一つの星が天から地上に落ちるのを見た。その星には底知れぬ穴を開くかぎが与えられた。
 その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。
 その煙の中から、いなごが地上に出て来た。彼らには、地のさそりの持つような力が与えられた。」(黙示9:1-3)

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 コロナウイルスが世界中に蔓延し、アフリカからいなごの大群が発生して作物を食い荒らして東に向かっている。このいなごのことで、黙示録が巷間取り上げられている。
 しかし、黙示形式で書かれた上の聖書箇所を字面で理解することには無理がある。
 そのまんまを書いてしまってはローマ当局に目をつけられてしまうので、この地域では紀元前1世紀あたりから、この訳のわからない黙示形式の文学が成立したと、かなり昔に本で読んだことがある。
 だから、ヨハネ黙示録がこんにちのいなごの大群そのものを預言したものだとは自分は思わない。
 また、全体としてこの黙示録が今のこの時代を扱っているのかどうかも、判断のしようがない。
 この黙示録で書かれていることは、むしろ希望だと思う。つまり、救われた者への御国の確約である。
 実はこれを書いている今、体がだるい。ここ1週間悩まされ続け、内科を受診した。コロナウイルスの可能性は小さいとのこと。
 日々だるさが不気味に増しているのだが、この黙示録で示されている希望はますますはっきりと見えている。

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パトモス

 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙示1:9)

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 イエスにある者と、そうでない者とは、何かが決定的に異なる。
 品行方正だ、とか、いい人だ、というのではない。
 イエスにある者は、御国の約束がはっきりと見えているのである。

 彼が選んだのではない。彼は選ばされたのだ。
 イエスとの出会いによって、選ばされた。
 だから、この御国の約束は架空のものや思いこみによるものではなく、実際にあったこの出会いに基づいたものなのである。
 これを言い換えると「いのち」となる。

 世では苦難が絶えない。本当に絶えない。
 だが私たちは、この御国での救い主イエスとの再会に思いをめぐらし忍耐する。
 その私たちは今は、パトモスにいる。

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[一版]2008年11月 1日
[二版]2011年11月19日
[三版]2014年 4月 5日
[四版]2018年 9月 9日
[五版]2020年 3月 1日(本日)

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