イエスの道

 「ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
 子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」
 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」(ヨハネ13:31-36)

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 イエスは今や栄光を受ける。
 その栄光とは、イエスの道、十字架の道を整える栄光である。
 イエスは極刑としての十字架に架かり、そして復活する。
 それと同じように、その道を通ってイエスが行った所について来た人は、アダム以来の肉が罪赦される。その肉もまた極刑に処されたからである。

 ただ、そのイエスの道は、通ろうと思って自分から入る類のものではなく、気付くとその道を通らされている。
 そのときには、今までになかったあまりにも辛く苦しい日々が続く。イエスの十字架の苦しみと同じである。
 忍耐を働かせてこの道を歩み続けた先には、復活のイエスが出迎えてくれる。
 そうであるから、苦しみはむしろ特権だと思う。

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[一版]2012年12月23日
[二版]2021年 1月31日(本日)

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かたくなな心

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 ラザロのしるしを目の当たりにした多くの人々は、イエスを神の子とは信じなかった。
 イザヤによれば、御父が彼らの目を盲目にし、彼らの心をかたくなにされたからだという。
 なにより、「祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた」(ヨハネ11:57)という状況にあったのだから、多くの人々はイエスを色眼鏡で見ていたに違いない。
 そうであるなら、イエスが何をしても何を言っても、ラザロをよみがえらせてすら、この群衆は舌打ちをするだろう。
 世の常として、自分の仲間内が過ちを犯しても大目に見るが、敵対する人がどんなに成功しても心の中で冷ややかに舌打ちするものであり、神の子イエスもこの世の常にさらされ続けた。
 このことを指して、御父はイザヤを通してかたくなな心と仰ったのかもしれない。

 しかし、私たち人間がこんなにかたくなであっても、復活のイエスの方から私たちに会いに来てくれるのである。
 このことについて、イエスは「わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示3:20)と約束している。
 そしてこのとき、私たちのかたくなさは瞬時にして解けイエスを分かるようになる。サウロがまさにそうであった。
 このように、信仰は獲得するものではなく与えられるものであり、この神からの大きな愛を受けて、私たちは瞬時に回心していやされる。

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運命

 「この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが。」と言って頼んだ。
 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。
 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。
 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。
 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。
 父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」(ヨハネ12:21-28)

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 傑出した芸術家である岡本太郎は、次のように書いている。

    「運命とは自分で切りひらいていくもの---というより、
     向こうから覆いかぶさってくるたいへんな重荷だ。
     圧倒的に重い。やりきれない。
     だからこそ言いようなく惹きつけられるんだ。
     それをまともに全身に受け止め、自分の生きがいに転換するか、
     あるいはていよく逃げるか。
     人間的な人間は、幸・不幸にかかわらず、
     まともに運命を受け止める。」
         (「孤独がきみを強くする」,p.68)

 イエスは、自分がなぜ受肉してこの世にいるのかをあらかじめわかっている。
 いままではその時は来ていなかったが、ついにその時が来た。
 神の子イエスをして、この重荷に圧倒されてしまっている。
 受け入れる以外にはない運命に戸惑い心が騒いでいる。

 それにしても、運命とはどうしてこうも突然やってくるのであろう。ベートーヴェン交響曲第五でのあの有名な出だしも正にそうで、向こうからいきなり扉が叩かれる。
 こういうことが一生のうちで多分数回はある。
 上の聖書箇所でのイエスは、イエス自身の運命を受け入れる以外にはない。
 その点私たちはていよく逃げることもできる。しかしそれでは人生の方から見限られるだろう。
 自力で切り開いてやろうと力むほど、よけいにこじれて収拾がつかなくなる。
 そしてこういうときには人はまったくあてにならない。ヨブを見ればよく分かる。
 私たちにできるただ一つのことは、自分の全存在を御父にお委ねすることだろう。上の聖書箇所でのイエスも正にそうだった。

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[一版]2020年 1月19日
[二版]2021年 1月22日(本日)

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死とよみがえり

 「わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:42-44)
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 イエスは、死者ラザロをよみがえらせた。
 これは、「あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるため」のしるしである。
 その神の子イエス自身は、苦しみの果ての十字架とよみがえりによって、最大のわざを成し遂げた。
 このわざによってイエスは人々を救う道を開き、恵みによって人を救いに導き続けている。
 その人は、大きな苦しみの果てに死んでそしてよみがえる。
 このように、死とよみがえりとはペアである。片方だけでは何も分からなくなる。

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よみがえり主

 「イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

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 よみがえり、ということ。死んで復活するということ。
 イエスはもっぱら、そのことを為すためにこの世に来られた。
 神が罪深い私たちのために極刑の十字架に架かって死んで、しかも復活を遂げてくださったのだから、神の愛とは正にこのことを指すのだろう。
 そのイエスに従わざるを得なくなり、私たちも死んでよみがえって「いのち」を授かるのである。

 ところで私たちは確かに生きている。
 だがそれは、生物学的な意味においてのことにすぎない。
 人間としては死に続けている。
 それは魂の死のことで、多くの人は、そのこと自体に気がつかないか、目をそらしてやりすごしている。
 イエスは、そんな私たちによみがえりを与えようとしている。人間本来の生が回復されるためである。
 「いのち」とは、見かけとか言動、魅力、つまり外見上のことではなく、その人を真に生かす内側から湧き出る原動力についてのことだ。
 いいかえると、人様からどう映るかではなく、自分の内面の方向性ががらりと変わることであり、「回心」という言葉そのものである。

 イエスは、私たちを回心に導くための、いわば「よみがえり主」であり、このことにイエスの本質がある。

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[一版]2014年 8月23日
[二版]2017年 5月16日
[三版]2021年 1月11日(本日)

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自分の内の光

 「その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう。」と弟子たちに言われた。
 弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。」
 しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。」(ヨハネ11:7-10)

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 イエスは「夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです」という。
 つまり、私たちは自分の内に光を宿していない。「もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(マタイ6:23)とイエスも言っている。
 神が受肉したイエスが世にいた昼には、自分の外に光があった。このイエスが光であり、病のいやしなどの奇跡を通して人々は神を見た。
 では、イエスが昇天された今はどうであろう。
 自分の外に今は光がない。だが、この光が自分の内に光を灯してくださるのである。
 光が内に灯る人は、この真夜中でもつまづかない。
 行き先を照らすサーチライトとは違って、光そのものが私たちを導いている。

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羊飼いイエスの声

 「イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。
 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。」(ヨハネ10:25-28)

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 イエスの羊はイエスの声を聞き分ける。
 ほかの羊たちは、ほかの人の声を聞き分けるだろう。
 イエスを知るイエスの羊は、イエスの後を着いてあの狭い道に入ってゆく。
 この狭い道は入り口が見あたらず、入ろうと思って入れるものではない。
 ところが、イエスは羊たちを、いつの間にかにこの狭い道へと導いてゆく。
 道のりは険しく苦しいが、イエスは自分の羊たちを先導し続ける。
 一方で、ほかの羊たちは広い道をにぎやかに歩いている。道の両脇には見せ物小屋や土産屋などが立ち並んでいる。

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[一版]2019年 1月13日
[二版]2021年 1月 9日(本日)

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塩気をなくした塩

 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

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 塩気をなくした塩は、どうなるのであろう。
 何かの役には立っているのだが、神の御国の役には立っていないようになる。
 では、どうすれば、あるいは、どうであれば、神の御国の役に立つことができるのだろうか。
 それは自分一人でできることではなく、このことのためにこそイエスが受肉して公生涯を開始したのである。塩気はこのイエスがつけてくださるのだ。
 塩気をなくした私たちに会いに来て、ご自身と同じように私たちを死なせそしてよみがえらせる。
 罪を赦し義と認められ、御父との和解に至る。
 このようにして、私たちはイエスを介した御父への信仰をはじめて与えられる。
 こうして、私たちは塩気をつけてもらって地の塩たるを回復する。
 神の御国の役に立つとは、このような信仰者であることだけで足りるのである。

 イエスは、自分が塩気を失ってしまったと嘆く人々を歓迎する。
 私は地の塩だと思っているパリサイ人に対しては、イエスは容赦がなかった。

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 健やかな一日をお祈りします!

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ことばは神とともにあった

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、ことばの連なりがまた意味を生む。
 このことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 文字面の意味をはるかに超えた聖書のことばが飛び込んできて、読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と気付いた、ということではない。
 そうではなく、「初めに、ことばがあった」というところの創造主が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。この出会いによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 文字面の意味を考えることは大切だ。
 しかし、それよりも、聖書のことばが文字面の意味など突き破って人に「いのち」を与えるものであること、そのことの方がずっと大切なことだ。
 

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[一版]2010年 5月19日
[二版]2010年10月11日
[三版]2012年 8月25日
[四版]2014年 4月27日
[五版]2016年12月 4日
[六版]2018年 9月19日
[七版]2020年 6月12日
[八版]2021年 1月 1日(本日)

 健やかな一日をお祈りします!

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