ヒューマニズムと聖書

 「わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。
 わたしが、父の前にあなたがたを訴えようとしていると思ってはなりません。あなたがたを訴える者は、あなたがたが望みをおいているモーセです。」(ヨハネ5:43-45)

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 ヒューマニズムというものがある。
 人間をすばらしい存在ととらえ、互いに評価し合う。
 人間の良い面も醜い面もありのままに認めてすばらしいととらえるのならばまだ分かるのだが、このヒューマニズムは良い面だけを見て、その上で人間の全存在に信頼を置こうとする。
 彼らは自分の内側にある醜い面、嫌な面から無意識に目をそらしているのかもしれない。多分そうだろう。

 このヒューマニズム観は、聖書からは最も遠い。
 なぜなら、聖書は人間を良き存在とは見ていないからだ。
 むしろ逆で、アダムの違反以来、神の御前に罪深い存在として人間は絶えず糾弾され続ける。
 私たちは、律法を授かったモーセから絶えず訴えられ続けているのである。
 それは、私たちがどうやっても神の律法を守り通すことができないからだ。
 その罪の苦しみ。自分の内面の醜さを、律法という鏡越しに嫌と言うほど見なくてはならない。
 ここからの救いをもたらしてくれるのが、救世主イエス・キリストである。

 自分の内面から目をそらすか、それとも自分の内面をみつめてゆくか。大まかには、その違いである。
 どちらの方が心豊かに歩むことができるだろうか。
 それで私は、救ってくださったイエス・キリストに感謝しているのである。

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[一版]2014年 6月22日
[二版]2020年 8月16日
[三版]2022年11月27日

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聖書に何を求めるのか

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:39-40)

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 「あなたがた」であるところの彼らは、「永遠のいのち」を求めて聖書に当たる。
 一方で、「いのち」を与えるのはイエスなのに、そのイエスのもとには行こうとしない。
 「永遠のいのち」、「いのち」と敢えて抜き書きしたが、この両者は違うもののように思える。

 彼らが欲しがっている「永遠のいのち」とは、死なないことなのではないか。
 死ぬのが恐いのだ。もしかすると、老化しないことまで含まれるかもしれない。
 一方、イエスのいう「いのち」とは、創造主との和解を通じて、死んでいた魂がいきいきとよみがえることをいう。
 そのためには、むしろ死ぬことがどうしても必要なのだ。つまり罪に死ぬことである。

 死はなににも増して恐いもので、彼らの気持ちそのものには理解はゆく。そして、その不安を鎮めるために彼らは聖書にすがっていたのかも知れない。
 しかし、聖書は不安を抑える薬の類ではないし、いやしを与えるものでもない。
 この聖書の言葉が生きて入ったときに、人は死ぬのである。そして、復活のイエスによってよみがえる。このように、聖書とは峻厳とした何かだ。
 聖書に何を求めるかというのは、とても大切なことだろう。

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[一版]2018年11月23日
[二版]2020年 8月 2日
[三版]2022年11月26日

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生ける死人

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)

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 著名な仏教学者の鈴木大拙(1870-1966)は、次のように言っている。
「『人間』というものは(機械化してしまうと)無くなってしまう。人間の創造性、潤いとか柔らか味とかいうようなものは、ことごとくそっちのけで、それを作る機械そのもので行くことになるのです。もう、そこへ来ると、人間の代りに機械だけしか見えぬということになるのです。何かそこに一つの柔らかさとか味とかあるいは余裕というものがなければ、人間性はない。人間はどうしても物になれぬ、機械になれぬ。」
(大熊玄 編、「はじめての大拙」、p.84。なお、上記引用中のカッコは編者による補足。)

 上の引用を借りると、死人は機械として生きている。
 現代においては、死人はデータとして生きているとすら言えるかもしれない。
 しかし、「人間はどうしても物になれぬ、機械になれぬ」のだから、これこそ生ける死人である。
 この生ける死人ということは、機械もデータもなかった2000年前に、イエスが「死人が神の子の声を聞く時が来ます」と言っているように、人の営みの中で普遍的なことなのだろう。
 そして、死人たらしめる普遍的なものといったら、なんといっても富(マモン)であり、これについてもイエスは「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言っている。機械も富のため、データもまた富のためなのだ。

 さて、イエスが極刑の十字架に架かりそして復活して、「死人が神の子の声を聞く時」がやってきた。
 かつてない苦しみの果てに、この神の子の声が聞こえてくる。
 そして「聞く者は生きるのです」。
 イエスの十字架と復活の御業は、人が本来的に生きるようになる道を切り開いたのである。

 では、「いのち」を「生きる」とは、どういうことだろうか。
 機械文明の中にあっても機械化されない。自分の軸が機械文明にはないからである。
 情報文化のさなかにあっても振り回されない。自分の軸は情報文化にはないからである。
 富にも軸心を置いていないから惑わされない。
 「いのち」を「いきる」ものは、御父に軸心が置かれている。

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[一版]2020年 9月 3日
[二版]2022年11月23日

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恵みと行ない

 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:2-9)

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 38年も病気が治らない人にイエスが出会う。
 イエスは彼に言う。「よくなりたいか」。
 ところが、彼が言うには「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」と、頓珍漢だ。
 彼からすれば、誰か知らないがともかく自分に話しかけてくれる人がいて、それで、日頃の思いの丈をとにかくぶっつけたのだろう。実は自分にも似た経験がある。

 それにしても、このベテスダの池には「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。
 イエスはこの大ぜいの人々の中で、上の38年病をかこつ人に声を掛けた。
 ほかの人々ではなく、この38年の人にイエスが会ったのはなぜだろう。
 たとえば、この人が熱心に祈っていたとか、日々ちょっとした善行を行っていたとか、そのような人の目から見て好ましい何かがあっただろうか。
 そういうことではなく、大ぜいの病人がいる中、イエスはこの38年の人に会ったということだ。
 理由はない。少なくとも、人目に見て分かるような理由はない。
 この理由がないというのが恵みであり、38年の人はまさに恵まれたのである。
 仮に、熱心に祈っていたというのでイエスが声を掛けたのなら、それは行ないに基づく因果関係である。人の目にはわかりがいいが、不可思議なことに神はこの因果関係を気にも留めない。

 恵みと行ないとの違いについてやや極端に書いたが、頓珍漢なことを言い返すほど行き詰まっているこの人を、神の子イエスは予め知っていたのかもしれない。

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[一版]2020年 7月22日
[二版]2022年11月20日

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霊とまことによる礼拝

 「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

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 エルサレムの神殿で礼拝するにせよ、北イスラエルが勝手に定めたゲリジム山(うろ覚え)で礼拝するにせよ、それは礼拝というよりか、ただの儀式になってしまう。
 しかしこのただの儀式によっては、人は御父とつながらず、御父は人とつながらない。
 それで御父が、霊とまことによって父を礼拝する者を求めておられる。

 御父と人とのつながりは、復活の大祭司イエス・キリストがとりなした。
 このイエスに出会うとき、私たちの罪が赦される。
 そのとき罪から自由になって、私たちは「いのち」を生きるようになる。
 このようにして、私たちはイエスを通して御父を知った。
(「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3)。

 御父をすでに知っているので、アダムの子孫が執り行う儀式は、もう要しない。
 大祭司イエス・キリストを介する真の礼拝が行われるようになる。
 言い換えると、イエスというパイプを通して、御父の霊と人の霊が交わること、これが「霊とまこと」による礼拝である。
 そのパイプとは、十字架と復活を通してイエスが初めて切り開いたものだ。

 だから私たちは、自分の中にこのパイプが切り開かれることを、切実に祈り求めるのである。

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[一版]2010年12月 4日
[二版]2012年10月 7日
[三版]2014年 6月 8日
[四版]2018年11月11日
[五版]2020年 7月12日
[六版]2022年11月19日

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いのちの水は飲むのではなく内から湧き出る

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:12-14)

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 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。
 何が渇くのだろうか。もちろん魂が渇くのである。
 渇くとどうなるかというと、刺激で一時しのぎをしようとするかもしれない。
 刺激といっても様々なものがあるので、ここでは物欲に絞ると、衝動買いという言葉もあるように、消費することそれ自体が刺激になることがある。
 そんな刺激はもちろんすぐになくなるから、また刺激を求めて買い物を続けることになる。
 しかしこれは満足感とは全く異なる。
 というより、この満足感がないので、その代わりにいっときの刺激で紛らわしているように思える。
 ここに出てくるサマリヤの女は、満足できずに男をとっかえひっかえして刺激を求め続け、そうしてつまはじきになっていったから、悪循環から抜け出せなくなってもがいていたのであろう。

 だがイエスが与えようとする水を飲むと、もう渇くことがない。
 つまり、心満たされ、内側から湧き上がる満足感を得るのである。外からの刺激は必要ではなくなる。
 マモニズム、物質主義が与え続けるこの種の刺激から、私たちは自由になる。
 神と富とに仕えることはできないのである(マタイ6:24新共同訳)。

 私たちは、本来何に心満たされるように造られているのか。
 見失ってしまったこのことを、イエスは回復させてくれるのである。

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[一版]2018年11月 4日
[二版]2020年 7月 8日
[三版]2022年11月13日

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キリストの光

 「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

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 「生きがい感というものは、そぼくな形では生命の基盤そのものに密着しているので、せいぜい生きるよろこび、または『生存充足感』としてしか意識されない。デュマのいうように、ひとの生活が自然な形で営まれているときには、一種の自動性をおびて意識にのぼらない傾向があるからであろう。したがって『あなたは何を生きがいにしていますか』とたずねても即座に返事のできない人が多い。或る調査用紙にこの質問を入れておいたところ、『この問いをみてギョッとした』という感想をのべた婦人もある。」
(神谷美恵子 著、「生きがいについて」2004年版、p.30)

 引用が長くなってしまったが、「生きがい」という個人内面のことをいきなり尋ねられて、この問いそのものに「ギョッとした」婦人がいるということが書かれている。
 この婦人は、いきなり自分の内面に光が当てられてあわてている。
 もっとも、この場合はキリストが照らす光ではないのだが、自分の内面など見たくもないという人が少ないのかもしれない。

 そうであるなら、キリストが照らす光、人間の内面をくまなくまさぐる光を受け入れる人というのは一層少ないに違いない。
 その光は、その人の罪をつまびらかに照らし出して明らかにする光だからである。
 「悪いことをする者」、「真理を行なう者」の判断軸が何かはあまりよくわからないが、そのような光自体を、人は日ごろ嫌がるだろう。目先のことに忙殺されているのだ。
 しかし、心に深い悩みを抱えた人、大きく傷ついた人、行き詰まった人、つまり、先ほどの婦人とは異なって内省的になり立ち止まっているときにこのキリストの光が照らされると、その人は光を喜び光の方へと向かうだろう。あるいはそのことを、真理を求めるというのかもしれない。
 このキリストの光は、その人をただ糾弾するためのものではなく、それどころか、十字架と復活を通してその人に「いのち」を与えるためのものなのである。

 キリストの光は、どの人の上にも、いつも照っている。
 日ごろ人は、その光を避ける。
 だが、誰にでも闇夜は訪れる。
 キリストはずっと待っていてくださって、そのときその人を迎えてくださる。

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[一版]2014年 6月 6日
[二版]2017年 1月29日
[三版]2018年10月28日
[四版]2020年 7月 3日
[五版]2022年11月12日

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御子を信じる者とは

 「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:18-21)

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 真理を行う者か、それとも悪いことをする者かは、イエスを信じるかどうかによる。
 悪いことをする者はやみを愛する。イエスという光を避け、イエスが与えようとするいのちを拒み、生きているようで実際には死んでいる者である。
 しかしイエスを信じる信仰は、自ら選ぶのではなく、イエスによって与えられる。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」(ヨハネ3:8)のであり、信仰するのではなく信仰させられるのである。このときイエスからいのちを与えられ、死人が息を吹き返す。
 すべての基準は御父と御子によるのであり、すべての権限もまた御父と御子にあるのである。

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やり直すことと新しく生まれること

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」
 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。
 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(ヨハネ3:1-8)

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 イエスと議員ニコデモとの問答。

 ニコデモの話を遮るかのように、イエスは言い放つ。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
 対するニコデモは、「もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」などとこぼす。

 もう一度胎内から出てくるとニコデモが言っているのは、つまるところ人生をやり直すということだ。
 だが、イエスが言っていることは、やり直しではない。全く異なる。
 新しく生まれるということである。
 やり直しではなく、新しく生まれること、これが「いのち」なのである。

 やり直しは石ころの表面に金メッキを付けたのと同じで、こすればメッキがはがれて元の石ころの地が顔をのぞかせる。
 肉がやり直しをしても、罪深い肉であることには変わりがない。
 一方、産みの苦しみを経て新しく生まれるときには、石ころが金塊そのものに変わるのである。つまり霊となる。

 そして、そのようなことは「風」が起こす。
 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない」。
 このようなつかみ所のない風、自分ではどうすることもできない風が、ただ神の御恵みによって自分に吹くときに「御霊によって生まれる者」とされるのである。

 やり直すことと新しく生まれることは全く違うし、自力でできるか風頼みかということも全く違う。

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[一版]2010年11月20日
[二版]2012年 9月28日
[三版]2014年 5月24日
[四版]2017年 1月15日
[五版]2018年10月14日
[六版]2020年 6月28日
[七版]2022年11月 5日

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