平安があなたがたにあるように

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:19-21)

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 私もかつては恐れのあまり戸を閉めきりにしてしきりに不安がっていた。
 ここで復活のイエスは「平安があなたがたにあるように」と言う。この平安というのは、私の根っこの部分についてのことで、イエスと共にあるということが、観念的な理解ではなく、実際にそうなのである。
 言い換えると、私のアイデンティティーはイエスと共にある者ということにあり、もはや私は孤児ではない。これが平安ということなのだろうと思う。
 これを書いている日曜、朝の6時台から工事の音がうるさくていらいらするのだが、このいらいらは表層的なところのもので、イエスと共にあるということを揺るがす何かではない。この根っこの部分は、多分、何者によっても揺るがされないだろうと思う。

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マリアがイエスの「マリヤ」という声を聴くとき

 「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
 彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
 彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。」(ヨハネ20:11-16)

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 マグダラのマリヤは、誰もいない墓で泣き続ける。
 そこに復活のイエスが現れるのだが、マリヤには誰か分からず園の管理人だろうかと思っている。
 復活のイエスは人間の肉を既に十字架で脱ぎ捨てた。だから、マグダラのマリヤがイエスをイエスと分からなくとも、無理からぬ事なのかもしれない。
 だがイエスが「マリヤ」と声を掛けた途端、マリヤははっと分かってイエスと知る。

 このことは、信仰へと至る過程に重なる。
 復活のイエスはここにいるのにもかかわらず、私たちはあちらに向かって祈ったり、向こうで善行を行ったりしている。
 だが、あるとき、マリアがイエスの「マリヤ」という声を聴いたのと同じように、聖書のどれかのことばがぱっと自分の内側に入ってくるということがある。
 その時、その人は復活のイエスに出会ったのである。
 そしてマリヤと同様、その人はイエスに「ラボニ」と仰いで信仰に至る。

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[一版]2008年 5月13日
[二版]2011年 6月 7日
[三版]2019年 6月 9日
[四版]2021年 5月 5日
[五版]2023年 7月27日

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わたしは渇く

 「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(ヨハネ19:28-30)

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 イエスは人々にこう呼びかけ続けた。
 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)
 渇ききっている人々に呼びかけ続け、枯れない水が内からわき出ることを約束した。

 その満ち満ちたイエスが十字架の上でこう言った。
 「わたしは渇く」。
 イエスのこころが乾いたのだ。
 それは人々のこころの飢え乾きと全く同じものだろう。

 今、神が死のうとしている。
 アダムの肉をまとった神が、死に往こうとしている。
 それは、このアダムの肉そのものを処罰するためだ(ローマ8:3)。
 その処罰が「完了」して、肉としてのイエスは死ぬ。
 そしてイエスの復活は、アダムの肉を処罰してもよみがえるということの初穂である。
 この処罰と復活とが、人を救い渇きをいやす。

 復活のイエスは、人々の渇きを実体験した上で、今も「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と呼びかけ続けている。

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[1版]2007年12月 6日
[2版]2008年 2月28日
[3版]2009年 7月 5日
[4版]2014年12月28日
[5版]2019年 6月 2日
[6版]2021年 5月 4日
[7版]2023年 7月23日

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イエスご自身が十字架を背負う

 「そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
 彼らはイエスを受け取った。そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所(ヘブル語でゴルゴタと言われる)に出て行かれた。」(ヨハネ19:16-17)

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 かつてイエスは弟子たちに、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:38-39)と言っているが、今はイエスご自身がイエスの十字架を負っている。自分がそれによって極刑に処せられる道具をである。
 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」、すなわち復活するには、このような過程が含まれている。とてつもなくつらいが逃れることはできず、受け入れるほかない。
 しかし、この「自分の十字架」は、自分で背負おうとして背負うものではなく、気づくと背負わされているものなのである。そしてイエスは今、この救いの道を切り拓くさなかにある。
 だから、イエスご自身が十字架を負ってゴルゴダに行くというのは、多くの人にとって、他人事ではなく自分ごとでなのである。

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『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』

 「こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。」(ヨハネ19:12-16)

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 教会に通っていた頃、その教会の執事の方が、使徒信条の中でピラトが悪者扱いになっているのがずっと分からなかったが、最近それが分かるようになったと言っていた。
 大企業の管理職をしていたこの方を私は尊敬していたが、この話は違和感を覚えた。
 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け十字架につけられ」と使徒信条にはあるが、ピラトはローマ法の上での罪をイエスには見出さなかったし、イエスの釈放に尽力すらしている。
 むしろ、祭司長たちの声のあまりの大きさに為す術がなくなってしまったように私は思っていた。
 だが当時私が分からなかったのは、私がまだ若かったからだ。
 使徒信条は、事の顛末をピラト一人におっ被せている訳で、こういうことはこんにちも日本中で世界中でざらに行われていることだから、大変な立場にいた執事の方は使徒信条でのピラトの扱いを身に染みていたのではないかと思う。これが世というもので、世慣れない私でもとてもうんざりする。

 しかしイエスはこの十字架でこの世に打ち勝ったのだ。世を超えたとも言えるかも知れない。
 私たちは世にいながら国籍は天にあり、世にはない本当の満足感をよく分かっている。
 私たちをお造りになった御父との和解は素晴らしく、そしてこの和解は十字架と復活のイエスの取りなしによる。そのためにイエスは正に今十字架に架かろうとしている。
 だからイエスは被害者なのではなく開拓者なのである。

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[一版]2021年 5月 3日
[二版]2023年 7月16日

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神の御名を冒涜するのは誰か

 「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。」(ヨハネ19:5-8)

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 祭司長たちとポンテオ・ピラトとの駆け引き。

 祭司長たちは言う。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります」。
 ここでいう律法とは、「主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。」(レビ24:17)を指している(新改訳聖書の注釈より)。
 つまり、イエスは神の子を自称して神の御名を冒涜したから、律法に従うと最高刑の石打ちの刑になるのだという主張である。
 だったら常日頃からイエスは石打ちの刑に当たると糾弾し続けていたならいいものを、それは群衆が怖い。イエスは病をいやし人をよみがえらせて、圧倒的な支持を集めているのだ。
 人々がイエスに向けば向くほど、自分たちに従う人がいなくなってしまう。
 それでイエスを亡き者としたい。
 「神の子」を自称することが律法違反というのは、そのための口実にすぎない。
 常日ごろより人々に律法違反を振りかざす彼らにとって、律法など単なる建前でしかないのだ。
 祭司長たちこそ神など敬っておらず、聖なる御名を冒涜し続けているではないか。

 なんのために聖書に接するのかは、どの時代においても常に問われるだろう。
 救われたいからか、支配したいからか。神との和解のためか、利権のためか。
 律法は、自分の罪深さに気付くためのテコであり、気付いてはじめて救われたいと願うものである。
 この祭司長達は、果たして自身の罪深さに気付いていただろうか。

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[一版]2008年 5月 9日
[二版]2019年 5月19日
[三版]2021年 5月 1日
[四版]2023年 7月 9日

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からかわれるイエスをおいたわしやと遠目で見ているうちに

 「そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。
 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。」(ヨハネ19:1-3)

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 イエスは異邦人にからかわれ平手で打たれる。
 異邦人ということについては、少し前の聖書箇所に「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。………。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。」(ヨハネ18:28)とあるとおりであり、また、この兵士たちは明らかに下級の兵士であるから、イエスは下のそのまた下から辱めを受けている。

 このことをお気の毒にとかおいたわしやと客観視することは簡単だ。
 しかし、正にこのことが私たちを追いかけてくるのである。客観視どころか受難を受ける当人になる。
 そして、このことこそ、私たちが狭きイエスの道を歩んでいるということである。
 汚れを受けないように振る舞うパリサイ人たちは、だだっ広い道を歩き続けるだけで、この狭い道に導かれることがない。

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天の王国、世の王国

 「そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
 彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。」(ヨハネ18:37-38)

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 総督ピラトのイエスへの尋問。

 「それでは、あなたは王なのですか」というピラトの尋問は、イエスがローマ法に照らして有罪(guilty)か無罪(not guilty)かを問うものである。
 つまり、イエスがカイザルに対する反逆罪に当たるかどうかを調べている。
 これは、これからイエスが成し遂げようとする肉の罪(sin)の赦しとは全く異なる。
 この世の権力者ピラトはこの違いが分からないので、「真理とは何ですか」とイエスに問う。

 このイエスとピラトとのすれ違いは、突き詰めると、天の者と世の者とは分かり合うことができないことなのかもしれない。
 天の王国と世の王国とは異なるのだ。
 しかし私たちは、この世の王国で労苦しながらも国籍は天にある。
 神の子の十字架と復活が、私たちに罪(sin)の赦しと御父との和解をもたらしてくれたので、私たちはイエスを介して御父とつながっているからである。

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[一版]2008年 5月 3日
[二版]2011年 5月28日
[三版]2021年 4月29日
[四版]2023年 7月 1日

 健やかな一日をお祈りします!

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