イエスが私たちのところへと訪れる

 「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ7:32-34)

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 パリサイ人(の遣わした役人)とイエスとのやりとり。

 公生涯のあとにイエスが行くところというのは、天の御国である。
 その御国にいるイエスを、パリサイ人は探しても見つけることができないし、彼らパリサイ人は御国に来ることもない。
 このこと自体は、私たちにとってもそうである。
 私たちがイエスを探そうとしてもどこにも見つからないし、私たちが自力で御国にたどり着くということもない。
 そうではなく、イエスが私たちのところへと訪れるのである。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙3:20)とあるとおりであり、このことが恵みなのである。

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[一版]2020年 9月23日
[二版]2022年12月31日

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御父を分かる角度

 「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。
 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」
 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。」(ヨハネ7:14-16)

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 わたしの考えがわたしのものであることの例として、日本文学の金字塔である夏目漱石は、「私は多年の間懊悩した結果ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。」(夏目漱石、「私の個人主義」(講談社学術文庫),p.136)と講演している。世界を見る独自の角度を見出したのである。
 一方、イエスの言うことは、イエスの見方や角度によるものではなく、御父のものである。
 さらに言うと、イエスが言っているというよりは御父が言っているのである。
 私たちもまた、イエスの言うことが御父のものだということを分かっている。イエスに救われて御父を分かる角度、すなわち信仰を与えられたからだ。
 多年の間懊悩した末にイエスが鶴嘴(つるはし)をがちりと私に当ててくれたおかげである。

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恵みを待つ忍耐

 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
……
 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。』と言ったのです。」
 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」(ヨハネ6:58-60,65-66)

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 去っていった弟子たちは、イエスに従えば「いのち」を得ることができると思っていたのだと思う。
 ところが、ここでイエスが言ったのは、御父の御心による恵みについてであった。行ないではなく恵みであるというのは、イエスがここで言うとおりの意味である。
 去っていったこの弟子たちは、きっとこう思っただろう。「こいつについて行ったって何もないんだってさ!」

 では、私たちは何故それでもイエスにつき従うのだろう。何の役に立つというので聖書に接するのだろうか。
 それはもちろん、私たちが救いを求めているからだ。
 イエスは私たちをあわれんで私たちのもとを訪れる時が来る。それが天からのパンなのである。
 わざではなく恵みによってなのであるから、恵みにあずかるまで忍耐強く待つ必要がある。
 去っていった弟子たちは、この忍耐が足りなかった。

 イエスとの出会いに必要なものは、行ないではなく、恵み、そしてその恵みを待つ忍耐である。

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[一版]2017年 4月 2日
[二版]2018年12月16日
[三版]2020年 9月14日
[四版]2022年12月29日

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肉に死んで御霊に生きる

 「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)

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 罪から救われるため、まずは神の律法を遵守するという肉の努力を行う。
 ところが、神がよしとする基準ははるかに高く、律法を守り行おうとすればするほど守れないことが身に染み、罪の意識はさらに増してゆく。そうして「肉は何の益ももたらしません」、言い換えれば、自力では何をやってもダメというところにまで堕ちる。
 ここまで堕ちてはじめて、恵みによってイエスがその人の戸を叩く。
 このイエスとの出会いが、罪の赦し、御父との和解、そしていのちをもたらしてくれる。
 このような、肉に死んで御霊に生きるという過程は、イエスの十字架と復活と変わるところがない。
 私たちは、イエスが切り拓いた救いの道を通って救われるのである。

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世の基準軸、御父の基準軸

 「生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」(ヨハネ6:57)

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 イエスは父によって生きている。
 それ以外の何か、たとえば金銭欲や名誉欲や権力欲などによって生きているのではない。

 私たちは日ごろ、そういったものを満たすべくあくせくしている。
 しかし、そのようなものは私たちを本当には心満たさない。
 10億儲かったら100億へ、100億儲かったら1000億へ。
 このような際限のなさは、1000億が私たちの心を満たす何かではないことの証左だろう。
 また、その逆も同じことで、金銭という軸を中心に右に回るか左に回るかの違いでしかない。

 しかし、イエスが与えるパンを食べた者は、こういった世の基準軸から離れてしまう。
 「父によって生きる」という基準軸へと瞬時に移る。
 そして、御父と和解した私たちは、はじめて心満たされるのである。

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[一版]2020年 9月13日
[二版]2022年12月24日

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一回限りの正餐

 「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53-55)

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 イエスの肉を食らいイエスの血を飲むということ。
 この肉と血とは、イエスの十字架で裂かれた肉、流された血である。
 この十字架のイエスが私たちに会ってくださるときが来る。
 そのとき、私たちは「いのち」を与えられる。

 また、聖書の文字というのは、いつもは他の書物の文字となんら変わることがないが、「ことばは神」(ヨハネ1:1)というほかない時が来る。

 両者は異なる表現だが、どちらも同一の本質を指している。
 このようなことは、この一回限りである。
 一回出会いがあって赦されれば足りるからである。
 定例の儀式にはまた、別の目的がある。

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[一版]2017年 3月26日
[二版]2018年12月15日
[三版]2020年 9月 7日
[四版]2022年12月18日

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神によって教えられる

 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
 わたしはいのちのパンです。
 あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」(ヨハネ6:45-51)

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 イエスは言う。「またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」。
 イエスは「世のいのち」のために、自らの肉を与える。
 肉をまとった神がその肉をささげて、「世のいのち」に供する。

 どのようにして供するのか。それが十字架である。
 イエス自身が極刑を受け、この肉を処断された。
 そして御父はこのイエスを復活させ、肉そのものに赦しを与えられた。
 このイエスの道が人々を救う。
 私たちも、このイエスに続いて自身のアダムの肉を十字架で処断され、そして赦されて復活するのである。

 ここでいう赦しは、マナとは何の関係もない。
 今イエスは、パンを目当てに追ってきた群集を相手に話しているが、彼らが欲しいのは空腹を満たすマナであって、それはイエスが与えようとする「いのちのパン」とは全く異なる。
 だからイエスは、この群衆にこう仰る。
 「預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる。』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます」。
 群集はイエスのところに来たのではない。パンのありかを探しに来ただけだ。
 ところが、恵みによって「神によって教えられる」とき、気づくとその人はイエスの道に入れさせられている。

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[一版]2007年11月19日
[二版]2009年 1月 5日
[三版]2010年 3月22日
[四版]2010年12月30日
[五版]2014年 7月 7日
[六版]2017年 3月12日
[七版]2018年12月14日
[八版]2020年 9月 6日
[九版]2022年12月17日

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パンでは満たされないもの

 「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6:35-37)

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 マタイ伝の中で試練にあったイエスは、「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)と言っている。
 しかし、この物質主義の世はパンで満ちあふれ、人々は「いのちのパン」のことなど思いもしない。加えて、現代は情報もあふれかえっている。
 だが、パンという物質や情報によっては、人の魂が満ち足りるものではない。
 通勤電車では客同士の喧嘩が絶えず、しかもどんどんひどくなってきている。些細なことでも怒鳴り合っている。
 つまり、パンを求めれば求めるほどほど人は渇く。
 渇くことへの自覚がない人は、溜まったうっぷんが外に向かって他人に喧嘩をふっかける。
 しかし、これだけパンがあふれる中で自分の飢え乾きに気付いたなら、私たちはイエスのもとに行く狭き道へと吸い寄せられたのだ。イエスは「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)と祝福している。
 そしてイエスは私たちのもとを訪れ、私たちを決して捨てずに共にいてくださる。
 本来人が求めている満足感は、このイエスと共にある満足感であり、パンの満足にはない。

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[一版]2018年12月 9日
[二版]2020年 9月 5日
[三版]2022年12月10日

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救いについて

 「イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(ヨハネ6:35)

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 どんなに疲れていても、乾くことがない。
 よそから見てどんなにボロボロでも、その人の内はいつも満たされている。むしろ内側がボロボロなのは、よその人々の方だろう。
 死の間際にあっても、この満足感はいよいよ大きくなるのではないか。
 イエスの言う「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」というのは本当のことだ。

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しるしが分からない群衆は私たちも変わりがない

 「イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」
 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。」(ヨハネ6:26-30)

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 イエスのパンのしるしに預かってたらふく食った群衆が、「私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか」と抜かす。
 一見滑稽に見えるこの盲目の群衆の姿は、実は私たちの盲目さそのものである。つまり、私たちはしるしをしるしとして見えず、神を神として見えず、イエスをイエスとして見えない。
 イエスは「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言う。イエスが来られたのはこのいのちのパンを与えるためであり、与えられる人はその際にイエスをイエスと分かるのである。
 信仰は持つものではなく与えられるものであり、イエスの方から戸を叩いて訪れる。主権は神の側にあるのである。
 上の群衆はなくなる食物をイエスにすがっていたが、いのちのパンで満たされると自分で食物を得ることができるようになる。それがいのちだからだ。

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