受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 受肉した神の子イエス。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 律法を守り通せる唯一の肉として、イエスは世に来られた。

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである。
 そこにイエスが来られて、そのヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 神の子イエスが、私たち罪深き人間と同じ地点に立ってくださったのだ。
 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さ怒りを、この十字架の道を歩まれたイエスは身をもってよくご存じだ。
 だから神の子イエスは、神と私たちとの間に立つ仲介者として、私たち人間の罪深さをよく理解してくださっているのである。

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[一版]2010年 2月20日
[二版]2010年 4月 3日
[三版]2011年12月 3日
[四版]2015年10月 4日
[五版]2018年 1月 2日
[六版]2021年11月28日(本日)

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人にちょっかい出す前に自身を見よ

 「さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ3:5-11)

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 バステスマのヨハネがヨルダン川で水のバステスマを授けている。
 そこに、パリサイ人やサドカイ人がバステスマを受けにやってきた。

 彼らは律法を人々に強要するが、自分ではやろうとはしない(たとえばマタイ23:3)。
 行いによってすら救われようとせず、専ら血筋に救いの根拠を求める。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と。
 何が人を罪に定めるかというと神の律法なのであるが、このパリサイ人たちの血筋に頼るスタンスでは自分の内側に潜む罪に気付きようがない。

 ここヨルダン川には、大勢の人がヨハネのもとにやってきては自身の罪を告白している。
 この、罪に気付くことこそ救いの始まりであり、やがてイエスによる聖霊と火とのバプテスマを受けることになる。ヨハネによる水とはいわばバステスマの型である。
 一方、パリサイ人達は自身の罪そのものに無自覚であり、スタートラインにすら立っていない。人にちょっかいばかり出している。
 それでヨハネは、やってきた彼らにしのごの言うのである。

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[一版]2011年11月27日
[二版]2015年 9月23日
[三版]2021年11月23日(本日)

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マウンティング

 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)

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 高度成長期の頃、隣の家がカローラを買ったから我が家はもっと上級のコロナを買おう、というのがとても多かったが、これは見栄を張るということだ。盛大な葬式を営んで大勢の人を呼ぶのが近所に見栄を張りたいから、というのを聞いたこともある。
 ちなみに最近は、ぶつけてへこんだ車を修理もせずに乗っているというのをよく見かけるようになったし、葬式はもっぱら身内だけのものになった。
 張る見栄もなくなったのかと思っていたら、最近はマウンティングという言葉がある。隣人に対する優位性をもっぱら言動で示すことと言えばいいのだろうか。しかしこの場合、それをする人が実際に優れているわけではない。

 ここで上の十戒に戻ると、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」のだから、これは行為の禁止ではなく、内面の動きを禁止していることになる。心の動きまでも御父が見通しておられることが、ここで端的に示されている。
 そして、ここで問われているのは、欲しがることそのものについてではない。隣人を見て同じものをとか、隣人のよりいいものをとか、隣人より上に立とうとか、すなわち隣人に対して相対的な比較をする心の動きが問われている。

 こんなもの守れるはずが、と言いたいところだが、実は自分にはこういう心の動きは少ない。もちろん全くないなんてことはないが、人より少ないと思う。
 お金は自分が過不足なければ十分と思っているので、人より高収入をとか、ましてや富裕層ランキングの類の相対化した競争には興味がない。本はよく買うが、それ以外のものはあまり買わない。
 それからなんだろう? 何かを持っているから他人より相対的に上だとは、・・・いやあ、思わないなあ。上にマウンティングという言葉を書いたが、よく知らなかったので調べ調べ書いたのだが、自分がこれをやることはほとんどないと思う。

 実はそのわけを自分自身でわかっている。
 自分の核を持っているからだ。
 イエスに救われて、それから改めて聖書を開くと、1行1行が今までとは全く違う意味と輝きを持っていた。その当時の聖書の見え方を書き始めたのが本ブログの始まりで、表面的な表現は変わっても書いている内容の根幹は当時と変わるところはない。
 自分は世界をどうとらえるのか。この切り口がこのときに与えられたのだと思う。
 それで、自分にとって絶対的な意味で大切なものは何か、という見方におのずとなった。この見方には、他者との相対性は入らない。その絶対性の中で、分相応とか、自分とは何者かということも、自然と開かれていった。

 さて、マウンティングというものを調べていると、あーこれは自分もやられたなあ、確かにあれは不愉快だった、ということを思い出した。
 その内容は省略するが、中身が全くないのでこのマウンティングという恐い者知らずができるのだろう。大体、人を小馬鹿にするなんてのは、人の足を引っ張ってやっと保てる低い自尊心に理由があるのではないかと思う。
 なぜこんなことを書くのかというと、マウンティングする人たちもまた、何かの大きなきっかけで、自分のこんな心貧しさに気付くかもしれないと思うのだ。
 第一、自分がそうだったのだ。
 若い頃さんざんマウンティングした。いろいろな人を小馬鹿にしてどの人からも疎まれた。そのくせ分不相応な高級車なんか乗り回していた。そのダメさに少し気付いて教会行って聖書に接したら、その自分のダメさに徹底的に打ち砕かれていくのだから聖書の力はなんと素晴らしいものであろうかと今は思う。

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[一版]2018年 8月27日
[二版]2019年 8月12日
[三版]2021年11月22日(本日)

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ほんとうに求めているものは何か

 「姦淫してはならない。」(出エジプト20:14)

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 この「姦淫してはならない。」について、イエスは山上の説教の中で、次のように言っている。
 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)
 私は、しばしば情欲をいだいて女を見るから、最初この聖句に接したときのショックはとても大きなものがあった。
 このように、律法は自分の罪を罪と気付かせるためのものだ。

 この罪深さというのは、自身の内面への責めである。
 この責めによってイエスと同様に死に、イエス同様復活する。
 そして御父に義と認められて、御父と和解でき、魂に安らぎが訪れる。
 だからこそ、罪を罪と気付かせる律法はすばらしい。

 今はまさに姦淫の世だ。芸能ニュースには、その手のものがあふれている。
 知らずに姦淫して、そして罪の苦しみを感じることもない。
 彼らはきっと、魂のやすらぎよりも刺激そのものを求めているのだろうと私は思う。
 本当の満足感がないので、刺激でごまかし続けているのであろうか。
 どちらがいいのかよくわからなくなってくるが、自分にとってどちらがいいのかは明白だ。

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[一版]2019年 8月 4日
[二版]2021年11月21日(本日)

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容疑者

 「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

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 私たちが日常の生活において人をあやめるということはない。
 万が一、過失によって人を殺すことはあるかもしれないが、殺そうと思って実際に殺してしまうことはまずない。
 しかし私たちの心の内には人を殺す心で満ちていて、と、話はつながっていくのだが、毎回はくどいので、その代わりに、河合隼雄 著「影の現象学」(講談社学術文庫)に引用された少女による詩を引用する。この詩を嫌がる人もいるだろうことを予めお断りしておく。


窓ガラスが割れている
そのわれがするどくとがっている
人が人を殺すごとき
そんな形にわれている
二つの影が(四文字不明)ている
一つの影は刃物を持っている
相手の影もせまっている
じっとみていると
今にもぬけだしてきそうだ
だんだん大きくなってくる
黒い影はとびだしてくるくらい大きくなった
ガラスが机の上におちている
それを拾ってにぎった
先がとがっている
不気味に光っている
殺せ
その先でのどをつけ
殺せ
戸のすきまから死の神がはいってきて
死ね死ねと叫ぶ
殺せ
            (pp.41-43)

 心も凍てつくダイレクトな質感とその高まりを感じるが、この詩で表現されているものは理解可能であるので自分の最も奥底のところに確かに存在するものだということに気付かされる。
 そうだとすれば、私の中には、大きく黒い影を殺せ、というものが、どうしようもなくあるのだ。 それを御父は、頭ごなしに「殺してはならない。」と押さえつけてくる。
 だから私は、一番奥底にあるこのものをひた隠しにしておびえながら生きることになる。
 容疑者として常に疑われている、と。

 しかしその容疑者の日々はイエスによる御父との和解によって過ぎ去った。
 今は、おびえることもなく、上の少女の詩にあるものが自分の奥底にも確かにあることをあっさり認めている。
 神との敵対はイエスによって和解へと進み、そして神との和解は、自分自身との和解へと進むのである。

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[一版]2018年 8月24日
[二版]2019年 7月28日
[三版]2021年11月20日(本日)

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父と母を敬え

 「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)

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 出エジプト記の十戒より。

 この律法は自分にとって大変に難しく、接した当初より苦みを感じ続けていたものだ。
 両親とも死んで久しい今になっても、それは変わらない。
 どのようないきさつがあったのかをここに書くことはできない。
 父母を敬うのだったら、見も知らぬ老人に席を譲る方がはるかにやりやすい。私は心を込めて赤の他人に席を譲る。

 このことが律法の上で何を意味するのかというと、もちろん、私が極刑に服しなくてはならないという宣告であるのだが、イエスの御業を通して、今はこのこととは関係なく全体的にこころ安らかな生活を送っている。
 死んだ父母との和解ができたわけではない。それは不可能だろう。
 そうではなく、復活の主イエスを介して、御父が私と和解してくださったのだ。
 この私たちの御父は、イエスを介してほんとうにすべてを赦してくださるのである。

 むしろ私が案じるのは、こういう人だ。
 「私はここに書いてあるとおり、十分に父母を敬っている。だから私には長寿が約束されているのだ!」

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[一版]2018年 8月23日
[二版]2019年 7月21日
[三版]2021年11月14日(本日)

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聖なる安息日

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)

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 十戒より。

 休みの日、ある人は海や山で遊び、またある人は家で静かに過ごすだろう。
 教会に礼拝に行く人もいるだろう。
 働いている人も少なくないが、だいたいの人は職場が休みだから休んでいる。
 しかし、安息日は単なる休みと違って、聖なる日なのだ。
 すべてのものをお造りになった御父の七日目の安息、これを覚えよという。
 この日、私たちは神の創造の御業に感謝するのである。

 ところで私は、この天地をそこにあるものと思っている。
 そんな私が、創世記を読んでも、天地や人を神が作りたもうたということが腑に落ちることはなかった。頭で理解はしても、どこか遠い世界のおとぎ話のようにしか感じなかった。
 なぜなら、自分が生まれたときには、すでにそこに天地はあったのだ。
 このように創造がピンとこないのだから、安息もまた分からない。
 この安息日という十戒の文言それ自体が分からないのだから、自分はなんと救われないことだろうか。
 いったい聖なる安息日というものはどのようなもので、どう過ごせばよいのだろう。
 いったい自分は、どれだけ創造主から断絶した存在なのだろうか。

 このように、律法は人に罪を気付かせる。その罪に苦しんだ果てに、イエスの十字架と復活を通して、この創造主との和解に至る。義と認められ、もう断絶はない。
 聖なる安息日を分からなくとも、そのときには赦してくださる。
 御父は人を創造し、人を赦してくださる。御子をさえ惜しまなかったのだ。
 それらすべての御業を覚えて、喜ぼう。

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(追記)
 私事になりますが、テレワークに由来する多忙な日々の中、朝から晩まで平日も休日も休みなく仕事をしていたらついに眼をやられてしまいました。
 眼医者に行くと、メガネが合っていないのにディスプレイを凝視し続けて眼精疲労を起こしたのだろうとのことで、丸2日仕事を休んでディスプレイを見ずに過ごして大分回復しました。
 聖なる安息日ということはいまだすとんと落ちませんが、御父ですら週1日休むのだから、御父の子は、これはもう必ず週1日はしっかり休まないとこうして無理が来るということは身に染みました。

[一版]2019年 7月15日
[二版]2011年11月 7日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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