大借金

 「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。
 あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」(マタイ18:32-35)

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 一万タラントの借金を主人から赦してもらったしもべのたとえ話。

 今の私には、心底憎くて殺してやりたい、そんな奴がごろごろいる。
 誰が許してなんかやるものか。
 もし誰かが、私は全ての人を心から赦しているなどと言ったとしたら、私はそいつのことを、この大嘘つきの偽善者め、と激しく罵るだろう。

 私にしてもこの偽善者にしても、主人に大借金があるということでは同じである。
 その大借金とは、兄弟を赦すことのできない、この不自由なアダムの肉のことである。
 心から兄弟を赦す、というのは、神の律法であり、アダムの肉はその律法を完全に守ることがどうしてもできない。
 大借金を返しようがなく、私たちは神の責めの下でうめくほかない。

 この神と和解することが借金を返済することであり、その道筋はイエス・キリストの十字架と復活によって切り開かれた。
 言い換えると、私たちはイエスと共に極刑に処せられて死に、そしてイエスと共によみがえるのである。
 イエスを介して御父から義と認められ、途方もない借金をチャラにしていただける。
 そこには、御父との平和がある。

 上に偽善者と書いたが、あの「金持ちの青年」もそうだ。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)。
 私はこのような人たちを偽善者と罵るが、しかし否定などしない。
 守っているつもりが実は全く守れてなどいなかった、このことが腑に落ちたときに救いが始まるからである。

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99匹と1匹

 「あなたがたは、この小さい者たちを、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイ18:10,12-17)

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 イエスと弟子との問答(18:1)。

 異邦人は汚らしいし、取税人も汚らしい。
 ところが、イエスは取税人マタイやレビを召す。ちなみに、そのことを書き記したのもまた、取税人マタイである(参/マタイ10:3)
 彼らは、99匹の側ではなく、1匹の側だった。
 この1匹は、99匹から見下げられ続け、憔悴し切っている。
 イエスは弟子に、あなたがたまでがその1匹をしいたげるなと、ここでそう言っている。
 イエスが救おうとするのは、この1匹だからである。この1匹は、救いを求めている。
 99匹には、自覚がない。自覚がないから救いが求められていない。
 だが、その99匹の中からやがて1匹が迷い出ることがままあり、そのときイエスは、その1匹に手を差し伸べるに違いない。

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子どものように

 「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

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 そこにいた子どもに材を取って天の御国をたとえるイエス。

 天の御国に入るのにどうしても必要なことは、悔い改めることだ。
 肉の罪を律法によって指摘されて自覚し、その罪を悔いる。
 ところが、この罪を悔い改めることが、自力ではどうしてもできない。
 罪の肉が罪の肉をどうこうすることが、できないのだ。
 そこで、外からの力がどうしても必要になる。
 その外からの力が、イエスの道であり、極刑としての十字架なのである。
 私たちの肉はイエスの十字架とともにはりつけになって、処分され、そしてイエス同様復活する。

 そのように悔い改まって肉が処理されると、当たり前のようだが、処理された肉は弱くなる。
 子どもは自分を低くしようと思ってそうしているのではない。
 そもそもが無力なのだ。
 それと同様、この肉は処分され復活して、子どものように無力になる。できていたことまでできなくなる。
 そのように、生まれ変わって無力になることによってのみ、天の御国に入れるのだとイエスはいう。

 子どものようになれ、というより、悔い改めたときにはおのずとそうなってゆく。

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[一版]2012年 5月 6日
[二版]2013年12月 1日
[三版]2016年 6月 1日(本日)

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