神に従うとは

 「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:43-44)

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 神の命によって、死んだ者がよみがえって墓から出てきた。
 死者が神に従っている。
 むしろ、死んで肉を喪失した存在であればこそ、神に従った。

 一方、生きている私たちはどうであろうか。
 アダムの末裔である私たちは、神に逆らう性質をこの肉体に宿している。
 神がお造りになった世界、自然に逆らっているのだから、この自然の中で不整合が起こる。
 つまり、罪のことである。
 神に従うことが自然であるから、逆らっては罪意識にさいなまれる。
 ちなみに、神に従うとはどういうことか、ということは、律法の数々に記されている。

 「馬鹿は死ななきゃ直らない」に近いのだが、この不整合もまた、死なないことには救われない。
 では、死んでどうなるのか。
 復活の主イエスによって復活させてもらい、罪赦されるのである。
 罪がなくなるわけではないから、神に従うことができるようになるわけではない。
 ところが、この不整合があるままで赦されるのだ。
 これがイエスの切り開いた救いの道であり、上の聖書箇所でのラザロのよみがえりは、その型である。
 死者は神に従っている。
 生きている私たちが、神に従うことができない。私たちに救いが必要な所以である。

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[一版]2017年 5月17日
[二版]2019年 1月27日(本日)

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わたしは、よみがえりです。いのちです

 「マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(ヨハネ11:24-27)

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 ラザロを蘇らせるしるしを行うにあたって交わされた会話。
 マルタを前に、イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。」と言う。

 ここでマルタは物わかりよく答えている。しかし、この時点では、イエスがキリストであると分かった人はいなかったと思う。
 「わたしは、よみがえりです。いのちです」というのは、第一義的には、十字架の死とそこからのよみがえりのことである。
 イエスは、人に「いのち」を与えるこの最も大きなわざを行う道中にある。
 この最も大きいわざが成就して後、イエス・キリストは恵みによってその人に「いのち」を与える。
 どのようにして与えるのかというと、その人を極刑の死に至らせ、そしてそこからよみがえらせるという過程によってである。
 この過程すなわちイエスの道を切り開いたことこそ、イエスの最も大きいわざなのだ。
 そして、「いのち」に預かった人は信仰に入る。「いのち」とは自分を救ったイエス・キリストそのものだからである。

 ここでは死んだラザロがよみがえろうとしている。
 このイエスのわざは、自身の大きなわざの型を示したのではないかという気がする。

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 「その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:7-10)

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 イエスは「光がその人のうちにないから」と言う。
 イエスの公生涯の間は昼間の時間帯で、イエスはまさに光であった。
 しかし、夜の時間帯になると外の光はなくなるから、その人の内に光があるかないかが、その人が生きるに際して大切なこととなる。
 この聖書箇所のほかにも、「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:23)とある。
 そして、人の内側の暗がりの中に光を灯すこと、これがイエスの十字架の目的であり、聖書の役割である。

 ここで、つまずく/つまずかないとはどういうことだろう。
 世渡りがうまいことがつまずかないことであろうか。
 イエスは「もう一度ユダヤに行こう。」と言っているが、世渡りとしては明らかに弟子の言うとおりなのだ。
 むしろ、世知に長けてより多くより上を目指す、こういう人の方が、実はつまずいているように私は思う。
 自分に光が必要なことに気付かない、あるいは見ないようにしていると、内面の暗さにも気付かないか、ごまかすほかない。
 しかし心の貧しさに気付く者は幸いなのである。
 この暗がりをごまかさずにイエスにすがって内側に光が宿る方が、一人の人間としてつまずかずに済んでいる。
 神との和解がもたらす魂の平安にたどり着き、もうごまかす必要そのものがなくなるからである。

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羊飼い

 「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)

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 イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。
 ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。
 イエスの羊はイエスを知っているので、イエスの後を着いてあの狭い道に入ってゆく。
 この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れるものではない。
 ところが、イエスは羊たちを、いつの間にかにこの狭い道へと誘導している。
 道のりは険しく苦しいが、イエスは自分の羊たちを先導し続ける。
 一方、ほかの羊たちは広い道をにぎやかに歩いている。道の両脇には見せ物小屋や土産屋などが立ち並んでいる。

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御父の命令

 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:17-18)

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 十字架と復活、その予告。
 ただ、イエスの話していることを理解できる人はいなかった。

 イエスは十字架を、御父の命令であると説明する。
 具体的には、罪人の救いという命令である。
 罪人を救うために、律法に照らして何の罪もないイエスが極刑を受ける。
 そして、それにもかかわらず「自分のいのちを再び得」ることで、身代わりに背負った罪を処分する。

 これは救いの型であり、イエスがはじめて切り開いた狭き道である。
 恵みによってこのイエスの道に入り込んだ罪人は、苦しんで死に、イエス同様いのちを再び得る。
 このときにはじめて上のイエスの言葉を了解できる。
 自分の経験したものだからである。

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[一版]2011年 2月12日
[二版]2019年 1月 6日(本日)

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間違いのある神

 「イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。」(ヨハネ10:6)

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 イエスのしたたとえ話は、どうも理解されなかった。そこでイエスは話を仕切り直す。
 受肉した神イエスは、間違うこともあるのである。
 間違うこともある神、というよりもそれは肉を持つ者の不完全さなのだ。
 まして、アダムの肉の子孫である私たちが間違いひとつないなど、あるはずがない。

 いったい今まで、どれだけの間違いをし続けてきたことだろう。どれだけ多くの人を傷つけ、悲しませたことだろう。
 それにもかかわらず、周りからどれだけ許され続けてきたことだろう。
 だが私には、どうしても許すことのできない人が1人いる。
 こんな私の大きな間違い、どうにもならなさをも、イエスは理解してくださる。ご自身にも間違いのあった神なのだ。
 そして完全な存在である復活のイエスは、ただ恵みによって私を救ってくださった。
 上に書いてきたことからして、私が救いに預かるような者とは到底言えないにもかかわらずである。

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[一版]2017年 5月 7日
[二版]2019年 1月 5日(本日)

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盲目が見え、見える者が盲目に

 「そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)

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 「目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となる」。

 私たちはそもそもが盲目なのであるが、日ごろそうとは思っていない。
 ここに、盲目であることに気付くための「てこ」が、神の秩序・律法である。
 私たちの肉は、たとえば十戒のたった一つすら守ることができない。イエスが教えてくれるのはこのことだ。
 そして、この律法を通して自分の罪に思い至った人は、つまり見えるようになったのだ。
 この地点こそ、イエスによる救いの第一歩なのである。

 一方、私は見える、という人は、律法を守れていると思いこんでいて盲目であり続ける。

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[一版]2011年 2月 5日
[二版]2014年 8月 6日
[三版]2019年 1月 4日(本日)

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見えない人にあらわれる神のわざ

 「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:1-3)

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 生まれつきの盲人について、誰に罪があるからかと弟子がイエスに聞いている。
 罪があるから眼が見えないという因果律で考えているからだが、自分の罪にはまるで思い至らないのであるから、本物の盲人はこの弟子なのである。

 さて、愚かな弟子の質問に対して、イエスは「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです」と応えている。
 生まれつきの盲人こそ、神のわざが現れる器だったとは。
 人の眼には不思議なことだが、これは神の性質なのである。

 そしてこの神は、上に書いような本物の盲人たちを憐れんで、御子イエスを人としてこの世に送った。
 罪を犯し続けているのが他人ではなく実は自分なのだということに気付いて欲しいのである。
 なぜなら、この気づきこそ救いという神のわざのスタートラインだからである。

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 健やかな一日をお祈りします!

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偽り者

 「けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、わたしは知っています。もしわたしがこの方を知らないと言うなら、わたしはあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、わたしはこの方を知っており、そのみことばを守っています。」(ヨハネ8:55)

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 「この方」とは御父のこと。
 イエスは御父を知っているので、もしも御父を知らないというならば、あなた方同様に自分は「偽り者」となる、そう言っている。

 自分が偽り者だという気付き。
 自分が殺す者だという気付き。
 律法という囲い込みによってそれらの気付きに至るとき(それは例えようのない程の苦しみであるはずだ)、私たちは復活のイエスを介して御父を知ることとなる。
 それはただ、恵みにより、断食とか滝に打たれるとか、そのような行ないではどうにもならない。

 偽り者が、恵みによって偽らない者となるのではない。
 殺す者が、恵みによって全く殺さない者に変えられるのではない。
 偽り者が偽り者として赦され、殺す者が殺す者としてありのまま赦されるのである。
 そのためのスタートラインとして、まず、自分は実は偽り者だと気付くことが必要となる。

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[一版]2011年 1月23日
[二版]2014年 8月 4日
[三版]2017年 5月 3日
[四版]2018年 1月 2日(本日)

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