しあわせの中に住むたましい

 「主を恐れる人は、だれか。
  主はその人に選ぶべき道を教えられる。
  その人のたましいは、しあわせの中に住み、
  その子孫は地を受け継ごう。
  主はご自身を恐れる者と親しくされ、
  ご自身の契約を彼らにお知らせになる。
  私の目はいつも主に向かう。
  主が私の足を網から引き出してくださるから。」(詩25:12-15)

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 詩篇を読み進めてゆく中、「 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。」(詩22:26)に行き当たった。
 悩みにあるときには食が細り喉を通らないので、食べて満ち足りたときというのは悩みを通り抜けてうれしく、主を賛美する。
 しかし最近、こういう意味での悩みというのを表ではほとんど耳にしなくなった。
 ダイエットのような容姿の悩み、人よりも耳目を集めたい、そういう外形的な悩みとでもいうものにあふれている。

 ダビデによる上の詩には、「その人のたましいは、しあわせの中に住み」とある。
 言い換えると、幸福感の根拠は自分の内面にある。
 昨今のあのマウンティングのような、根拠のない相対的な優越感とは全く異なる。
 人と比べてどうだからといって、それだったら自分よりもすごいのが出てきたら打ちのめされるだけだろう。

 一方、「主を恐れる人」は、人と比べてはいない。主と自分との二者関係である。
 そして「主はその人に選ぶべき道を教えられる」。
 自分が主を畏れるのではなく、主を畏れる道へと否応なく導かれる。
 そのようにして主に導かれた悩む者は、やがて満ち足りる。

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経験と実感

 「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。
  人のそしり、民のさげすみです。
  私を見る者はみな、私をあざけります。
  彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
  「主に身を任せよ。
  彼が助け出したらよい。
  彼に救い出させよ。
  彼のお気に入りなのだから。」(詩22:6-8)

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 ダビデの賛歌。

 ここでダビデは打ちひしがれている。
 悪いときにはすべてを悪く捉えてしまうのは、自分もそうだし、誰しも同じなのだろう。
 「私は虫けらです」と自らを矮小化するのは、私たち個々人もしばしば陥る。
 それでこの詩に多くの人が共感をする。
 
 ところで、「彼のお気に入りなのだから」という一節は、十字架のイエスを嘲笑する祭司長たちを想像させる(マタイ27:41-43)。
 十字架にはりつけにされたこのときのイエスの身体的な痛みは、頭では想像できても実感としては分かりづらい。その経験がないからなので、仕方がない。
 では、このときイエスが味わう御父との断絶、この痛みはどうだろう。
 想像ならできる。だが実感が伴うであろうか。
 多くの人が共感できる、上の歌のようなものであるだろうか。

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主のさばきはまこと

 「主への恐れはきよく、
  とこしえまでも変わらない。
  主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩19:9)

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 私は長い間、主を恐れる(畏れる)ということがわからなかった。
 いったいなぜ、主を恐れるということがあるのだろうか。
 今はよく分かる。「主のさばきはまこと」なのだ。
 だからかつての私も、教会に行こうという思いが募って実際に通いだした。
 そのときの私は御父の存在自体を知らなかったが、まさに主を畏れざるをえなかった。
 翻って思うに、主のまことのさばきが下ることは、とてつもなく大きな恵みなのだろう。

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演技につかれて本来の自分がわからない

 「主よ。
  だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
  だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
  正しく歩み、義を行ない、
  心の中の真実を語る人。
  その人は、舌をもってそしらず、
  友人に悪を行なわず、
  隣人への非難を口にしない。
  神に捨てられた人を、その目はさげすみ、
  主を恐れる者を尊ぶ。
  損になっても、立てた誓いは変えない。
  金を貸しても利息を取らず、
  罪を犯さない人にそむいて、わいろを取らない。
  このように行なう人は、決してゆるがされない。」(詩15:1-5)

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 ダビデ王の賛歌。
 乱暴に言ってしまえばこんな奴いるかという内容であるし、ダビデ王にしてもこういう人がもしいたならなあという気持ちを歌ったのだろうと思う。
 なにしろ生きるということは戦いで、ダビデ王はその波乱万丈の戦いを生き抜いた人であった。
 もし、私こそこの詩で歌われているような人ですと言う人がいたら、その人は自分でも偽善者と気づかないほどの偽善者だ。
 偽善者というのは善を偽っているわけだから、意識してか無意識のうちにか、演技をしている。
 偽善者でもぶりっ子でも道化でも、どの言葉でもいいのだが、本来の自分を見失ってしまった人々だ。かつての自分も、人一倍そうだった。
 これは自分自身との戦いになり、とてもしんどい。
 イエスはこの詩に歌われたような偽善者をこそ救うために来てくださり、十字架と復活の御業を成し遂げてくださった。
 つまり、この人は、偽善者が死んで本来の自分がよみがえるのである。

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コミュ力万能!

 「主よ。お救いください。
  聖徒はあとを絶ち、
  誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
  人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。
  主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
  ことごとく断ち切ってくださいますように。
  彼らはこう言うのです。
 「われらはこの舌で勝つことができる。
  われらのくちびるはわれらのものだ。
  だれが、われらの支配者なのか。」(詩12:1-4)

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 随分久しぶりに詩編に接する日々が続いているが、上の「われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。」に接して、思わず苦笑してしまった。
 昔も今も変わらないというべきか、このコミュ力万能の時代を預言!したものというべきか。
 そのくせ彼らは、実務的なことは何もできない。
 昨年度、職場の新人がうわべばかりでまったく何もできないことには振り回された。
 今のこのコロナ禍で、総理もまたコミュ力のうわべだけなことが明らかになった。リーダー不在の中で国や地方はスタックしてしまっている。
 こういった彼らが何に勝ちたいのかはよくわからないが、勝ちたいというのであれば勝者は一人だけなのだから確率的に勝ち目のない戦いをしていることになる。私は彼らを愚かしいと思っている。
 人間にはさまざまな欠けが多く、「だれが、われらの支配者なのか」というところの御父を見出すことが、どうしても必要なのだろう。
 もしかすると、そのためのコロナ禍なのかもしれない。

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・政治のことは書かないことにしているのですが、今回は分かりやすいので書くことにしました。今回のことでは総理を責めるのは酷で、2012年に施行された新型インフル特措法のあまりの出来の悪さが非常に大きいと思っています。

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強者

 「彼は心の中で言う。
 「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」
  彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、
  彼の舌の裏には害毒と悪意がある。
  彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、
  隠れた所で、罪のない人を殺す。
  彼の目は不幸な人をねらっている。
  彼は茂みの中の獅子のように
  隠れ場で待ち伏せている。
  彼は悩む人を捕えようと待ち伏せる。
  悩む人を、その網にかけて捕えてしまう。
  不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、
  倒れる。
  彼は心の中で言う。
 「神は忘れている。顔を隠している。
  彼は決して見はしないのだ。」(詩10:6-11)

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 この詩の作者による強者像、イメージ。

「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない」、彼らは本当にそう思っている。
 詳しくは書けないが、代々に渡って濃縮されて、もうどうしようもないのがたまにいる。
 苦労知らずなものだから、他人の苦しみ悲しみも知ったことではない。
 辛い思いをした者だけが人の辛さをわかることができるということは、彼らを見ていると納得がいく。
 そして不幸な人は「強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる」。
 大体はこうであり、強きを助け弱きをくじくようになっている。もう、うんざりする。
 しかし、そうではない真の強者が現れたのだ。
 ナザレのイエスこそ、その人であった。

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無頼派

 「悪者どもは、よみに帰って行く。
  神を忘れたあらゆる国々も。
  貧しい者は決して忘れられない。
  悩む者の望みは、いつまでもなくならない。

  主よ。立ち上がってください。
  人間が勝ち誇らないために。
  国々が御前で、さばかれるために。
  主よ。彼らに恐れを起こさせてください。
  おのれが、ただ、人間にすぎないことを、
  国々に思い知らせてください。」(詩9:17-20)

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 「人間が勝ち誇らないために」、「ただ、人間にすぎないことを」。
 神を知らない人というのがある。
 己を頼り他人に目が向かない。他人をどう利用しようかとばかり考えている。
 神にも何にも頼らない無頼派といえばいいのだろうか。

 私は弱い者ではあるが、神と共にあることの満足感がある。
 ただ、いかんせん本当に弱いので、この世では彼ら勝ち誇った無頼派には到底叶わない。
 しかし彼ら無頼派はいったい何がどれだけあれば満足できるのだろう。ありもしないものをただ追い続けているだけなのではないか。
 人が「ただ、人間にすぎない」と分かるためには、神を知る機会が必要なのだろう。

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人知を超えたさばき

 「しかし、主はとこしえに御座に着き、
  さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
  主は義によって世界をさばき、
  公正をもって国民にさばきを行なわれる。
  主はしいたげられた者のとりで、
  苦しみのときのとりで。

  御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
  主よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
  お見捨てになりませんでした。」(詩9:7-10)

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 この詩はダビデによるものと記されている。
 王になってからのものか、それより前のものかは、よくわからない。
 というのは、さばきは王が行うだろうから、自分のさばきが恣意的で不公正だなどとは歌うことはないだろう。

 ここでダビデが行間ににじませているように、さばきというのはこういうもので、日本中の誰もが知っている名前を出すなら元工業技術院院長の飯塚氏を警察や検察はどのような丁重さ(!)で扱ったであろうか。

 しかし、「主はしいたげられた者のとりで、苦しみのときのとりで」であった。
 御父の義は変わることのない絶対的な大義である。
 そして、人はこの御父が造られたのであるから、この御父の大義はどの人も多かれ少なかれ持っている。たとえば人をあやめてはいけないなど。
 だから私たちは大義である御父により頼む。この御父が人知を超えたさばきを人知を超えた形でしてくださる。

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心と思いを調べる神

 「主は諸国の民をさばかれる。
 主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、
 私を弁護してください。
 どうか、悪者の悪があとを絶ち、
 あなたが正しい者を堅く立てられますように。
 正しい神は、心と思いを調べられます。」(詩7:8-9)

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 私には、こいつぶん殴ってやろうかとか、蹴飛ばしたろか、嫌がらせしてやるなどと思い浮かぶことが職場でよくある。
 職場なのだからこういう思いが湧くのは当たり前で、少し前に、イタリアの修道院でうつ病になってしまったシスターの話を聞いたが、畢竟職場とはそういうところだ。
 ただ、ぶん殴ってやるとは思っても、ぶん殴ったことは一度もない。
 ぶん殴ることが悪いことだからではない。傷害罪に当たるからでも懲戒免職になるからでもない。
 ぶん殴った直後から激しい後悔の念に襲われることが明らかだからである。
 つまり、いやな思いをしているのだが、最高にいやな思いはしたくなくて、それで殴らないだけであり、情けないといえば情けないのかもしれない。

 「正しい神は、心と思いを調べられます」、私に激しい後悔を予感させるのは、この御父のご性質なのは間違いない。
 しかし人をぶん殴っても何とも思わない人は少なくない。日々の通勤電車の中でもたまにあると同僚から聞いた。思い出したが自分も2回ある。いずれもあっけにとられるばかりだったが、彼らには神はおらず従って義もない。
 どちらの方がいいだろうか。
 内心を調べる御父をあがめて満足できる生き方と、それと、自分にとって他人に勝つが誰もそうとは思っていないあのマウント取りという不可思議な優越感に浸る生き方と。

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人知そして人知を超えたもの

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。
  激しい憤りで私を懲らしめないでください。
  主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。
  主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。
  私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。」(詩6:1-3)

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 私が日々通勤する路線は、外国人観光客で溢れていた。
 彼らの旅行鞄はどれもあまりに大きく、電車内での移動が大変だった。
 こんなところですら客で溢れているなら、京都の混乱はどれだけのものだっただろう。
 オーバーツーリズムという言葉もできた。バルセロナやベネチアなどは、住民の倍以上も客がやってきて生活が成り立たないと聞いた。
 私はしばしば思った。彼らはいったいどこからやってきて、これは一体どこまでも増えるのだろうか。

 その彼らは、このコロナウイルス禍のためすっかり姿を消してしまった。
 どこまで増えるのだろうと思っていたら、ウイルスのためいなくなった。
 このことを近代お得意の合理性の範疇で捉えるのは、とても難しい。
 人の移動の急増とウイルスの発生や蔓延が、いったいどのように結びつくのだろう。

 近代人が葬り去った非合理なものを、私たちはとてもよく知っている。
 激しい怒りで私たちを懲らしめる御父のことである。
 近代合理性は、やがてはワクチンや治療薬を発明するだろう。
 しかし今は、人知を超えたものを畏れて「いつまでですか。あなたは。」と祈り続けよう。

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