持たざる者が持てる者に変わる

 「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。」(マタイ25:29)

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 上の「だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、…」には、述語がない。
 何を持つ(あるいは持たない)ことを言っているのだろうか。

 持っている者には好循環が起こっている。
 述語をカネと仮定してみれば、このことは分かりがいい。
 多額のカネを運用すれば、リターンもでかい。
 でかくなったより多額のカネを運用すれば、そのリターンはもっとでかい。その好循環である。
 述語を今度は「いのち」とすれば、「いのち」ある者は、救いの喜びゆえにますます喜びが大きくなってゆく。好循環が起こるのである。
 それに対して、この好循環のない者は、どんどんすり減ってゆく。
 あたかもデフレ経済のようで、じり貧になる。

 ソロモン王は、この点において偉大なる反面教師である。
 物質的なものばかり追いかけているうちに、唯一の大切なものを完全に見失ってしまった。
 物質的には好循環を起こすことができたものの、伝道者の書(コヘレトの手紙)で切々と訴える虚無感、虚しさからは、「いのち」を持たない者が陥った究極のじり貧を読み取ることができる。
 イエスも「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)と言っている。

 では、「いのち」のこのじり貧状態から脱する方法はあるのだろうか。
 そのためには、私たちはまず、自分の魂がじり貧であると自覚する必要がある。
 何によって自覚できるのだろうか。神の律法によってである。
 自分の肉がいかに罪深いものであるか、この気づきがスタートラインになる。
 求める者には恵みによってイエスが出会ってくださり、罪赦されて「いのち」が与えられる。
 このときに、持たざる者が持てる者に変わるのである。一瞬にして、くるりと変わる。

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[一版]2016年10月10日
[二版]2018年 7月16日
[三版]2022年 8月27日

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愚かな娘は花婿より油切れの方が気になってしまう

 「ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
  しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」(マタイ25:6-13)

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 約束通り、ついに花婿が来た!
 賢い娘は花嫁を迎える準備が出来ていた。しかし、愚かな娘は出来ていなかった。それも全くできていなかった。
 この愚かな娘らは祝宴に入れてもらえず、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と宣告されてしまう。

 復活のキリスト・イエスは、「いのち」というプレゼントを携えて私たちのもとにおいで下さる。 ただ、いつ来られるのかが分からない。
 愚かな娘たちは、買い出しになど行ってしまった。
 何が大切なことなのかが分からなかったのだ。
 待ち続けることが大切なのか、ともしびという形式が欠けることが大切なのか。
 ともしびが消えていても、イエスが来たときに花嫁がそこにいること、これがただ一つ大切なことではないか。

 罪の赦しに飢え乾いている私たちは、恵みを待ち続けること、待ち続ける忍耐がもっぱら求められる。

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[一版]2010年 9月 4日
[二版]2013年12月29日
[三版]2016年10月 9日
[四版]2018年 7月14日
[五版]2022年 8月21日

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偽善者について

 「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)

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 主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。
 「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人にばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。
 悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。

 では、この偽善者とはどういう存在だろうか。
 ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろうか。
 ところが、表と裏であれ、建前と本音であれ、これら両面は本質的には同じだ。
 それは「抜け目なくやってやる」ということで、建前と本音を器用に使い分ける。嘘も平気だ。
 我らがパリサイ人もそうであったし、近代資本主義下のこの競争社会でも数多い。
 したたかといえばしたたかなのだが、一方で彼らは自分の内面を見つめるということがないのではないか、どうもそのような気がする。自分の内面を見ることはそら恐ろしいことと思っている人を何人か知っている。
 そして自分の内面を見つめることがないのであれば、他者の気持ちを分かろうとする回路もまたないだろう。

 だから、彼ら偽善者は意図して、または意図せずに、人々に害悪を及ぼす。
 悪についての自覚そのものがないのだから、先の悪いしもべよりもなおさらたちが悪い。
 上の聖書箇所には「その報いを偽善者たちと同じにする」と書かれているが、偽善者についてはいうまでもないことだ、というニュアンスの突き放し方だ。
 そして実をいえば、この偽善者とは、かつての自分のことだ。
 人の気持ちなんてまるで分からなかったし、考えもしなかった。平気で人を傷つけていた。
 こんな自分であっても、御父は忍耐強く待ち続けていてくださったのだ、これを神のあわれみと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
 主人が帰ってくるまでの間に、あとの者が先になる(マタイ20:16)喜びが数多くあるに違いない。

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[一版]2018年 7月 8日
[二版]2022年 8月20日

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御父とのつながりつづけることがこの時代の忍耐

 「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。
 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:8-13)

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 イエスの語る黙示はわかりやすい分、より恐ろしい。
 わかりやすいも何も、これは今のことなのではないかと自分は思う。
 本音が包み隠さず堂々とまかり通り、一方で、空々しいほどのきれい事がいくつも流布している。
 去年2021年の7月に有料になったレジ袋には、今やバーコードが印刷されている。「レジ袋いかがですか1枚5円です」とのポスターが店内に貼られている。
 導入当初よりこんなのは小売流通業の利益率向上のためとしか思っていなかった自分も、1年を経て建前をあっさりかなぐり捨てて本音むき出しになろうとはと思うところが大きい。
 他にも書きたいことは山ほどあるのだが、上の聖句に話を戻すと、イエスは「最後まで耐え忍ぶ」ことを言う。
 不法がはびこり愛がひからびるこの時代に抗うことは、到底できない。
 では生き残るためには、自分も不法を為し人を人とも思わずに接すればいいのだろうか。
 信仰を与えられた者にとってはその必要はない。御子イエスを介した御父とのつながりという確かなものがあるからで、この、もっとも丈夫で確かで必要なものが自分にはある。
 だから、この時代に抗ったり同じようにしたりすることなく、この御父とのつながりという軸を大切にすることこそ、イエスのいう「最後まで耐え忍ぶ」ことになると思う。
 もしも弱い肉が時代に抗ってしまうとこの軸から外れてしまうのであるが、御父がその人をお離しにはならないような気がする。
 なお、上に書いたレジ袋受難がイエスの語る黙示の内に入らないならその方がいいことは言うまでもない。

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外側の行いから変わるのではなく内側の聖霊に動かされる

 「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません。
 目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。
 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。
 目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ23:23-26)

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 律法を表向き守ることは、比較的簡単だ。
 たとえば、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)を形式的に守り、また、守っているように他の人に思わせる人は多くいる。
 しかしここでは人の心の内面が問われており、それをご存じなのは御父だけになってくる。
 この御父に適うべく守ろうとすれば、誰一人守ることはできないだろう。

 イエスは「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」と言う。
 人の内面などたやすく変わるものではないが、イエスが世に来たのはこれを為すためである。
 十字架の死と復活というイエスが整えた狭き道を恵みによって歩んだ者には神が和解してくださり内住の聖霊を住まわしてくださる。
 そうすると、この人は聖霊に動かされるようになり、正義、あわれみ、誠実が内側から湧いて出てくる。
 このように内側から外側が変わるのであり、このことはイエスの言うとおりなのである。

 では、律法によって外側から変えようとすることに意味はないかというと大いにある。
 律法を守り行うことがどうにもできないと分かったとき、その人は自分の内に罪を見出すのである。
 そして、この罪から逃れたくてイエスを追い求める。
 律法が養育係であるゆえんである(ガラテヤ3:24)。

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自分を高くする者は低くされ

 「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」(マタイ23:12)

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 若い頃の私は、何一つできないくせにプライドだけは三人前だった。
 周り中からさまざまな形で叩かれた。
 しかし、こんな自分をくじいたのは、実は御父だったのだ。
 くじかれた自分は、イエスを介した和解を経て、こんどは御父が支えてくださるようになった。

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[一版]2018年 6月23日
[二版]2022年 8月 7日

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戒めを守ろうとして守れず苦しむ人の幸い

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:36-40)

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 神の完全な秩序は、律法という形で明文化されている。
 人はすべて、こうでなくてはならない。そのとき彼は、義人である。

 数多い律法の中で、大切なものとしてイエスは2つを挙げる。
 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。
 「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。
 律法は、この2つに収斂する。神を愛し、人を愛せよ。

 だがどうだろう、愛するとはどうすることであろう。
 私たちのやっていることは、実は、独りよがりなお節介にすぎず、愛とは違う何かではないだろうか。
 もうしそうであるなら、愛するつもりが嫌がらせをしていることになってしまうかもしれない。
 神を愛し人を愛せよというこの律法は、常に求められているのであるから、このように神を愛せもせず人を愛せもしない私たちは、神の御前に罪人なのであり、不義なる存在なのである。

 全ての人が罪人であり、意識、無意識とを問わず、救済を求めている。
 自分が罪人であるという神からの責めがわかって身もだえして苦しむようになれば、私たちは救いのスタートラインから第一歩を踏み出したのである。その先にはイエスの身代わりの十字架とよみがえりがあるからである。
 だから、イエスが挙げた2つの律法に、全てが掛かっている。

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[一版]2016年 9月11日
[二版]2022年 8月 6日

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