イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
父に求めるもの
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16))
---
御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。
今の私には、将来こうありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。
だが、御父が必ず願いを叶えてくださることは違いない。
願うものそのものを叶えてくださるというようなご利益宗教的ではないところが大きく違うところだ。
ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白 -ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。
大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く、従順であるようにと
弱さを授かった
(中略)
求めたものは一つとして
与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ
この作者の求めは、ただの一度も聞き届けられなかった。
それどころか病弱で、この詩を書いたときも入院していた。
しかし、作者は今、幸福感に満ちている。まさに「心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」という実感に満ちている。
御父はこのようにして、頭で求めることではなく、全人的な願いに応えてくださる。
その人が、よりその人らしくなるように応えてくださるのである。
私が上の詩を知ったのは、教会にはじめて行った数十年前のことだ。
いい詩だとは思うが、ある種のやせ我慢のようにも当時は感じた。
しかし今はそうとは思わない。なぜなら、私こそこの詩の「作者」だからだ。
そして、この詩の「作者」は世界中に少なからずいるはずだ。
---
[一版]2019年 3月20日
[二版]2021年 2月27日(本日)
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御父に何であれ祈り求めて、その祈りが叶ったと言うことが、私にはない。
今の私には、将来こうありたいと願っていることがあるが、かえって道を塞がれてばかりだ。
だが、御父が必ず願いを叶えてくださることは違いない。
願うものそのものを叶えてくださるというようなご利益宗教的ではないところが大きく違うところだ。
ここに、著名な詩「苦難にある者たちの告白 -ニューヨークの病院の壁に書かれていた作者不明の詩」の一部を引用する。
大事を成そうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く、従順であるようにと
弱さを授かった
(中略)
求めたものは一つとして
与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ
この作者の求めは、ただの一度も聞き届けられなかった。
それどころか病弱で、この詩を書いたときも入院していた。
しかし、作者は今、幸福感に満ちている。まさに「心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた」という実感に満ちている。
御父はこのようにして、頭で求めることではなく、全人的な願いに応えてくださる。
その人が、よりその人らしくなるように応えてくださるのである。
私が上の詩を知ったのは、教会にはじめて行った数十年前のことだ。
いい詩だとは思うが、ある種のやせ我慢のようにも当時は感じた。
しかし今はそうとは思わない。なぜなら、私こそこの詩の「作者」だからだ。
そして、この詩の「作者」は世界中に少なからずいるはずだ。
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イエスが与える平安
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
---
平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。
ストレスのないことだろうか。
しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。
イエスがここで約束しているのは、もっとずっと深いところ、すなわちたましいの平安のことである。
このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)ともイエスは言っているので、平安というのは、御父との和解によってたましいの滅びがなくなるという安堵感のことかもしれない。
だから、イエスが平安をいうときにも、御父と私たちとの和解、そしてこの和解をもたらすイエスの十字架と復活のわざが底流にある。
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平安とは何だろう。イエスが与えるこの平安とは何だろう。
ストレスのないことだろうか。
しかし、このストレスは多くの場合外部環境によってもたらされるので、イエスが私たちひとりひとりに与える何かとは異なるように思える。
イエスがここで約束しているのは、もっとずっと深いところ、すなわちたましいの平安のことである。
このことについては、「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)ともイエスは言っているので、平安というのは、御父との和解によってたましいの滅びがなくなるという安堵感のことかもしれない。
だから、イエスが平安をいうときにも、御父と私たちとの和解、そしてこの和解をもたらすイエスの十字架と復活のわざが底流にある。
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世の原理に死に異なる原理によみがえる
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)
---
聖書の目的、すなわち救いということ。
「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。
しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
世は異なる原理によるからだ。
たとえばマモニズムにどっぷり漬かっている人は、イエスとその救いそのものを否むだろう。
だが、そのような人々の中にも、魂の奥底では救いを必要としている人も少なくないはずだ。
救いを求めるとき、救い主イエスは必ず応えてくださる。
そうすると世の原理から離れることとなるのだが、そのことも含めてすべてイエスが整えている。
この十字架の道は、世の原理に死に異なる原理によみがえるものであるから、かつてなく辛いものになる。
しかしそのときには原理や価値観が新たにされる。それも瞬時に変わる。聖霊が住まわれるからだ。
自分のことになるが、昔日教会に行っていた頃、悲しい気持ちで「キリストにはかえられません」、あの賛美歌を歌っていた。
富も宝も欲しいし、有名にもなりたい。それをあきらめなくてはいけないのだろうか?
しかし、今振り返ると、そういったものをあきらめたわけではないのだが、そういったものに対する興味そのものがいつしか消えてしまった。
それは、富よりも名誉よりも、人にとって本来的に必要なもので満たされたからではないかと思っている。
---
[一版]2014年 9月15日
[二版]2017年 5月23日
[三版]2019年 3月 9日
[四版]2021年 2月21日(本日)
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その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)
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聖書の目的、すなわち救いということ。
「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。
しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
世は異なる原理によるからだ。
たとえばマモニズムにどっぷり漬かっている人は、イエスとその救いそのものを否むだろう。
だが、そのような人々の中にも、魂の奥底では救いを必要としている人も少なくないはずだ。
救いを求めるとき、救い主イエスは必ず応えてくださる。
そうすると世の原理から離れることとなるのだが、そのことも含めてすべてイエスが整えている。
この十字架の道は、世の原理に死に異なる原理によみがえるものであるから、かつてなく辛いものになる。
しかしそのときには原理や価値観が新たにされる。それも瞬時に変わる。聖霊が住まわれるからだ。
自分のことになるが、昔日教会に行っていた頃、悲しい気持ちで「キリストにはかえられません」、あの賛美歌を歌っていた。
富も宝も欲しいし、有名にもなりたい。それをあきらめなくてはいけないのだろうか?
しかし、今振り返ると、そういったものをあきらめたわけではないのだが、そういったものに対する興味そのものがいつしか消えてしまった。
それは、富よりも名誉よりも、人にとって本来的に必要なもので満たされたからではないかと思っている。
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イエスのわざ、私のわざ
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14:12)
---
イエスが行うわざ、そして私が行うわざ。
イエスのわざとは十字架と復活のわざ、「父のもとに行く」わざである。
このわざは、私たちのため、もっといえば専ら私たちを救うためのものである。
そのためにイエスは、私たちが歩む道を拓くわざを行う。
私たちは、このイエスの道を通って御父を見る。これが私たちのわざである。
私たちがわざを行う、というよりか、気付くと行わされているという方が合っている。
そしてその先に、私たちはこの御父と和解して魂が救われる。これが私たちの行う「さらに大きなわざ」である。
御父は世界と私をお造りなったお方である。そのお方と和解するのであるから、世界とも、また自分自身とも和解することができる。今までは、そこから遙かに遠く、それで救いをあえぎ求めていたのだった。
---
[一版]2019年 3月 8日
[二版]2021年 2月14日(本日)
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イエスが行うわざ、そして私が行うわざ。
イエスのわざとは十字架と復活のわざ、「父のもとに行く」わざである。
このわざは、私たちのため、もっといえば専ら私たちを救うためのものである。
そのためにイエスは、私たちが歩む道を拓くわざを行う。
私たちは、このイエスの道を通って御父を見る。これが私たちのわざである。
私たちがわざを行う、というよりか、気付くと行わされているという方が合っている。
そしてその先に、私たちはこの御父と和解して魂が救われる。これが私たちの行う「さらに大きなわざ」である。
御父は世界と私をお造りなったお方である。そのお方と和解するのであるから、世界とも、また自分自身とも和解することができる。今までは、そこから遙かに遠く、それで救いをあえぎ求めていたのだった。
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イエスが拓く道
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
---
イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道である。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
この死と復活に預かることこそ、神の恵みによるのである。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
---
[一版]2008年 4月11日
[二版]2014年 9月14日
[三版]2017年 5月22日
[四版]2019年 3月 3日
[五版]2021年 2月12日(本日)
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わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
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イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道である。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
この死と復活に預かることこそ、神の恵みによるのである。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
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道であるイエス
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6-7)
---
イエスはこれから極刑の十字架に架かり、3日目に復活する。
これがイエスの道であり、まさに今、拓かれようとしている。
私たちはこの険しい道を通って御父のもとに行くことになる。
死んでいる私たちが生きる者になるためである。
「もしわたしを知っていたなら」、気づくとこの道に入っている。
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あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」(ヨハネ14:6-7)
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イエスはこれから極刑の十字架に架かり、3日目に復活する。
これがイエスの道であり、まさに今、拓かれようとしている。
私たちはこの険しい道を通って御父のもとに行くことになる。
死んでいる私たちが生きる者になるためである。
「もしわたしを知っていたなら」、気づくとこの道に入っている。
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互いに愛し合いなさい
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
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私は、この、愛する、愛し合うという営みをどうもよくわからないでいる。
しかしイエスは、上の聖書箇所にある「すべての人」が、互いに愛し合う弟子達を見て、何らかの肯定的なものを抱くと言う。
このときに、さあ愛そうとか、さあこれから愛し合おうと意識したその瞬間、それは愛とは異なる何らかの押しつけになってしまう。
それと違って、イエスの子である私たちは、それをごく自然にしているのではないかと思う。
私たち自身が意識してそうしているというよりか、イエスに導かれて結果的にそうしている。
そのあり方を「すべての人」が肯定的に思うことはあるだろう。
私は愛するという営みをよくわからないが、それでいいのだろうと今は思う。
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もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:34-35)
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私は、この、愛する、愛し合うという営みをどうもよくわからないでいる。
しかしイエスは、上の聖書箇所にある「すべての人」が、互いに愛し合う弟子達を見て、何らかの肯定的なものを抱くと言う。
このときに、さあ愛そうとか、さあこれから愛し合おうと意識したその瞬間、それは愛とは異なる何らかの押しつけになってしまう。
それと違って、イエスの子である私たちは、それをごく自然にしているのではないかと思う。
私たち自身が意識してそうしているというよりか、イエスに導かれて結果的にそうしている。
そのあり方を「すべての人」が肯定的に思うことはあるだろう。
私は愛するという営みをよくわからないが、それでいいのだろうと今は思う。
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