罪のとげ

 「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

---

 自分語りをする。
 まだ20世紀だった頃に教会の門を叩き聖書を読み始めた。
 当時ぎくりとさせられたのが、「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:27-28)だった。
 その当時買い物に行ったときのこと、可愛らしくて器量の良いレジ打ちの娘を見て、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」が即座に思い出された。
 私は今、まさに姦淫の罪を犯したのだ。

 律法が私たちにもたらすのは、この罪の意識、罪のとげの痛さである。
 律法は、肉に宿る罪をこのように白日の下にさらして私自身に突きつけてくる。
 「お前は罪人なのだ!」と糾弾する。
 もし私が律法を、山上の説教を知らなかったら、このような罪を知ることなく過ごしていた。
 しかし、もしそうだったならば、私にとっては御父もイエスも、十字架も復活も、そして赦しと救いも、まったく無関係だった。今思うと空恐ろしい。

 このように、律法は私たちの肉の罪を嫌と言うほど知らしめる。
 そして、この罪の痛みから逃れたくて、イエスによる罪の救いを求めてゆく。
 律法が養育係(ガラテヤ3:24)である所以である。

---

[一版]2011年 7月30日
[六版]2023年12月31日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

何を誇るのか

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)

---

 行ないの原理について、パウロは第2章で「律法を誇りとしているあなたが、……」(2:23)と記している。
 律法を守ることで神の義に至ろうとしていたつもりが、気づくと、律法を守ることが自分の誇りとなり、他者に対する優越感に転じてしまう。
 一方、信仰とは、恵みによって与えられるものである。十字架と復活のイエスが訪れ、罪赦されて義と認められる。
 この信仰の原理は、自分の内面のことであって誰にも誇りようがない。むしろ、自分の誇りそのものがなくなってゆく。
 なぜなら私たちが誇るべきは私自身ではなく、私を救ってくれたイエスだからである。

---

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

私の罪深さに表れる神の栄光

 「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。
 「善を現わすために、悪をしようではないか。」と言ってはいけないのでしょうか。――私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが、――もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。」(ローマ3:7-8)

---

 罪深い私は、その罪深さのゆえに人を傷つけ腹立たせることなど数知れない。
 赦されたにもかかわらず、人を許すことなどほとんどない。
 そのような私と比べれば神の栄光はよりまぶしく見える。
 しかし、そうと見えるだけで、神の栄光は自分によって貶められる。
 なぜなら私はこの御父によって造られ、そしてイエスの御技のゆえにこの御父と和解できたにもかかわらず、肉を持つ私のこの有様は御父の顔に泥を塗っているようなものではないか。
 それにもかかわらず、御父は罪深い私をいつも赦してくださるのである。ここにこそ御父の栄光が輝いている。

---

[一版]2021年 7月 3日
[二版]2023年12月29日

 イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

人からの誉れ、神からの誉れ

 「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」(ローマ2:28-29)

---

 共通の知人のことを「あの人は人から褒められたいというのが強い」と評した人がいて、確かにそうだなあと思うと同時に、人から褒められたいということ自体について違和感も持った。
 あまり褒められることのない自分も、人からは褒められたいとはやはり思う。
 しかし自分は人からはあまり褒められなくてもいいな、というのが上に書いた違和感である。
 今日もやることをきちんとやる。
 御父からお褒めにあずかり、自分自身もその自分を褒める。
 もっぱら人から褒められるためにやっていたら、その人は自分自身を見失ってしまいそうだ。そして、その人をお造りになった御父を知ることもないような気がする。

---

[一版]2021年 6月18日
[二版]2023年12月24日

 Merry Christmas ! イエス様の平安がありますように!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

死んだ日々と生まれ変わった日々

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)

---

 「彼らが神を知ろうとしたがらない」とあるので、大昔から無神論者はいたのだろう。
 しかし彼らは「死罪に当たる」のであり、そのことを彼ら自身知っているという。
 では、ここでいう死罪とは何であろうか。
 それは神を知ることがなく、虚しく潤いのない日々に幽閉され続けることとでもいえばいいだろうか。
 ソロモン王は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に」(伝12:1)と書き残している。
 また、最近のネットの書き込みの中には「日本より暮らしやすくて生きづらい国はない」というものがあった。

 一方で、復活のイエスが取りなして神と和解できた私たちは、内住の聖霊を宿している。
 私たちは、自分の意志で好き勝手に動いているというよりは、この内住の聖霊によって動かされている。
 これは不自由なことではなく、それどころか、人間生来のあり方としてとても自然なのである。
 上の引用聖句に諸々のことが書かれているが、これらを守るべきものとして守るというよりも、単にそうであることが自然なのである。
 人は神のもとで生きるようにできており、罪赦されて神と和解することによって、失われていた自分、潤いのある自分を取り戻すことができるのである。

---

[一版]2019年 8月15日
[二版]2021年 3月13日
[三版]2023年12月17日

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

知者であると言いながら愚かな者

 「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。
 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」(ローマ1:18-23)

---

 もし、神の存在を理詰めで証明するとしたら、どのような筋道でならうまくいくだろう。
 自分なら書き始めでつまづいてしまうだろう。一行も書けない。
 頭とか観念だけで神を認めようとするのは、非常に無理がある。
 それらとは違うところ、心とか魂が、神を求め神と出会う。

 近代以降、人々は頭でっかちになってしまった。頭ですべてを統制できると思っている。
 この頭は、自分の認識の外にある神を認めようとしない。
 しかしゲーテは、1772年という時点で既に「頭がすべてだと考えている人間の哀れさよ!」と書いている。
 頭が全てになると、その人の中で、頭と心(魂)とが分離してしまう。
 熱エネルギーを用いて巨大な機関車を自在に動かせても、自分の気持ち一つ分からなくなる。
 それが「知者であると言いながら、愚かな者」ということである。
 まったく愚かしい。これは我が身を省みてもそう思う。

 この、分離してしまった頭と心との調和を取り戻すには、どうしたらいいだろう。
 絶対的な存在を認めることは、とても大切なことだ。
 頭では認識できないが全人格的に認めざるを得ない、そういうことがある。
 それがイエスとの出会いなのである。
 極刑に死んだが復活した赦し主イエスとの出会いによって、この絶対的存在を認めざるを得なくなり、その結果、調和が取り戻される。
 このときに、頭が絶対者なのではないことに、否応なしに気付かされるのである。実際、この出会いに頭は何の役にも立たなかった。

---

[一版]2017年 9月17日
[二版]2019年 8月14日
[三版]2021年 6月 6日
[四版]2023年12月10日

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

渇き

  「神よ。あなたは私の神。
   私はあなたを切に求めます。
   水のない、砂漠の衰え果てた地で、
   私のたましいは、あなたに渇き、
   私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
   私は、あなたの力と栄光を見るために、
   こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
   あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、
   私のくちびるは、あなたを賛美します。」(詩63:1-3)

---

 詩人ダビデは、このとき荒野にいたとある。
 実際に喉が渇いていたばかりか、心も渇ききっていた。
 しかしダビデはあきらめることなく御父に祈り賛美する。
 このダビデの肉の上での子孫であるイエスは、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)と言う。
 じっさいそのとおりで、十字架と復活のイエスを介して御父と和解するとき、この生ける水が心を潤し、それが枯れることはない。
 この生ける水とは、元気とかエネルギーとかパワーという類いのものとは違い、満ち足りるとか満足感といったものを与えてくれる。
 喉も心も渇ききるときというほどの苦境は、誰しも経験するところのものである。
 このようなときにこそ、この生ける水を求めてダビデのように祈ろう。

---

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )