イエスの唯一のわざ

 「しかし、わたしにはヨハネの証言よりもすぐれた証言があります。父がわたしに成し遂げさせようとしてお与えになったわざ、すなわちわたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。
 また、わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます。あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません。
 また、そのみことばをあなたがたのうちにとどめてもいません。父が遣わした者をあなたがたが信じないからです。」(ヨハネ5:36-38)

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 イエスがパリサイ人に対して。

 「あなたがたは、まだ一度もその御声を聞いたこともなく、御姿を見たこともありません」。
 たしかにまだ一度もない。
 どうすれば御父に会えるようになるのだろうか。
 それはイエスのわざによって初めて可能となった。すなわち、十字架と復活のみわざである。

 わざについては、イエス自身「わたしが行なっているわざそのものが、わたしについて、父がわたしを遣わしたことを証言しているのです。」と言っている。
 つまり、病人のいやし(ここでは38年間病気だった人のいやし:1-9節)というわざは、イエスが御子であることを証明するためのわざであって、このとき、わざは手段にすぎない。
 しかし、十字架と復活のわざは、何かのための手段ではなく、イエスが来られた目的そのものである。御父と私たちとの和解のためにイエスが成し遂げたわざである。
 このイエスの唯一のわざを通して、私たちは御子への信仰が与えられ、みことばが私たちの内にとどまるようになる。

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神の善悪

 「善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:29)

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 ここで唐突に善悪が登場する。
 いったい善とは何か。悪とは何か。
 律法を守れないことは罪であるから、善悪とは違うだろう。

 善悪の境目を知るものはいない。
 たしかに、大方の人が善と認めること、逆に、大方の人が悪とすることはある。
 だがこれも、時代の価値観や力学関係などの背景に照らして大きく揺らぐもので、人の基準は当てにならない。

 イエスが上のように言ったところの善悪とは、神の善悪である。
 文脈から言って、信仰に至ることが善、至らないことが悪なのかもしれない。
 それにしても、この信仰とは与えられるものなのだろうか。それとも自分で勝ち取るものなのだろうか。
 だから、神の善悪はこの与えられた信仰によって分かるものであり、それを分からせてくれるのがすなわち内住の聖霊である。

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[一版]2018年11月22日
[二版]2020年 7月25日(本日)

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神の子の声

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」(ヨハネ5:25)

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 死人が子の声を聞いて生きる。
 そしてそれは今も続いている。

 死人とはなんであろう。
 それは生きる者以外の全てである。
 子の声を聞いてよみがえった者以外の全てである。

 周り中が死人なのであれば、自分も死人である方が、むしろ死人同士でやりやすいのではないか。
 それは違う。なぜなら死人は窒息しきっている。
 イエスの声が聞こえると、死者にいのちが吹き込まれる。新鮮な空気が一気に胸に流れ込む。
 窒息にも気付かないおびただしい数の死者たちは、つるんで彼らの主に仕え続ける。

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[一版]2018年11月20日
[二版]2020年 7月23日(本日)

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恵みと行ない

 「さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。」(ヨハネ5:2-9)

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 38年も病気が治らない人にイエスが出会う。
 イエスは彼に言う。「よくなりたいか」。
 ところが、彼が言うには「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。」と、頓珍漢だ。
 彼からすれば、誰か知らないがともかく自分に話しかけてくれる人がいて、それで、日頃の思いの丈をとにかくぶっつけたのだろう。実は自分にも似た経験がある。

 それにしても、このベテスダの池には「大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた」。
 イエスはこの大ぜいの人々の中で、上の38年病をかこつ人に声を掛けた。
 ほかの人々ではなく、この38年の人にイエスが会ったのはなぜだろう。
 たとえば、この人が熱心に祈っていたとか、日々ちょっとした善行を行っていたとか、そのような人の目から見て好ましい何かがあっただろうか。
 そういうことではなく、大ぜいの病人がいる中、イエスはこの38年の人に会ったということだ。 理由はない。この理由がないというのが恵みであり、38年の人はまさに恵まれたのである。
 仮に、熱心に祈っていたというのでイエスが声を掛けたのなら、それは行ないに基づく因果関係である。人の目にはわかりがいいが、不可思議なことに神はこの因果関係を気にも留めない。

 恵みと行ないとの違いについてやや極端に書いたが、頓珍漢なことを言い返すほど行き詰まっているこの人をあわれんで、イエスは会ったかもしれない。

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『救い主』は何を救うか

 「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
…………
 そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」(ヨハネ4:35-36,42)

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 上の聖書箇所に「世の救い主」ということばが出てくる。
 英語では、" the Savior of the world" となっている(NKJより)。
 しかしイエスは「永遠のいのちに入れられる実を集めています」と弟子たちに言っている。
 個々人を救うのであって、「世」や"the world" のことは考えていないのではないか。
 もし「世」や"the world" のことを考えているとすれば、まずは支配階層のサドカイ人やパリサイ人に接近するだろう。その方がはるかに効率的だ。
 あるいはローマの圧制下による当時のメシア待望論の影響なのかもしれないが、イエスがどのような存在であるかということについて誤解するのは、私たち自身にとっていいことではない。
 イエスは"the world" をどうこうしようとして受肉したのではない。
 私たちと御父との和解、すなわち永遠のいのちに導いて私たちを救うために来られたのである。

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霊とまことによる礼拝

 「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21-24)

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 エルサレムの神殿で礼拝するにせよ、北イスラエルが勝手に定めたゲリジム山(うろ覚え)で礼拝するにせよ、それは礼拝というよりか、ただの儀式になってしまう。
 しかしこのただの儀式によっては、人は御父とつながらず、御父は人とつながらない。
 それで御父が、霊とまことによって父を礼拝する者を求めておられる。

 御父と人とのつながりは、復活の大祭司イエス・キリストがとりなした。
 このイエスに出会うとき、私たちの罪が赦される。
 そのとき罪から自由になって、私たちは「いのち」を生きるようになる。
 このようにして、私たちはイエスを通して御父を知った。
(「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」ヨハネ17:3)。

 御父をすでに知っているので、アダムの子孫が執り行う儀式は、もう要しない。
 大祭司イエス・キリストを介する真の礼拝が行われるようになる。
 言い換えると、イエスというパイプを通して、御父の霊と人の霊が交わること、これが「霊とまこと」による礼拝である。
 そのパイプとは、十字架と復活を通してイエスが初めて切り開いたものだ。

 だから私たちは、このパイプの通り抜けを、切実に祈り求めるのである。

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[一版] 2010年12月 4日
[二版] 2012年10月 7日
[三版] 2014年 6月 8日
[四版] 2018年11月11日
[五版] 2020年 7月12日(本日)

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刺激はまた渇く

 「あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:12-14)

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 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」。
 何が渇くのだろうか。もちろん魂が渇くのである。
 渇くとどうなるかというと、刺激で一時しのぎをしようとするのかもしれない。
 刺激といっても様々なものがあるので、ここでは物欲に絞ると、衝動買いという言葉もあるように、消費することそれ自体が刺激を与えてくれることがある。
 そんな刺激はもちろんすぐになくなるから、また刺激を求めてショッピングを続けることになる。
 しかしこれは満足感とは全く異なる。
 というより、この満足感がないので、その代わりにいっときの刺激で紛らわしているように思える。
 ここに出てくるサマリヤの女は、満足できずにとっかえひっかえした男に刺激を求め続け、そうしてつまはじきになっていったから、悪循環から抜け出せなくなってもがいていたのであろう。

 だがイエスが与えようとする水を飲むと、もう渇くことがない。
 つまり、心満たされ、満足感を得るのである。刺激は不可欠ではなくなる。
 マモニズム、物質主義が与え続けるこの種の刺激から、私たちは自由になる。
 神と富とに仕えることはできないのである(マタイ6:24新共同訳)。

 私たちは、本来何に心満たされるように造られているのか。
 見失ってしまったこのことを、イエスは回復させてくれるのである。

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[一版]2018年11月 4日
[二版]2020年 7月 8日(本日)

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キリストの光

 「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ3:20-21)

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 「生きがい感というものは、そぼくな形では生命の基盤そのものに密着しているので、せいぜい生きるよろこび、または『生存充足感』としてしか意識されない。デュマのいうように、ひとの生活が自然な形で営まれているときには、一種の自動性をおびて意識にのぼらない傾向があるからであろう。したがって『あなたは何を生きがいにしていますか』とたずねても即座に返事のできない人が多い。或る調査用紙にこの質問を入れておいたところ、『この問いをみてギョッとした』という感想をのべた婦人もある。」
(神谷美恵子 著、「生きがいについて」2004年版、p.30)

 引用が長くなってしまったが、「生きがい」という個人内面のことをいきなり尋ねられて、この問いそのものに「ギョッとした」婦人がいるということが書かれている。
 この婦人は、自分の内面にいきなり光が当てられて、あわてている。
 もっとも、この場合の光はキリストが照らす光ではないのだが、自分の内面など見たくもないという人が少ないのかもしれない。

 そうであるなら、キリストが照らす光、人間の内面をくまなくまさぐる光を受け入れる人というのは、一層少ないに違いない。
 その光は、その人の罪をつまびらかに照らし出して明らかにする光だからである。
 「悪いことをする者」、「真理を行なう者」の判断軸が何かはあまりよくわからないが、そのような光自体を、人は日ごろ嫌がるだろう。目先のことに忙殺されているのだ。
 しかし、心に深い悩みを抱えた人、大きく傷ついた人、行き詰まった人、つまり、先ほどの婦人とは異なり内省的になって立ち止まっているときにこのキリストの光が照らされると、その人は光を喜び光の方へと向かうだろう。あるいはそのことを、真理を求めるというのかもしれない。
 このキリストの光は、その人をただ糾弾するためのものではなく、それどころか、十字架と復活を通してその人に「いのち」を与えるためのものである。

 キリストの光は、どの人の上にも、いつも照っている。
 日ごろ人は、その光を避ける。
 だが、誰にでも闇夜は訪れる。
 キリストはずっと待っていてくださって、そのときその人を迎えてくださる。

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[一版]2014年 6月 6日
[二版]2017年 1月29日
[三版]2018年10月28日
[四版]2020年 7月 3日(本日)

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