『平和』ではなく『剣(つるぎ)』

 「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)

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 イエスは、冒頭のマタイ伝聖句のように「宣言」し、その上で「3年間の宣教」を経て十字架に掛かった。そして、復活…。
 これが、「よきおとずれ」、言い換えると「福音」、そのアウトライン…、このように総括するのは、いささか乱暴にすぎるだろうか。

 さくじつ書いていたように、「人間界」はみな「死んでいる」状態にある…。
 だからこそ神たるイエスが、「この地」に来られた。
 もっぱら「死んでいる人」に「永遠のいのち」を与える、そのために。

 「死んでいる状態の人間界」、その改革なのであるから、それこそ正にタイトル通り、「イエス」というのは『平和』ではなく『剣(つるぎ)』なのか、そういう思いが募る。
 この「剣」でばっさり斬られるとき、彼は全世界をも敵に回さざるを得ない。
 まさしく「家族の者がその人の敵となります」とあるとおりに。

 そうして斬られて斬られて、全世界が敵となり、遂には最高刑の十字架に処せられて「それこそ死んで」、そうして「永遠のいのち」、これを得ること叶う…。

 こう書き進めてゆくと、ルカ伝との「かみ合わせ」がはなはだ悪い、……ふと、そんな感が頭をよぎった。
 ややあわててルカ伝を開いてみると、私が念頭にあった聖句、それは正確には、次のように記されていた。

 「すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ伝2:13-14)

 「平和が、御心にかなう人々にあるように」。
 なるほど神は、それは注意深く整合性を取っているように素直に思えたので、安んじた。
 やはり聖書、それも、なんといっても福音書なのだ。
 神に抜かりがあろうはずがない。
 「御心にかなう人々に」は、なるほど確かに最終的には「平和」が叶うに違いない。
 この「平和」、それを言い換えると、「新しいエルサレム」(黙21:2)なのではなかろうか……、今の私は、ぼんやりとそう想っている。
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死人たち

 「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:22)

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 先日、「サマリアの女」についてしたためた。
 そして私は、このサマリアの女が「死んでいる状態にある」ということ、また、そのことをイエスは端的に指摘したことを綴った。
 そして、その「死んでいる」人に「永遠のいのち」を与えるがために、もっぱらイエスは来られたのだ、ということも。

 聖書(分けても福音書)のメッセージは、一貫している。
(ルカ伝だけは「サービス精神」が旺盛にすぎて、その当然の帰結として誤解を生みやすい、そういう想いを持っていることも、少し前に記したと思う。)

 今日の聖書箇所も、その「一貫している」メッセージ、そのほんの一箇所を採り上げてみた。
 イエスは言う。
 「わたしについて来なさい」と。
 実にこれぞ、唯一無二の処方箋なのだろう…。
 その感を、日に日に強く持つ。

 ここで問題となるのはもっぱら、「わたし」とは誰か、ということである。
 牧師ではない。イエスである。
 私は教会を全否定する者ではない。
 このことは何度か重ねて表明してきたところである。
 だが、「教会という装置」は、実に「この手の勘違い」をしばしば招きやすい「装置」であるという感、これもまた、日に日に強く持ちところである。

 今、1テモテと2テモテを、ざっと俯瞰した。
 「1テモテ3章」、こういうを「指示」を出すからこそ、「教会という装置」はなるべくしてこうなったのだな、その確認作業以上のものではない。
 「監督」、……ねぇ(註:1テモテ3:1)。

 繰り返すが、イエスが自身を指して、「わたしについて来なさい」と言っていることにご留意いただきたく思う。
 「監督についてゆく」のでは、ない。
 そしてこれも繰り言なのだが、教会というところは、この「監督」が前面に出て指導を行う、そのような場所だというのが今の私の認識だ。
 このことそれ自体は、大方の人の同意を得ることができると思う。
 そうなると、上に書いた「勘違い」が生じるのは、寧ろ当然のように思えてくる。
 これこそ「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせ」ることの愚ではないか、と。

 重複を厭わず何度でも書くが、私は教会を全否定する者ではない。
 「教会ニーズ」、これは潜在的に、とても大きい。
 この私にしても、今だに愛用する「最初に自腹を切って購入した聖書、この宝物」、これは、教会の「事務」が夜もたまたま開いていたからこそ入手すること叶った物なのだから、そういった点で、「教会」への恩義はやはりある。
 寄り道になるのだが、我が家には何冊も(下手すると何十冊も)聖書が転がっているのだが、どうしたわけか、それらは全く開く気にならない。不思議なことだ。「最初に手にしたぼろぼろの聖書」ばかりを、開いている。検索ソフトすら、いざというとき以外には用いていない。
 しかしながら、毎日こう書き連ねてゆくと、思うところはある。
 2000年来の神学、そしてその上に成り立つ教会。
 「それ」と今の私の位置、これは、同じように見えて実は対極の位置にある、その構造が、日に日に見えてくるように思える。
 だからといって、特に思うところ感じるところも、また、ない。
 「教会」と「戦う」などということは、それこそ愚の骨頂だ。
 「2ヶ月後の私」が何を書いているのか、それは全く分からないのだが、さしあたり今は「聖書について、教会とは対極の立場にいる」ということの自己確認作業として、この段落を書いてみた。

 最後にこれは、書いておこう。
 実は私は、「教会から破門」された人間である…。
 今思う、「破門」してくれて、ほんとうにありがとう、と。
 「破門」がなければ、一生「ぬるま湯」だったことだろう
 この「ぬるま湯」の粘度の高さといったら、ない。。
 それこそ「死人のぬるま湯」だ。
 ただ、「死人」なりに、様々な事物、書物群に接してきたことは有意義だった、そうとも位置づけることが今はできる。これがあるから、思い立てば、すぐに「1テモテと2テモテを開く」程度の芸当は、あっさりとこなすことができる。
 そうして、今日もイエスについてゆく。
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