キリストから受けた注ぎの油

 「私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。
 あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(1ヨハネ2:26-27)

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 様々な人が様々な表現をしているところの、「キリストから受けた注ぎの油」。
 それは真理を教えるものというよりは、真理そのもの、真理の実体であり、それがやってくるという方が合っているように思う。
 サウロ(パウロ)が復活のイエスに出会って、この注ぎの油を受けたのはいつだろうか。出会ったときだろうか、目が見えなくなったときだろうか、それとも再び目が見えるようになったときだろうか。このことは自明のことではないかと思う。このイエスとの出会いの時に、真理がぱっと分かってしまう。そのようなものである。

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 健やかな一日をお祈りします!
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神のうちにいるということ

 「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。
 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。
 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。
 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:3-6)

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 「神のうちにいる」とは、神の側により分けられたということ。聖別されたということ。
 そのようにより分けられると、本人の意志に関係なく、あのイエスの狭い道を歩むことになる。
 十字架と復活の、救いへと至る狭い道のことだ。
 そして、真理がその人の内にあること、また、神の愛が全うされるというのは、原因ではなく結果である。
 いずれにせよ、命令、みことばを守ろうとすることが、全てのはじまりであることは確かなことだ。

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 健やかな一日をお祈りします!

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私たちは罪人である

 「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。
 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(1ヨハネ1:5-10)

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 アダムの肉を持つ人間はそれゆえに罪深く、それどころか日々罪を犯し続ける。
 このままでいくと破滅するしかないそのような私たちを、イエス・キリストが恵みによってその破滅から救ってくださった。
 この救いとはアダムの肉に巣くう罪を赦すこと、赦し続けることであり、罪そのものを犯さなくなるということではない。私たちのアダムの肉が変わったわけではない。
 だから、もしも罪を犯してなどいないと言うのなら、「神のみことばは私たちのうちにありません。」、つまり、聖書のみことばを通したイエスとの出会いをまだ果たしていないのである。
 だがそのようであっても、恵みによってイエス・キリストはみことばを通して出会って下さる。
 そのとき、自分が本質的に罪人なのだということが分かるようになる。そのぬぐいようのない罪を赦していただいたからである。

 つまり、私たちは罪人である、というのが、光に照らされて分かる真理なのである。

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[一版]2011年 7月 2日
[二版]2018年 8月29日

 健やかな一日をお祈りします!

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御父、御子との交わり

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」(1ヨハネ1:1-3)

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 私たちはイエス・キリストに実際に出会ったことで、御父、御子との交わりの中にいます。
 そのことをイエスを知らないあなたがたにお伝えするので、あながたにもこの交わりの中に入って下さい。
 上の聖句の趣旨はこの2行になると思う。

 もしもヨハネが、上の2行からなる手紙を誰かに書かなかったとしたら、私たちは御父および御子イエス・キリストとの交わりに入ることができるのだ、ということ自体、思いつかないだろう。
 しかし、イエスの肉が処罰されて2000年も後に生きる私たちも、恵みによってこの交わりに入ることができ得ることヨハネらのお陰で知っている。
 ヨハネがイエスに出会ったのと同様に、復活のイエスが私たちのもとを訪れるときが来る。
 そのときには、「いのちのことば」すなわちその人にとって最も大切なみことばが示される。
 だから、聖書のことばは希望をつなぐためにとても必要なものであり、ここにいう希望とは、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」に入ること、すなわち、いのちにあふれることである。
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 健やかな一日をお祈りします!

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マウンティング

 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト20:17)

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 十戒より。

 高度成長期の頃、隣の家がカローラを買ったから我が家はコロナ(もっと高い車)を買おう、というのがとても多かったが、これは見栄を張るというだ。盛大な葬式を営んで大勢の人を呼ぶのが近所に見栄を張りたいから、というのを聞いたこともある。
 ちなみに最近は、ぶつけてへこんだ車を修理もせずに乗っているというのをよく見かけるようになったし、葬式はもっぱら身内だけのものになった。
 張る見栄もなくなったのかと思っていたら、最近はマウンティングという言葉がある。隣人に対する優位性をもっぱら言動で示すことと言えばいいのだろうか。しかしこの場合、それをする人が実際に優れているわけではない。

 ここで上の十戒に戻ると、「あなたの隣人のものを、欲しがってはならない」のだから、これは行為の禁止ではなく、内面の動きを禁止していることになる。心の動きまでも御父が見通しておられることが、ここで端的に示されている。
 そして、ここで問われているのは、欲しがることそのものについてではない。隣人を見て同じものをとか、隣人のよりいいものをとか、隣人より上に立とうとか、すなわち隣人に対して相対的な比較をする心の動きが問われている。

 こんなもの守れるはずが、と言いたいところだが、実は自分にはこういう心の動きは少ない。もちろん全くないなんてことはないが、人より少ないと思う。
 お金は自分が過不足なければ十分と思っているので、人より高収入をとか、ましてや富裕層ランキングの類の相対化した競争には興味がない。本はよく買うが、それ以外のものは必要以上にはあまり買わない。
 それからなんだろう? 何かを持っているから他人より相対的に上だとは、・・・いやあ、思わないなあ。上にマウンティングという言葉を書いたが、よく知らなかったので調べ調べ書いたのだが、自分がこれをやることはほとんどないと思う。

 実はそのわけを自分自身でわかっている。
 自分の核を持っているからだ。
 イエスに救われて、それから改めて聖書を開くと、1行1行が今までとは全く違う意味と輝きを持っていた。その当時の聖書の見え方を書き始めたのが本ブログの始まりで、表面的な表現は変わっても書いている内容の根幹は当時と変わるところはない。
 自分は世界をどうとらえるのか。この切り口がこのときに与えられたのだと思う。
 それで、自分にとって絶対的な意味で大切なものは何か、という見方におのずとなった。この見方には、他者との相対性はあまり入らない。その絶対性の中で、分相応とか、自分とは何者かということも、自然と開かれていった。

 さて、マウンティングというものを調べていると、あーこれは自分もやられたなあ、確かにあれは不愉快だった、ということが書いてあった。
 その内容は省略するが、中身が全くないからこそ、このマウンティングという恐い者知らずができるのだろう。大体、人を小馬鹿にするなんてのは、人の足を引っ張って、それでやっと保てる程度の低い自尊心に理由があるのではないかと思う。
 なぜこんなことを書くのかというと、マウンティングする人たちもまた、何かの大きなきっかけで、自分のこんな心貧しさに気付くかもしれないと思うのだ。
 第一、自分がそうだったのだ。
 若い頃さんざんマウンティングした。いろいろな人を小馬鹿にしてどの人からも疎まれた。そのくせ、分不相応な高級車なんか乗り回していた。そのダメさに少し気付いて教会行って聖書に接したら、その自分のダメさに徹底的に打ち砕かれていくのだから聖書の力はなんと素晴らしいものであろうかと今は思う。

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 健やかな一日をお祈りします!
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罪悪感というテコ

 「盗んではならない。」(出エジプト20:15)

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 私は小学生の時に、2回、万引きをしたことがある。
 いずれも100円くらいの少額のものであったが、いずれにせよ万引きをした。
 では何故2回で終わったのか。
 それは自分にとって面白いことではなかったからだ。
 それどころか、当時は知らなかった言葉であるところの罪悪感を覚えて、今に至るまで尾を引きずっている。
 当時は聖書や律法ということを全く知らなかったが、このときわき上がった罪悪感こそ、テコなのだと思う。
 つまり、このテコこそ、ずっと経ってから教会へと向かわせ、聖書に進ませ、律法を知ることとなるのに不可欠だった道具に違いない。

 そうすると、人には既に、救いへのテコであるところの罪悪感が備わっているのではないだろうか。罪深い存在ではあってもこの自分をお造りになったのは、十戒を授けた創造主なのだ。
 その創造の御業のときにあたかも刻印を押したかのように、このテコを備えてくれたのかもしれない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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容疑者

 「殺してはならない。」(出エジプト20:13)

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 私たちは、日常の生活において人をあやめるということはない。
 万が一、過失によって人を殺すことはあるかもしれなくとも、殺そうと思って実際に殺してしまうことはまずない。
 しかし私たちの心の内には人を殺す心で満ちていて、と、話はつながっていくのだが、毎回はくどいので今回はやめておく。その代わりに、河合隼雄 著「影の現象学」(講談社学術文庫)に引用された少女による詩を、ここで引用する。この詩を嫌がる人もいるだろうことを予めお断りしておく。


窓ガラスが割れている
そのわれがするどくとがっている
人が人を殺すごとき
そんな形にわれている
二つの影が(四文字不明)ている
一つの影は刃物を持っている
相手の影もせまっている
じっとみていると
今にもぬけだしてきそうだ
だんだん大きくなってくる
黒い影はとびだしてくるくらい大きくなった
ガラスが机の上におちている
それを拾ってにぎった
先がとがっている
不気味に光っている
殺せ
その先でのどをつけ
殺せ
戸のすきまから死の神がはいってきて
死ね死ねと叫ぶ
殺せ
            (pp.41-43)

 心も凍てつくダイレクトな質感とその高まりを感じるが、この詩で表現されているものは、実は自分の最も奥底のところに確かに存在するものだということに気付かされる。
 そうだとすれば、私の中には、大きく黒い影を殺せ、というものが、どうしようもなくあるのだ。
 それを御父は、頭ごなしに「殺してはならない。」と押さえつけてくる。
 だから私は、一番奥底にあるこのものをひた隠しにしておびえながら生きることになる。容疑者として常に疑われている、と。
 しかしその容疑者の日々はイエスによって過ぎ去り、今は、おびえることもなく、上の少女の詩にあるものが自分の奥底にも確かにあるよね、とあっさり認めている。
 神との和解は、自分自身との和解へと進むのである。

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 健やかな一日をお祈りします!
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父と母を敬え

 「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」(出エジプト20:12)

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 出エジプト記の十戒より。

 この律法は、初めて接したとき以来、自分にとって大変に難しく、苦みを感じ続けていたものだ。 両親とも死んで久しい今になっても、それは変わらない。
 どのようないきさつがあったのかをここに書くことはできない。
 父母を敬うのだったら、見も知らぬ老人に席を譲る方が、はるかにやりやすい。私は心を込めて、他人に席を譲る。

 このことが律法の上で何を意味するのかというと、もちろん、私が極刑に服しなくてはならないことの宣告であるのだが、イエスの御業のお陰あって、今はこの父母とは関係なく、全体的にこころ安らかな生活を送っている。
 死んだ父母との和解を心密かにしたわけではない。それは死ぬまで不可能だろう。
 そうではなく、復活の主イエスを介して、御父が私と和解してくださったのだ。
 私たちの御父は、イエスを介してすべてを赦してくださるのである。

 むしろ私が案じるのは、こういう人だ。
 「私はここに書いてあるとおり、十分に父母を敬っている。だから私には長寿が約束されているのだ!」

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 健やかな一日をお祈りします!

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聖なる安息日

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト20:8-11)

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 十戒より。

 休みの日、ある人は海や山で遊び、またある人は家で静かに過ごすだろう。
 教会に礼拝に行く人もいるだろう。
 働いている人も少なくないが、だいたいの人は職場が休みだから休んでいる。
 しかし、安息日は単なる休みと違って、聖なる日なのだ。
 すべてのものをお造りになった御父の七日目の安息、これを覚えよという。
 この日、私たちは神の創造の御業に感謝するのである。

 ところで私は、この天地をそこにあるものと思っている。
 そんな私が、創世記を読んでも、天地や人を神が作りたもうたということが腑に落ちることはなかった。頭で理解はしても、どこか遠い世界のおとぎ話のようにしか感じなかった。
 自分が生まれたときには、すでに天地はあったのだ。
 このように創造がピンとこないのだから、安息もまた分からない。
 この安息日という十戒の文言それ自体が分からないのだから、自分はなんと救われないことだろうか。
 いったい聖なる安息日というものはどのようなもので、どう過ごせばよいのだろう。
 いったい自分は、どれだけ創造主から断絶した存在なのだろうか。

 このように、律法は人に罪を気付かせる。その罪に苦しんだ果てに、イエスの十字架と復活を通して、この創造主との和解に至る。義と認められ、もう断絶はない。
 聖なる安息日を分からなくとも、そのときには赦してくださる。
 御父は人を創造し、人を赦してくださる。御子をさえ惜しまなかったのだ。
 それらすべての御業を覚えて、喜ぼう。

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 健やかな一日をお祈りします!
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御父の怒りと救い

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。
 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:2-6)

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 出エジプト記の十戒より。

 ここで、御父はご自身を「ねたむ神」と自己紹介している。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」というほどのものだ。
 他の神々があって、「主」というところの御父がいるのであれば、まず、私たちは何故御父に仕え御父を信じているのであろうか。
 これには理由はない。御父が私の神なのであり、その御父が私と和解してくださっている、このことに尽きる。付言すると、私が御父を選んだのではない。御父が私を見いだしてくださったのだ。
 そうすると、仮に私たちが他の神々に仕え他の神々を拝んだならば、このねたむ神にとっては裏切り行為に映るだろう。偶像を作ることすらそうなのだ。

 では、現代に生きる私たちが、御父以外の他の神に仕えていたり偶像を拝んだりしているだろうか。結論から言うと、私たちはあらゆる神々に仕え、すべての偶像を拝んでいる。
 物質社会全盛の現代では、まず、金銭が最上位の神である。端的に拝金主義だ。
 そしてそのために、自己啓発というものがある。他人をごまかし、自分をごまかす。そして人々は、この自己啓発という卑なる聖書を教典とするようになった。
 組織の論理や法令こそ律法だ、という人々も多くいる。彼らは、組織の中のみならず、生活の場に帰ってすらその律法を適用する。
 テレビを見れば、数多くの偶像と、その偶像に酔いしれる人々を見ることができる。ちなみに、いわゆるスターが登場したのは、映画が普及した20世紀に入ってからのことだ。

 卑なる神、卑なる聖書、卑なる律法、卑なる偶像。これら何ら人を生かさないもの。
 合理主義のもとで、私たちはこういったものに仕え続けている。
 十戒をはじめとする律法は、とても簡単に守れるようなものではないのであり、そのことはイエスが山上の説教で言ったとおりである。
 そのことが何を意味するのかというと、ねたむ神は私たちを律法違反で罪深いとお怒りなのである。
 だが、この律法、この怒りは、人の罪をあぶりだすためのもので、その人を生かすためのものである。
 罪を罪と気付くことが救いのスタートラインであり、その先にはイエスの十字架と復活が待っている。

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 健やかな一日をお祈りします!

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