罪から愛されるほど、罪赦される

 「すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:22-25)

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 「罪から愛されるほど、罪赦される」、この逆説めいたアイデアは、アウグスティヌスについて書いたときに、ふとひらめいた。

 この逆説をもっとも体よく我田引水できる聖書箇所は……、やはり昔なじんだロマ書7章しか思いつかなかったので再度の引用をお詫びする(一度目はこちら)。

 冒頭の聖書箇所は、端的に、つぎのように要約されよう。

1.罪からの求愛に応ずる
2.懊悩の叫び
3.神への感謝

 律法についてかつて書いた記事を、ここにリンクする。
 重複を厭わず、その記事から抜き書きする。
 「神の秩序、神の善の基準というのは、そこまでも徹底した厳格にして峻厳、完全なもの」。

 そして、ほんじつは、いくつかを付け加えたい。

 「人間は、その不完全さ故に、『厳格にして峻厳、完全な』『神の秩序』に、どこまでもあこがれる存在である。」

 さらにこうも言えるのではなかろうか。
 「どこまであこがれようとも到底到達し得ない…、人間は『そういう』存在にすぎない」、とも。

 「罪からの求愛に呼応して懊悩する」、これは、「あこがれてはくじける」と書くと分かりがよいだろうか。
 そして「ある一点」を超えたとき、突然「神への感謝」へと転じる……。

 「人間は『そういう』存在にすぎないという認識」、これが「量的には」なんらの変化もないにもかかわらず、しかし「向き」ががらりと変わる…、そういう印象を持つ。
 換言すると、「ベクトルの長さは不変だが、その向きがくるりと変わった」、そういうイメージだろうか。
 このイメージ、それは日本語でいうところの「回心」、これがしっくりくるように思える。
(「新生」、「よみがえり」等よりも、という意味で。)

 「罪」、この大問題についての「今後のアイデア」として書き留めた以上のものではない…、この小記事をそう位置づけてくだされば幸いに思う。
 そして、「罪」、これは「十字架」という重大問題と対にして捉えるもの、そのことに留意していることを付記しておく。
 罪と赦しは、やはりセットだろうという観を強く持つので、「十字架」を語らない「罪」の議論には、さほどの意味はない、という前提の上に立脚していることも記しておこう。
 更に、「罪」自体を捉えようとするとき、「律法の存在」が大前提だ、このことについて確信を少し深めたことは、ほんじつの収穫だ。

 そういうわけで、なおのこと、ほんじつのこの小記事は「書き留め」以上の意味はない。
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