神が会いに来て神に出会う

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

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 イエスは取税人マタイのところに来て「わたしについて来なさい」と言った。
 これは、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)と同じことで、イエスはまさに会いに来たのである。
 マタイがすぐさまイエスに従ったのは、頭であれこれ考えてのことというより、むしろ脊髄反応的なものではないか。ペテロなども同じであるが、つまり神に出会ったのである。
 神に出会うためにこちらから探したり追いかけたりしても無理で、神が戸の外に立ってたたく。
 神の選びというよりも神の憐れみなのである。

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因果関係がないからこその恵み

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。
 イエスは彼らの心の思いを知って言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
 『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。
 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
 すると、彼は起きて家に帰った。」(マタイ9:1-7)

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 イエスが「あなたの罪は赦された」とまで踏み込んで話しかけるのはこの箇所だけだと思う。
 なぜイエスは、癒やすにとどまらず、この人の罪を赦そうと思ったのであろうか。
 たまたまである。
 中風の人を運んできた人々に感嘆してとか、そういうことではない。なぜなら、もしそうだとしたら、我々の救いはパフォーマンス合戦に堕してしまうからだ。つまり、わざによる救いになってしまう。
 たまたまイエスの心が動いてイエスが救いたいと思った、これが恵みであり、この恵みには因果関係がないのである。

 それから、人の罪を赦すということは、病の癒しよりも遙かに難しい。
 人の罪の赦しは、もっぱらそのためにイエスが受肉したもので、これからのイエスの業によって完成する。
 すなわち十字架と復活であり、イエスは救いの道を開通させてくださった。
 自身の肉を差し出して死んで更によみがえるというのは、病の癒しよりも遙かに難しいことは明らかである。
 イエスを単に難病を癒してくれる存在として見ると、おそらく失望するだろう。イエスはもっとずっと大きなことを我々になしとげてくれたのである。

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[一版]2013年11月11日
[二版]2022年 3月21日(本日)

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イエスを見てもイエスと分からないなんて

 「 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
 それから、向こう岸のガダラ人の地にお着きになると、悪霊につかれた人がふたり墓から出て来て、イエスに出会った。彼らはひどく狂暴で、だれもその道を通れないほどであった。
 すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」
 ところで、そこからずっと離れた所に、たくさんの豚の群れが飼ってあった。
 それで、悪霊どもはイエスに願ってこう言った。「もし私たちを追い出そうとされるのでしたら、どうか豚の群れの中にやってください。」(8:26-29)

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 悪霊はイエスをイエスとすぐ気づくのに、日々共に行動する弟子たちをはじめとする人々はイエスをイエスと解しない。
 それは、神が見える姿でそこにいるとはまさか思わないからなのだろうか。
 それとも、自分をお造りになった神を、そうとは分からなくなってしまったからだろうか。
 いずれにせよ人は神からはるかに遠く、人には神が分からない。
 イエスが受肉して世に来られたのは、人が神の下に帰るためであり、これが救いでありいのちである。
 そのために、このイエスは十字架の道を切り拓いて三日目によみがえる。罪に死んでいのちを歩むということの型を私たちに示してくれたのである。
 私たちがこの道をくぐらされるときに、はじめて私たちはイエスをイエスと解するようになる。

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死人をよみがえらせる聖書

 「また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:21-22)

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 聖書に接し始めた頃の私は、この箇所の意味を取れなかった。
 理由は簡単で、私は死んでいたので、「死人」が自分のこととは気づかなかったからだ。
 その私は今は生きている。
 聖書はもっぱら、死んでいる人がよみがえるための書物である。

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土台

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後、土台について。

 それにしても最近の若者の狼藉ぶりには、目が余るものがある。
 高速道での故意の事故をはじめ、通勤電車の中などでは自分も被害に遭う。
 彼らはどうも、現実の世界はゲームの延長と思っている節がある。正に砂の土台だ。
 善悪の概念自体がないようなこんな連中には腹を立てるのも馬鹿らしくなる。いや腹立たしいんだが。

 ここまで大層偉そうに書いてきたが、しかし自分の若い頃だって彼らと大同小異だった。
 あまりにもひどかったから、それでふらふらになって教会の門を当時叩いた。
 今までの砂の土台では立ちゆかないと気付いて初めて人は救いを求めるような気がする。

 イエス・キリストを通して魂が救われると、今までの砂の土台は岩の土台にがらりと変わる。
 土台というか、根底の部分、奥底の部分という方が分かりがいいかもしれない。
 善悪について、また、そのほかのことについても、確かなものに瞬時に入れ替わる。
 実は、この岩の土台は自分から出たものではない。
 私たちは罪に死んで、自分を復活のイエスに明け渡したのだった。
 だから、この岩の土台とは内住の聖霊なのである。
 砂は自分、岩は御霊といえばいいだろうか。

 山上の説教は、全ての人は罪の下にあるというものであり、その最後に、その罪から解放された結果についてイエスは約束している。

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[一版]2018年 3月 4日
[二版]2022年 3月13日(本日)

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イエスが知る人

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

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 イエスの御名によって預言をした者を、その日、イエスは知らないという。
 イエスの御名によって悪霊を追いだした者を、その日、イエスは知らないという。
 イエスの御名によって奇跡を行った者を、その日、イエスは全然知らないという。
 では、イエスは誰を知っているのだろう。それはイエスが訪れた人たちだ。
 イエスが訪れ、十字架と復活を通して、今まで断絶していた御父と和解した人たちだ。

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狭き道には入らされる

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。
 みんなと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。
 流されるようにこの広い道を歩いていく。
 そこにイエスは、狭き道を切り開いた。
 十字架と復活の、いのちへと至る道だ。

 この狭き道に入る門は、目には見えない。
 だから探してもみつからない。
 この門にはいつの間に入らされ、気付くとこのイエスの道にいる。
 そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐる先に「いのち」がある。

 そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。
 世とは異なる原理で歩むため道は険しい。
 広い道で流されていた方がよっぽどいいようにも思える。
 だが、流されていたのではけっして味わうことのできない「いのち」のすばらしさが何者にも代え難い。

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[一版]2013年11月 7日
[二版]2016年 1月11日
[三版]2018年 2月18日
[四版]2022年 3月 5日(本日)

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