律法という怒り

 「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。
 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。
 律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。」(ローマ4:13-15)

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 たとえば「姦淫してはならない」という律法について、それを遵守することによって相続人になりたくてそれで姦淫をしないのだとしたら、律法を守ることが自己目的化してしまうのでとてもむなしい。
 姦淫をしないことそれ自体は、たやすいことだ。実にたやすい。
 しかし、イエスが問題としているのは、姦淫をしうる肉の性質そのものを問うている。
 それでこの律法を果たして守れるのかと、イエスは山上の説教で説いている(マタイ5:27-28)。

 人間の肉に突きつけられた神の律法は、そのアダムの肉への神の怒りをアダムに気付かせるためのもので、「ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」(ローマ7:7)とあるとおりである。
 そして贖罪の十字架を信じて創造主と和解することにより、私たちはこの怒りを免れることができた。信仰によって義とみなされたからである。

 律法を知らないならば、自分の違反に思い至ることも神の怒りに気付くこともない。
 しかしそれは気付かなかっただけのことだ。
 私はモーセを通して神の律法を知り、更にイエスによってその本来の意味を教えられたことを感謝している。
 神の怒りに気付くことによってはじめて、イエスに出会うことができたからだ。

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[一版]2011年 8月16日
[二版]2015年 3月29日(本日)

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恵みと対価

 「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。
 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」(ローマ4:1-5新共同訳)

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 恵み、ということについて。

 「働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。」
 つまり、行いによって得られるものは、その行いに対する対価以上のものではない。
 そして、その対価を支払うのは人なのである。神ではない。
 たとえば、四つ角で断食祈祷をしたとして、その場合の対価は人からの敬意と幾ばくかの献金といったところだろう。
 今、罪深い私たちは、神との関係性が回復されて救われたいのである。人からの対価が、一体何になるというのだろう。

 恵みとは行いに対する対価ではなく、また、行わなかったことによる対価でもない。
 つまり、明確な因果関係がない。
 「不信心な者を義とされる」ほどの因果のなさ、だからこその恵みであり、神からの一方的なプレゼントなのである。

 そうすると、私たちにできることとは何であろう。
 因果のない恵みを信じて待ち続けることである。
 「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」というところの「信じた」というのは、信仰そのものというよりは、その信仰に至ることを信じて待ち続けたことを指している。
 待ち続けて恵みによって義と認められ、そしてアブラハムは信仰に至るのであった。

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信仰と律法

 「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。
 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。
 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。
 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3:28-31)

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 信仰によって義とみなされるということが、キリスト・イエスによって導入された。
 律法の象徴ともいえる割礼、その有無に拘わらず、信仰によって義とされる。

 そこでパウロは問う。「私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか」。
 その点について、律法そのものが無効となったのではない。それどころか、律法は今日も光り輝いている。
 むしろ、律法によって義に至ること自体から、解放されたのである。

 では、律法など守らなくてもいいのであろうか。
 というよりも、律法という「てこ」なしには、イエスを通して信仰をいただけないのである。
 律法の厳密解釈を解くイエスの山上の説教からも、そのことは明らかだ。
 そして、信仰をいただいて義とみなされることがすなわち、律法が確立されたということなのであり、割礼の有無が問われなくなる。
 義と見なされたので、無割礼でも義と見なされる。

 律法が無効になったのではなく、律法は「てこ」となり、信仰をいただいたときにその律法が確立するのである。

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信仰は誇りを生み出さない

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。
 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:27-28)

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 ここでいう誇りとは、なんであろう。
 それは律法を守ろうとすることそれ自体による誇りである。
 もともと、モーセの律法を遵守しようとするのは、自らの救いのはずであった(それ自体は、今も変わるところはない)。
 ところが時代が下ると、律法をどれだけ知っているか、律法をどのように解釈するか、そのような律法群をどう行うか、さらには人々に律法の行いを強要するようまでになってしまう。パリサイ人や律法学者などのことだ。
 彼らが、自らが律法に「精通」していることを誇りに思っていることは明らかだ。さらに律法は、社会の中での彼らの力の源泉ですらあった。

 そのような折、キリスト・イエスによって、信仰の原理がもたらされた。
 復活のイエスに出会って永遠のいのちをいただくという、このことは、周囲の誰にも観察されない。サウロ(パウロ)の身に起こったことが周囲には全く理解されなかった(使徒9:3-9)ことと同じである。
 また、このときにいただいた、生を支え続ける力の源泉について、周囲の人はやはりほとんど気付かないだろう。そのような得難いものをいただいても、自分の外面や行動がそれほど変わるわけではないからである。
 ペテロはペテロなのだ(ガラテヤ2:11-13)。
 せいぜい、元気でやっている程度にしか思われないと思う。
 だから、信仰の原理は外部からは理解されないので誇りようがないし、また、誇るべきなにかがあるわけでもない。
 信仰はきわめて個人的な事なのだ。誰かに自慢して、一体どうなるというのだろう。

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値なしの義

 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

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 すべての人が罪を犯している。罪の下にいる。
 人間はアダムの肉をもっており、神の律法がその肉そのものを糾弾する。
 それゆえ、神の御目に正しい(義しい)とは映る人はおらず、神の御前にはすべての人が罪深い( sin )。
 何かをやったから罪だ( guilty )というよりも、そもそもが罪深い(sin)存在としか神には認めていただけない。
 というより、罪深い(sin)存在であるがゆえに、神の律法に照らして、その行ないが罪(guilty)とされてしまう。
 「義人はいない」のである。
 それゆえ、この絶対的な存在である神から、栄誉や栄光を受けるには私たちははるか程遠い。

 だがここに、この悲惨な状況に置かれた人間を救う救いの手が、それも神の方から差し伸べられた。
 それが、「キリスト・イエスによる贖い」である。
 イエスは、御自身もお持ちだった肉を十字架につけて処罰し、三日目に神によって復活する。
 これは、このイエスを信じる私たちの肉が神に赦されるための、救いの御技なのである。
 私たちは、この十字架のイエスを信じることによって、神の御前に義とされて、罪赦される。

 そうなると、そもそも信じるとはどういうことかというところに行き着く。
 端的にいうと、信じるのではなく、恵みによって信じさせられるのである。
 「神を信じます」と言うのは、その人が神を信じるかそうでないかについての選択の謂いであるから、神は選択される存在にすぎなくなっている。
 そうではなく、神がその人に、有無をもいわさず信じさせる。そのことが恵みなのである。

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[一版]2008年 9月15日
[二版]2009年 8月23日
[三版]2010年 2月27日
[四版]2015年 3月 1日(本日)

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