苦難について

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
 そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
 ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。」(ヘブル12:4-12)

 「どんな幸福な生活にも起こる数多くの試練や心労を、堪えがたい重荷と考えるか、それとも自分の生活原則を実行し修練するために、神から授けられた機会だと見るかは、ものごとの感じ方として大きな相違である。そして結局、この感じ方次第ですべてが決まるのである。
 その後の方の見方は、もちろん信仰があって初めてできることであり、またそれが信仰の最も明らかな利益の一つでもある。」
(「眠られぬ夜のために・1」、ヒルティ著、草間・大和訳、岩波文庫。その「3月1日」の項より)

 「かれの内心の争いが最高潮に達したとき、アウグスティヌスはある家の庭で苦しんでいたが、……」。
(「告白(下)」、聖アウグスティヌス著、服部英次郎訳、彼による解説 p.275 より引用)

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 「ヘブル書は難解だ」、しばしば耳にしたことばだった。
 これには前々から、軽い疑問を抱いていた。

 思うところあり今朝開いて、そして思った。
 「どこが難解なの?」と。
 きわめて理路整然としている。
 接続詞を大切にしているのが、特徴的に思えた。
 だから、書き手(詠み人知らず)、彼が何を言わんとするのかが手に取るように分かる。
 一方で、二日ほど前、やはり思うところあってヤコブ書を開いた。
 一時期、ひどく親しんだ書物だ。
 改めてひもとくと、これ、……。
 まあ「ある事項について」は後日書くと思うが、……「接続詞」以前の文章に思えた。
 だから今の私には、「ヤコブ書の方が難解」に思える。ヤコブさんが何を言いたいのかを把握できないからで、それを指して「難解」と私は書いている。
 そして思うに、「ヘブル書が難解」なのは、「難解にしたいから」だと。
 前置きが長くなった。

 さて本論。
 「苦難、これは有り難く頂戴せよ。」
 冒頭の聖句とヒルティ、それとアウグスティヌスについての解説記事、これらの抜き出しは、単にここへ演繹させたいからだ。

 ヒルティはどこかで書いている(ほんとに忘れた)。苦難のない人というのは、およそ神から見捨てられた人だ、というようなことを。
 そのことの実証、それは冒頭のヘブル書の引用で事足りるかと思う。
 実に苦難こそ、神からの最良の治療薬、そう思う。

 さくじつ新聞を見開いて、……、「半面以上の大記事」に胃を痛めた。
 大見出しの記事、さすが「ジャーナリズム宣言」をしてくれただけのことはある。
 そして思う、「それだからしんどいんだろっ」と。
 しかしなにしろあれだけの大記事だったから1つくらいは有益な情報があって、おかげで一つの「作戦立案」叶い、これを書いている今朝方は、あとは「その作戦」を粛々と行えばよろしい、そうと心は定まっている。
 さくじつ胃を痛めた甲斐があったというものだ。
 実に神は、おりに叶った「苦難という良薬」を与えてくださる、その観が強い。
(ほんとに「おりに叶った」だなー…。)

 さて、「ヘブル書引用」、これをこの一文から行っていることに心を留めていただきたく思う。

 「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)

 そう、ヘブル書におけるこの段落は、「苦難一般論」というよりかは、もっと的を絞って、「罪との戦い、その中での苦難の位置づけ」なのだろう、そう思いつつこの聖書箇所を読んだ。

 アウグスティヌス、彼は「血を流すまで抵抗」して、そうして「罪という一大問題」を「消化」した、その「ほんの一例」だ。
(語彙不足を恐縮と思う。「消化」よりも「トレース」ということばが個人的にはしっくり来るのだが、そうするとなおのこと自らの力量不足が顕わになってしまう。)
 彼の苦難に次ぐ苦難、それは、この記事をご参照いただきたい。
 彼は「弁論学」をたまたまやっていたから「告白」をしたためること叶った訳で(これこそ全てのものが益になる、その恰好の好例だ。ロマ書8:28)、名も知れず神にだけひそやかに「告白」して、そうしてひっそりと天に召された大勢の人々がいるに違いない。
 どの人も、大苦難あってのことのはずだ。

 この世での苦難、これは神からの良薬だ。
 この苦き良薬飲まずして、人としての成長はないだろう。
 あまり好きなことばではないが「人格形成」、これを神がやって下さる訳だから、なおのこと、この良薬が与えられたら、それは恰好の機会だ。
 神は、人間が「いちにんまえ」に育って欲しいと願っておられる、そのようにすら感じる。
 そう、苦い。
 「胃を痛める」なんてもんじゃない。

 罪の解決(回心)、この最大の問題に処する薬もまた、「神からの良薬」だ。
 福音書が伝えるイエスの苦難、十字架の道。
 ここに、その手本を見る。
 罪なきイエス。
 神たるイエス。
 そのイエスが、「十字架」という「良薬」を、敢えて「あおって飲む」…。

 「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ伝19:30)

 「酸いぶどう酒」なのだ、やはり。
 だからこそ、イエス(だけ)が師なのかと思う(マタイ23:10)。

 しかし他方、このことも言えると思う。
 これもヒルティの言を引用する。正にその通りと思うので。

 「慰めは苦しみのすぐかたわらにある。これは、神が、ほかのだれよりも、このようなみずから進んで苦しみを堪え忍ぶ人びとのそば近くにいられるということである。」
(「眠られぬ・1」の1月9日の項より)

 最後に、全くの偶然なのだが、書き終えようとしてそのさなか、名ブログ「生協の白石さん」を何気なく見やると、実に興味深い記事があったので、ここにリンクしておこう。
 白石さんの仰るとおり、あのマリーンズ(というかオリオンズ)が日本一に輝く。
 「あのファイターズ(!)」は、今季パリーグ1位、そしてプレーオフに臨む。
 ほんじつの記事も、大方これを言いたく筆を執った。
(しかし、「白石さん」は、全く計算外だった。)
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