神を信じるのかそれとも利用するのか

 「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」(出エジプト20:7)

---

 思うに、人はなぜ主の御名を唱えるのだろう。
 神は世界を造り人を造って、この世界を統御し、人の内面をもお分かりである。
 災害は人に神への畏れを生じさせ、悩み多いときには神に祈る。
 人が神の御名を唱えることは、ごく自然なことだ。

 では、御名を「みだりに」唱えるのはなぜなのか。
 これはパリサイ人を見ればよく分かることで、彼らは神の御名の下に好き放題やっていた。
 神を信じているというよりも、神の御名を利用していただけであった。
 そして、彼らの言動を非難したのが、神の子であるイエスでる。

 私たちも、時にこの過ちを犯す。
 たとえば、「主をなめるな」などと人に言う。
 これは昔自分が言われたことで、口をあんぐりと開けるほかなかったが、まあ、実際にこういう類のことをいう人はいる。「俺をなめるな」と言えばいいのに。
 これは、今でいうマウンティングに御名を利用する形になる。

 御名をみだりに唱えるというのは、神を利用しようということである。
 御父と人との関係が、もはや逆転してしまっている。
 だから、「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」のだろう。
 しかし、この御父は罰することをせず、それどころか人との本来の関係が回復することを願って、それで御子イエスを遣わした。
 このイエスの十字架と復活に預かった人は信仰に至り、神を利用しようという発想は元からなくなってしまう。

---

[一版]2019年 7月14日
[二版]2021年10月31日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

御父の怒りと救い

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:2-6)

---

 出エジプト記の十戒より。

 ここで御父はご自身を「ねたむ神」と自己紹介している。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というほどのものだ。
 他の神々があって「主」というところの御父もいるとすれば、私たちは何故ことさら御父に仕え御父を信じているのであろうか。
 それは、私が御父を選んだのではなく、御父が私を見いだしてくださったからだ。「奴隷の家から連れ出し」て下さったのである。
 そうすると、仮に私たちが他の神々に仕え他の神々を拝んだならば、このねたむ神にとっては裏切り行為に映るだろう。偶像を作ること自体、御父への裏切りなのである。

 では、現代に生きる私たちが、御父以外の他の神に仕えていたり偶像を拝んだりしているだろうか。結論から言うと、私たちはあらゆる神々に仕え、すべての偶像を拝んでいる。
 物質主義(マモニズム)全盛の現代では、まず、金銭をはじめとする物質が最上位の神である。
 そしてそのために、自己啓発というものがある。自分をごまかし、他人をごまかす。そして人々は、この自己啓発という卑なる聖書を教典とするようになった。
 組織の論理や法令こそ律法だ、という人々も多くいる。彼らは、組織の中のみならず、生活の場に帰ってすら彼らの律法を周囲に適用してはさばく。
 テレビを見れば、数多くの偶像を見ることができる。ちなみに、いわゆるスターが登場したのは、映画が普及した20世紀に入ってからのことだ。

 卑なる神、卑なる聖書、卑なる律法、卑なる偶像。これら人が生きることから遠ざけている卑なるものたち。
 近代合理主義のもとで、私たちはこういったものに仕え続けている。
 一方で、十戒をはじめとする私たちの律法は、とても簡単に守れるようなものではないのであり、そのことはイエスが山上の説教で言ったとおりである。
 ねたむ神は非なる神々に仕え続ける私たちを律法違反で罪深いとお怒りなのである。
 だが、律法に基づくこの怒りは、私たちの罪を白日の下にあぶりだすためのもので、むしろその人を生かすためのものなのだ。
 罪を罪と気付くことが救いのスタートラインであり、その先にはイエスの十字架と復活が待っている。

---

[一版]2018年 8月21日
[二版]2019年 7月 7日
[三版]2021年10月24日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『いのち』の触媒

 「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)

---

 ロマ書の「おこごと」より。
 ちなみに、「おこごと」を馬鹿にしているわけではない。
 なぜなら聖書のことばは、字面とは全く異なる意味で働くことがあるのだから。
 聖書の言葉とは、むしろ霊的なものなのである。

 さて、「昼間らしい、正しい生き方」とは、キリストから与えられた「いのち」の歩みのことを指す。
 であるから、この言葉を読んだだけでは、この「正しい生き方」を行うのは、知らないことをすることになり無理がある。
 ここでいう「正しい」とは神にとっての正しさであり、自分にとっての正しさでもないし、この世にとっての正しさでもない。
 だから、神が働いて「いのち」が与えられたならば、気付くとそういう生活が自然とできている、そういう類のものだろう。

 ところで、上の14節は、煩悶きわまったアウグスティヌスが、この言葉に触れて回心を果たした、そういうである。
 アウグスティヌスにとっては、ロマ13:14が「いのち」の触媒だった。
 この触媒が何かはその人その人によって全く異なり、予測のしようがない。
 聖書のこんな「おこごと」の箇所からでもアウグスティヌスは煩悶から解放されてよみがえるのだから、聖書の言葉はどれも正に霊的なのだ。

 アウグスティヌスのこの煩悶とは、極刑の十字架で古い自分に死にゆく苦しみである。
 そして、みことばという触媒によって新しくよみがえり、「いのち」のうちを歩みはじめる。
 死なせるのもキリストならば、新しく生かすのもキリストなのである。
 まさにこのとき、今まで読んでいた聖書が、全く異なるきらめきを放って迫ってくる。

---

[一版]2008年10月26日
[二版]2015年 8月 2日
[三版]2018年 1月 1日
[四版]2019年12月 5日
[五版]2021年10月17日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

復讐について

 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)

---

 有史以来ハンムラビ法典ほど優れた法律はないと、かねがね自分は思っている。
 「目には目を」。
 近代法は復讐や決闘を禁じるが、ハンムラビ法典はやられた限りにおいての復讐を認めている。
 被害を受けた者が復讐感情を持つのは自然なことなので、その自然の情を果たすことができるのであるから、何と素晴らしいことだろうか。

 そんなことを思う自分に対し、上の聖句は「自分で復讐してはいけません」とたしなめる。
 そこで私は、じゃあ先制攻撃ならいいじゃないかと悪知恵をめぐらす。
 先制攻撃は相手が構えていないところを襲い、相手がひるんだところをそのまま押し切れれば勝ちだ。単純な戦法なのだ。
 復讐心を抱え込むよりは遙かにいいではないか。攻撃は最大の防御とはよく言ったものだ。

 そう頭では考えるものの、気乗りはしない。
 今は特に復讐したい相手がいないこともあるが、それでも過去の何人かには復讐したい。だが、実際にやろうという気はまったく起きない。
 「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」というのが、聖書の文字面なのではなく、自分の内側に刻み込まれているからだと思う。自分を動かしているのは、頭の悪知恵ではなく内住の聖霊様なのだ。
 数年前、面と向かって馬鹿にされ続けたことがあったが、私は終始にこにこしていた。我ながら不思議だったが、これは肉の私とは異なる私がそうさせてくれたのだと思う。

 あのときの愚かで底の浅い彼らは今頃どうしているのだろうか。
 思うに、復讐心を引き起こすようなこと自体に対して神は制裁されるのではないだろうか。それで自分自身で「燃える炭火を積む」ことになるような気がする。
 そして何より、「わたしが報いをする」と仰ってくださる神は、復讐心に駆られた人が泥沼にはまることのないように制止して下さっているように思える。
 頭ではハンムラビ法典最高、先制攻撃最強と考えても、神が与えた復讐の禁止を心ではとても喜んでいる。

---

[一版]2019年12月 4日
[二版]2021年10月16日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

隠れキリシタンの幸い

 「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。」(ローマ11:15)

---

 私は隠れキリシタンを自認しているのであるから隠れてはいない時期もあったわけで、私の隠れたことは世界の和解を表面的にもたらしたはずだ。
 さて、上の聖句には「彼らの受け入れられること」とあるが、ここに言う「彼ら」とはそのような私や私のような人々のことである。その「彼ら」であるところの私は、そうであったことによって正に「受け入れられ」たのだ。
 なぜそう言えるだろうか。「死者の中から生き返ること」によってである。
 イエスが言うとおり賑やかな広小路には十字架はない。ふと迷い込んでどこだか分からないような狭い路地にこそ見出されるのである。
 隠れキリシタンはなりたくてなれるものではないが、隠れざるを得なくなったらそれはむしろ幸いなことなのである。

---

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

観念ではない信仰

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:8-10)

---

 信じるとはどのようなことなのだろう。
 それは観念的な確信ではない。
 私が教会にいたはるか昔、上のローマ10:10を引用して、口で告白したので自分は救われるという旨のことを言う人たちをよく見た。自分もそうだったと思う。
 しかし、ここで問われているのは、何を信じるかだろう。

 むしろ、信じるというよりは、イエスによって信じさせられるのである。
 そのとき、私たちはイエスの十字架での死とよみがえりをくぐりぬけさせられる。
 「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、」とあるが、これはその人の体験に依っている。

 1日に聖書を3章読むとか、暗唱聖句とか、こういう営みは、石ころの表面に金メッキをつけてゆくのと同じで、そのメッキの厚みをどれだけ増しても、石ころであることには変わりはない。傷を付ければ剥げてしまって地である石の面が見えてしまう。
 しかし、イエスによってねじ伏せられるかのようにして与えられる信仰はそうではなく、石ころが金そのものに変わるのである。よみがえったのである。

 「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」というのは、暗唱したものがいつでもすらすら出てくるというのではなく、自分自身がみことばの本質なのである。
 「口で告白して救われる」というよりも、石ころが金になったので、口にする内容が異なってくるのである。

---

[一版]2015年 7月26日
[二版]2019年12月 1日
[三版]2021年10月 9日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

『信じる』とは

 「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:8-10)

---

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」の箇所が一人歩きしがちな聖書箇所。
 では、「心に信じて義と認められ」にいう「信じる」とは、どういうことだろうか。

 数々のみことばを暗唱して諳んじることだろうか。
 そうすれば、たしかにみことばは「あなたの口」にあるかもしれない。
 しかし、もし旧新約聖書の全てを暗唱できても、それと救いとは別なのである。
 その人が救われたときには、ああ暗記したことはまるで意味がなかったと思うだろう。
 なぜなら、みことばは内側から湧き出て私たちはそのみことばを生きているからである。

 聖職者に信仰告白するのは、どうだろうか。
 十字架の前にひざまずいて、イエスこそわが主ですと言うことの証人になってもらうのだ。
 しかし、会ったこともないイエスが、何故その人の主人になりうるのだろうか。
 イエスが通り抜けた十字架の死とよみがえりを、その人も通り抜けたであろうか。
 その人が救われたときには、ああ今までは信じてなどいなかったのだと悟るだろう。
 なぜなら、この内側からほとばしる水は、観念的な理解それから形式などとは直接にはつながっていないのだ。

 信じた結果が救いなのだが、この信じるというのがとても難しい。
 頭でいくらこねくりまわしても、それは考えているのであって信じているのではない。
 そしてこの信仰というのは、あるかないかのどちらかしかないのである。
 イエスに出会うより前か、イエスに出会った後か。
 十字架の苦しみとよみがえりの喜びを体験したか。
 そして、救い主イエスに出会う際には、イエスを追いかけてとっつかまえるのではなく、イエスがその人の元を訪れて外から戸を叩くのである。
 主導権がどこまでも神の側にあるからで、信じるために私たちにできることはイエスの訪れを祈ることに尽きる。

---

[一版]2017年12月31日
[二版]2021年10月 3日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )