悩みを抱えて夜にイエスを訪れる者

 「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」
 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:1-3)

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 指導者ニコデモは、夜にイエスのもとを訪れる。
 夜、というのは、誰かに見つからないようにというのもあるだろう。しかし、この後に続くイエスとのやりとりを見るとニコデモは明らかに気弱で、深い悩みを抱えていたのではないかと思う。夜は悩みが募るのかもしれない。
 ニコデモの相談というのは、一言でまとめてしまうと神を見失ったというものだ。それに対してイエスは「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とストレートに返す。実際そのとおりであり、新しく生まれる以外にはない。
 では、新しく生まれるとはどういうことなのだろうか。イエスとニコデモのやりとりは続いてゆく。

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人の土台

 「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」(ヨハネ2:23-25)

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 信じるということは、外形的なしるし、信じるに足るものを見たので信じるというのとは違う。
 こういうものは、観察して因果関係が認められたから、あるいは、実験データからこういうことが言えるといった近代自然科学のやり方と変わることがない。これは認識であって信仰ではないのである。
 そうではなく、信仰は内側に宿る。
 イエスの十字架の死と復活を通して御父と和解し罪赦され、聖霊が内住されると、私たちのうちにあるさまざまなもの、例えば憎しみ、怒り、それから楽しみ、喜び、悲しみ、こういうものがないまぜになった内面はそのままに、私たちは内住の聖霊に支えられ、動かされる。
 この、人の土台というか芯というか、これが人にはないことをイエスは予め分かっていたため、救いのために世に来られたのである。

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宮清め

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす。」と書いてあるのを思い起こした。
 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」
 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。
 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」
」(ヨハネ2:13-20)

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 神殿は、もはや神殿というよりも「商売の家」に堕していた。
 「牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たち」というのはどちらも、捧げものを神殿で融通できるようにした商人たちのこと。
 宮参りに来る人が遠くから牛を引っ張ってくるのは確かに難儀だろうから、参拝の人々にしても両替人がコンビニエントな存在というのは確かなことだ。
 この聖書箇所には書いていないが、この商人たちは売り上げの一部や場所代その他もろもろを支配階級であるサドカイ人に納め、その見返りに神殿内でのこの独占的な商いを許可してもらっていたことだろう。
 なんのことはない、現代の日本や世界でごくありふれている利権構造にすぎない。
 問題なのは、このような利権構造が神殿という聖なる場でまかり通っていることであり、それでイエスは怒った。
 「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
 そして、この神殿を壊して本当の神殿を建てる、それも三日で建てると約束する。
 この本当の神殿とは、復活のいのちにあずかった私たち自身のことである。
 このとき、この本当の神殿は私たちの内側にあり、ここには誰かの利権の入り込む余地もないし、私たちは絶えず礼拝している。
 「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:33)
 この預言がイエスによってまさに私たちに成就する。
 成就して本当の神殿が建てられるためには、まずは今までのだめな神殿が壊れなくてはならない。
 三日で済むが自分だけでは到底できないことなのだ。

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[一版]2014年 5月18日
[二版]2017年 1月 3日
[三版]2018年10月 8日
[四版]2020年 6月27日
[五版]2022年10月23日

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救いによって何が大切なのかが根底から変わる

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:13-16)

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 イエスに救われて、気づくと物欲がなくなっていた。
 かつては分不相応な高級車を乗り回していた。それを買うために残業代を膨大に稼いでそれから倹約も随分した。それにしても、残業代で購入する高級車とは、ない見栄を張ることに他ならないのだが、当時はそんなことにも気づかない。
 多くの人と同じく、当時の私もカネという中心軸の周りで動いていた。
 カネを稼ぐか倹約するか、いずれにせよ、カネという軸を右に回るか左に回るかの違いだけで、中心軸がカネであることには変わりがない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、御父の世界では中心軸はカネではないからだ。イエスは上の聖書箇所で、宮の中心軸すらカネになってしまっていることに怒りを隠さない。
 イエスの十字架と復活を通り抜けて御父と和解すると、カネではない中心軸、御父の中心軸へと瞬時にして移行する。平たく言うと、何が大切なのかが根底から変わるのである。イエスも「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言っている。
 中心軸がカネだけであるマモニズム全盛のこの世では御国への道は見えづらい。しかし光はやみに打ち勝たなかったのであり、恵みに預かる者も少なくない。

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聖霊のバステスマ

 「またヨハネは証言して言った。「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。
 私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテスマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』
 私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:32-33)

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 もう随分と前、私も水のバステスマを授かったことがある。
 水が浅く張ってあるバスタブに入った私を、牧師は全身沈めてすぐ引き上げる。
 これは死と復活を象徴するものであって、この水のバステスマとは型であり予兆なのだという理解を私はしている。
 しかし、ヨハネの後に来たイエスは、型としてのバステスマではなく、聖霊による本物のバステスマを授ける。
 この聖霊によるバステスマとは、象徴などではない死と復活に至らせるもので、復活した私たちに「いのち」をもたらすものだ。イエスの十字架、復活と変わるところはない。

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イエスによって御父が示される

 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネ1:18新共同訳)

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 イエスの公生涯のさなか、実に様々な人がこのイエスと係わった。
 多くの人々をあわれみ、給食の奇跡を起こし、病人をいやし、死者ラザロを生き返らせた。
 それはなぜだろう。多くの人々に御父の本質を示すためである。奇跡やいやしそのものが目的なのではない。
 だが、イエスによって示された御父を信じようとする人は稀であった。パンで腹を満たした人々は満足すると解散してしまった。
 それでもイエスが示した御父を信じようとする人には、イエスのわざであるところの十字架と復活を通して恵みに預かった。
 イエスは今も、御父の本質を示し続けている。むしろ、それをどう捉えるかを私たちは問われている。

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[一版]2020年 6月21日
[二版]2022年10月10日

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恵みとまこと

 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

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 「ことばは人となって」は、「ことばは肉となって」とも訳せるとのこと(新改訳聖書の注釈欄より)。個人的には、後者の方がずっと分かりがいい。

 イエスが肉をまとっておられた公生涯において、イエスにあわれんでもらった人、イエスに敵対した人、イエスの弟子になった人、ともかく、さまざまな立場の人たちがイエスを知っており、言葉を交わしていた。
 しかし、ヨハネ福音書の記者は「私たちはこの方の栄光を見た。」と書き記す。
 このことを言い換えると、記者はイエスの中に神を見いだしたのである。

 十字架で肉を処分して復活したイエス・キリストは、今に至るまでずっと「私たちの間に住まわれ」ている。
 そして、わざによってではなく恵みによってイエスが私たちにお会い下さり、そのとき私たちはイエスの栄光に圧倒される。
 このとき、今まで被さっていた覆いが一気に取り除かれて、聖書のことばをはっきりと了解できるようになる。
 そして十字架や復活などの「まこと」を了解し、このまことによって、私たちは「いのち」をいただいた。
 これは人知によるものではなく、まさにイエスの「恵みとまこと」に依るのである。

 聖書はもっぱら、この栄光に出会って救われるために存在する。

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[一版]2010年11月 6日
[二版]2014年 5月 4日
[三版]2016年12月23日
[四版]2018年 9月24日
[五版]2020年 6月18日
[六版]2022年10月 9日

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神の子という新たなアイデンティティー

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11-13新共同訳)

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 御父は万物を造り人を造った。
 しかし、多くの人々は御子を受け入れなかった。
 御子を受け入れなかった人々は、御父から断絶していることに気づきもしなかった。
 一方で、御子を信じる者もおり、彼らは御父から断絶していることを受け入れた。

 「神の子となる資格」とは、御父との関係性を回復できる可能性のことである。
 「神の子」は、人間の血肉的なものに由来せず、正に神から生まれた者のことであり、彼はルーツが変わり、アイデンティティーも変更される。
 「神の子」は、自分をお造りになった御父との和解を通して、本来の自分らしさをすっかり取り戻す。

 御子を受け入れなかった人たちはどうであろう。
 少し前に、少女が乗った自転車が車に跳ねられたときに、どうして誰も少女を助けなかったのかというニュースを見たが、自分には意外感なんかかけらもなかった。
 なぜなら、東京の人間は厄介事には素知らぬふりをするということをよく知っているからだ。
 自分の責任を回避しようとする小賢しさばかり身につけて、造られし者としての自分を見失ってしまっている。

 「神の子」は、自身の内奥に聖霊を宿している。
 もちろん肉をまとっているから誤ちは多いが、人が跳ねられれば脊髄反射ですぐ動ける。
 しかし、他の人がどうであるかより、まずは、そのように動けることを喜び、そのように回復させてくれた真の父に感謝しよう。

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[一版]2018年 9月23日
[二版]2020年 6月14日
[三版]2022年10月 2日

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