廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

「いまさら盤」をいまさら語ることについて

2020年05月30日 | Jazz LP

Keith Jarrett / Somewhere Before  ( 米 Vortex SD 2012 )


「いまさら盤」である。いまさら、このアルバムについて何を語るというのか。

よくある言い回しだが、この自問自答は間違っている。それがどれほど手垢が付いたものであっても、怯むことなく語るべきである。既に語り
尽くされたと思えるものこそ、新たに語り始めるべきなのだ。それまで誰も知らなかったものを語るのはある意味簡単なことで、それは
何をどう語っても構わない、平易な道のりである。それに比べて、語り尽くされたものを新たに語り始めるのは困難を極める苦渋の道であり、
だからこそ取り組む価値がある。特に、ここで取り扱っているのはジャズという音楽である。この音楽は100年に亘り、無数の人々がスタンダード
と呼ばれる同じ曲をそれぞれの言葉で語ってきた歴史そのもの。既に語り尽くされたから、といって放棄していてはこの音楽は成立しないのである。
語り尽くされたものについて新たに語り始めることがジャズという音楽の正体なのだから、我々もそれに倣って新たに語り始めよう。

これを聴いて私が最初に思ったのが、"My Back Pages" とケルン・コンサートのパート1のどちらが美しいか、ということだった。シェリーズ・マン・
ホールで弾かれたこのピアノの音は、まるで場末の安いアップライト・ピアノのような音だ。でも、この演奏のなんと可憐で美しいことか。
物理特性としての音の良し悪しではECM盤の足元にも及ばないこの古びたサウンドで聴かせる5分17秒は、12インチLP2枚組の全量にも匹敵する。
あれだけの熱量で饒舌過ぎるほど饒舌に語ったドイツの深夜の1時間あまりの抒情も、この5分という一雫の涙には敵わない、と思った。

このアルバムは根本的に意外なほどそれまでのピアノ・トリオの常道を踏襲している。キースは新しい才能の登場として歓迎・期待された訳だが、
その線から見るとこの演奏には失望する声が出てくるのは仕方がない。ここでは新しい何かが何も提示されておらず、そういう意味では手ブラで
帰らされることになるからだ。当然、恨み節も聴こえてくる。

でも、私はこのアルバムが結構好きで、何十年も投げ出すことなく愛聴してきた。ケルンに比べれば、遥かにこちらのほうをたくさん聴いている。
評判の悪い "Moving Soon" についても、片方に大きく振れた振り子がもう片方へ大きく振れるのは自然なことだと思うから、3曲目にこれが出て
くることには何も違和感を覚えない。聴き手の立場から見て、アルバムに収録する必要があったのかという不満があるのはわかるけれど。

23歳という年齢を考えれば、もっとラディカルに暴れてもよかっただろうに、生真面目にピアノ・トリオの王道を踏んでいる。この人は根っこは
真面目な性格なのだろう。でなければ、スタンダードの解釈を20年以上も続けるなんてことはできない。彼はスタンダーズ・トリオを自身の
ライフ・ワークとして取り組んだが、これは常人には真似のできない行為である。この絶え間ない継続の力は、まるで大会に備えて毎日地道に
調整を続けるアスリートのようだ。色々議論されて評価が分かれる人だけど、そういう地力の強さのようなものは、まずは認めるべきだと思う。


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方向転換の小さなきっかけ

2020年05月29日 | Jazz LP (Concord)

Fred Hersch Trio / Hrizons  ( 米 Concord CJ-267 )


フレッド・ハーシュは名前は知っているが、あまりきちんと聴いてこなかったこともあり、よく知らないピアニストだ。以前聴いた作品(タイトル
は失念)の印象が悪くて、それ以来スコープ外の人という整理になっていた。私の悪いところは、ビル・エヴァンスを源とする系譜に入るであろう
ピアニストを無意識のうちに毛嫌いしてしまうところだと自覚している。

このアルバムを手にした時もエヴァンスの痕跡が点々と見えるので一旦エサ箱に戻したが、"Moon And Sand" や "The Star Crossed Lovers"という
好きな楽曲が入っていてちょっと興味が湧いたので、安レコだったこともあり拾ってみた。

ピアニストとしてのこの人ならではの個性はこれまでの印象と変わらず希薄だと思ったが、ハンコックの "One Finger Snap" や "飾りの付いた
四輪馬車" を取り入れるなどして、幅広いリスナーに配慮している丁寧な作りがされていることや、残響に頼らず楽器の音をクリアに録ろうと
しているところなどには好感が持てる。やはりマーク・ジョンソンが目立たないながらもいいサポートをしており、トリオとしてのバランスは
素晴らしい。

ハーシュは個性という意味では弱いけれど、打鍵は正確でしっかりとしており、鳴っている音に濁りがなくとてもきれいだ。そして、それはただ
きれいなだけではなく、良い音楽を紡ごうとする意志が感じられる。何より育ちの良さそうな素直さがよく出ていて、好感の持てるピアノだ。
やはりアナログで聴くと、いろんなことが聴き取れるらしい。アルバムとして傑作だ、という印象までには届かないし、アップテンポの曲の
処理の仕方にはもう少し工夫が必要だと思うけれど、それでも頑なにスコープ外とする必要はないな、という風に自分の中での位置付けが
いい方向に変わったように思う。そういう小さなきっかけをくれたアルバムだった。


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己の気配を消す忍びの術

2020年05月27日 | Jazz LP (Milestone)

Wynton Kelly / Full View  ( 米 Milestone MSP 9004 )


ジミー・コブが亡くなった。91歳だったそうだ。突然の訃報に驚いたが、Yahooニュースに出たことにも驚いた。リー・コニッツの時は出てたっけ?
"Kind Of Blue" 最後の生き残り、という紋切り型の書きっぷりにうんざりしながらも、それは悲しい話だった。

その高名さとは裏腹に、50~60年代の全盛期に唯一自己名義のリーダー作を作らなかった、寡黙なドラマーだった。ドラマーがリーダー作をつくる
ことの是非について私はどちらかと言えば懐疑的な立場だが、彼もそうだったのかもしれないとぼんやりと考える。

強者揃いだったマイルス・バンドのドラマーたちの中でも、彼がいた時期のアルバム群の重要性は際立っていて、それは幸運な巡り合わせだった
と言ってしまうのは不公平だろう。彼がいたからこそ、である。"Kind Of Blue" がフィリー・ジョーだったら、若しくはトニーだったら、と考えると
それは明白なことに思える。あそこまで静かな音楽にはならなかっただろう。

彼のドラマーとしての最大の美質は、忍びの術で己の気配を消して、音楽を黙って支えたことに尽きる。これは共演する演奏家たちにとっては
最高の存在だったはずだ。派手なおかずを入れず、完璧なリズムをキープし続ける。濡れたように輝くデリケートなシンバル、羽虫が薄く
透き通った羽根を震わすようなブラシ音など、彼の演奏はいつも素晴らしい歌い手の静かな唱を聴いているようだった。

マイルス・バンドでの共演が縁となって、ウィントン・ケリー・トリオの常設メンバーとなってからケリーは傑作を連発するようになるが、
その中で私が最も好きなアルバムは、ケリー晩年のこの作品だ。それまでの跳びはねるような弾き方からは一皮むけた、グッと落ち着いて、
深いタメの効いた弾き方になっていて、濃厚なペーソスが漂う。ありふれたスタンダードに、他では聴いたことがないような新鮮さと
ディープな情感を感じる。

そして、この演奏に完全に一体化したジミー・コブのドラムが素晴らしい。無駄な音は一つも出さず、完璧にケリーのピアノと同化する。
最適なリズムを選択することで、ケリーは最高の演奏を残すことが出来たのだ。いい意味でドラムの存在感を消し去った音場感の中で、
ピアノは孤高の音を響かせている。

素晴らしい演奏をありがとう、ジミー・コブ。あなたは最高のドラマーだった。




R.I.P Jimmy Cobb


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上品で優美なピアノ その2

2020年05月26日 | Jazz LP (Vanguard)

Sir Charles Thompson / Trio  ( 米 Vanguard VRS 8018 )


サー・チャールズ・トンプソンのピアノを堪能できるもう1枚の10インチで、こちらはドラムが抜けたトリオ。スキーター・ベストはフレディ・グリーン
とは違ってシングル・ノートでソロを取るため、演奏の建付けが先の10インチとは違っている。

"Love For Sale" などモダンの楽曲比率が高いので、いわゆるスイング・ジャズのバタ臭さはなく、スマートな音楽の印象が残る。部屋の中の空気が
サッと入れ替わって、比喩としてではなく、本当に微かに芳香が漂うような雰囲気になるから不思議なものだ。

取り上げる題材やスタイルは間違いなく古いスイング系だけど、サー・チャールズ・トンプソンという個性がそういうものをあっさりと塗り替えて、
まったく別の音楽へと変えているところが凄い。つまり、ここで聴けるのはマイルスやコルトレーンたちがやっていた音楽と何ら変わらない、芸術と
しての営みである。ヴァンガードという一見畑違いの領域の、こんな小さなサイズのレコードの中で、それはひっそりと行われている。そのことを
知る時、ただ上質で優美な音楽を聴けて嬉しくなるだけに留まらず、驚きと静かな興奮を覚えるのだ。

この人ならもっといろんなレーベルでアルバムを作っても傑作を連発したんじゃないかと思うけれど、そうならなかったのは残念。リヴァーサイド
なんかだとイメージにもよく似合うのに。ヴァンガードはレコードの音も良くてとてもいいレーベルだけど、印象が強いだけに十把一絡げに
"スイング系"として括られてしまったのかもしれない。よく聴けばそれぞれ唯一無二の個性があって、一人ひとりがみんな独立した音楽をやっていた
ことがわかるはずだけど、当時は誰もそこまでは認知してくれなかったのかもしれない。


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上品で優美なピアノ

2020年05月25日 | Jazz LP (Vanguard)

Sir Charles Thompson / Quartet  ( 米 Vanguard VRS 8006 )


木曜日の夕刻2ヵ月に振りにパタパタしたが、ブランクのせいで腕がなまっていたことや店内の閑散とした雰囲気にビビってしまったこともあり、
帰宅後もどうも掘り残した感が拭えず、安レコから「ここ掘れワンワン」としつこく呼ばれている声が聴こえて、夜も眠れない。これはイカン、
ということで週末にユニオンで再度掘り起こし。すると、これが850円で転がっていた。老眼のせいで数字を見間違えたか、と眼をゴシゴシ擦って
みたが、間違っていなかった。心理学の世界では、人が物に向かって話しかけるのは普通のことだが、その物が人に話しかけるようになると、
これは加療の対象となるらしい。私の症状はCOVID-19禍のストレスが原因なのか、それとも元々病んでいたのか、よくわからない。

サー・チャールズ・トンプソンは2016年に98歳で東京近郊の病院で亡くなっている。奥さんは日本人で、2002年以降は千葉県松戸に住んでいた。
パーカーとも共演し、"Robbin's Nest" を作曲し、2000年以降も新作をリリースするなど、生涯スイング・ジャズ一筋の大ピアニストだった。

この人の演奏はとにかく究極の洗練と上品さが身上で、こんな気品に満ちたジャズピアノを弾く人は他にはいない。ピアノだけが洗練されている
のではなく、音楽全体がその気品で包まれる。それは正にマジックと言えばいいのか、それともミラクルと言えばいいのか、とにかくそれが凄い。
あまりに上質過ぎて、スイング・ジャズという領域をはるかに超えている。

このアルバムはフレディ・グリーンのリズム・ギターが入っているところがミソで、まあ、最高の内容である。たった4曲しか収録されておらず、
10インチの各面は半分しか溝が切られていないのが何とももったいない。もっとたくさん録音して欲しかった。

彼の名前に "サー" の称号を付けたのはレスター・ヤングで、これを聴けばレスターの気持ちがよくわかる。星の数ほどいるであろうジャズの
ピアニストの中でも、これほど澄み渡った気品に溢れた優美なピアノは他では聴けない。日常的に聴くのがためらわれるほど美しい。


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管楽器の生々しい音を愉しむ

2020年05月24日 | Jazz LP (Riverside)

Cannonball Adderley / Alabama Concerto  ( 米 Riverside RLP 1123 )


ジョン・ベンソン・ブルックスは40年代にレス・ブラウンやトミー・ドーシーに編曲や自作を提供するなどしていたいわゆるアレンジャーで、
ギル・エヴァンスと親交があった。ギル・エヴァンスはブルックスが書いた "Where Flamingos Fly" を好んで取り上げるなど、2人は仲が良かった。
ジャズの世界では Vikレーベルに1枚だけ残した "Folk Jazz U.S.A." で知られている。

その彼が南部の田舎で暮らす人々の生活を題材に書いた組曲 "アラバマ協奏曲" をキャノンボール、ファーマー、ガルブレイス、ヒントンの4人が
演奏したのがこのアルバム。ジャズのレコードではこれ以外には録音はないんじゃないだろうか。まあ、究極のマイナーアルバムだ。
4部構成で、譜面に込められたブルックスの想いを読み取ることができる知的な演奏家が必要ということで、この4人に白羽の矢が立ったようだ。

各楽曲はジャズのスイング感は希薄だが、元々のコンセプトがインプロヴィゼーションを中核にしながらもジャズの音楽を狙ったわけではない、
ということで、これはこれでいいらしい。"ポーギーとベス" のように歌があるわけではなく、インストだけで普通の人の生活を物語るというわけ
だから、これはなかなか難しく大変な仕事だと思うけれど、4人の一流はさすがにしっかりとした演奏で、じっくりと聴かせる。

ピアノとドラムがなく、ギターとベースは軽くオブリガートを付ける程度なので、実質的にはアルトとトランペットの無伴奏による二重奏という
内容となるため、管楽器の演奏には一定の腕が必要になること、そして、そういう内容だから管楽器の音が上手く録音されていなければいけない。
そう考えると、このアルバムは成功していると言える。特にキャノンボールのアルトは素晴らしい演奏だし、そういう演奏をリヴァーサイドの
ステレオ・プレスが実に生々しく再生してくれる。このレコードの音質はクリアで、楽器の音が非常にくっきりとしている。

普通の4ビートでスイングする音楽ではないので、そういう基準で聴いてもこのアルバムの良さはわからない。これはキャノンボール・アダレイと
アート・ファーマーという2つの知性が奏でる楽器の生々しい音をまるごと愉しむアルバムだ。リヴァーサイドのステレオ盤、サイコー!という
ノリで音量を上げて聴くとよい。


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コルトレーンが残した最高の演奏

2020年05月23日 | Jazz LP (Impuise!)

John Coltrane / Selflessness  ( 米 Impulse AS-9161 )


レコードとして残されたコルトレーンのアルバムの中で、最も優れた演奏が聴けるのがこのアルバム。ここに収録された1963年7月のニューポート・
ジャズ・フェステイヴァルで演奏された "My Favorite Things" と "I Want To Talk About You" は、コルトレーンという枠を超えて、ジャズ史において
全てのサックス奏者が残した演奏の中でも筆頭の1つに挙げていい。このアルバムの前では、アトランティックやプレスティッジの作品群などは
存在する価値は何もないと思えてくる。

この演奏が恐ろしいのは、コルトレーンのサックスがゾッとするほどなめらかで美しい質感を見せることだ。パーカーやロリンズとは全く違う、
柔らかくなめらかな音の質感。それは女性の身体を抱き寄せた時に感じる、あの質感と重なる。そして、それがバラードのような形式ではなく、
こういう硬質な演奏の中であっても前面に表出しているということが何十年も聴いてきた今でも信じられない。ただ単に楽器の演奏として頂点を
極めたというだけでは、これほどの深い感銘を受けることはない。この演奏の他にはない凄さというのは、この音色が持つ信じ難い質感にある。

この演奏の前後数年のコルトレーンはスタジオ・ワークでは大人しい表情を見せていた時期だが、ライヴに立つ時はまったく別の姿だった。
ライヴ演奏とスタジオ・ワークはあくまでも別物だとして線引きして考えていたようで、それがこの時期のコルトレーンという複雑な人物の
多面的な姿を漏れなく伝えることになっていて、非常によかったと思う。

そして、それらをまとめて聴くことで、どの姿も根本的は同じ姿だったのだということがよくわかる。インパルスの作品群が優れているのは、
何も宗教的高みを見せたとかフリーをやったからではなく、そういうものも含めてコルトレーンの姿が総合的に映っているからであって、
こういうのはそれ以前のレーベルでは見ることはできない。だからこそ、コルトレーンはインパルスのアルバムを聴くのが圧倒的に面白いのだ。


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2ヵ月ぶりの短いパタパタ、今後の課題、など

2020年05月22日 | Jazz雑記
止むを得ない用事があったので、昨日は午後から外出した。出かけること自体に罪悪感みたいなものを感じるけれど、まあ仕方ない。
別にそんな風に思う必要なんてないはずなんだけど、自然とそういう気持ちになるんだから、やっぱり異常事態なんだなあと実感する。
罪悪感ついでに、と言ってはなんだが、ディスクユニオンの新宿ジャズ館へ立ち寄ってきた。今週の月曜日から時短で営業を再開している。

   

新宿東口、16時頃の風景。ここは普段なら人でごった返している所だが、ほとんど人がいない。私だって、新宿の街を歩くのは2ヵ月振りだ。
新宿や渋谷は店が開いていなければ、来たところですることが何もない。当たり前のことだけど、今回の件でそれが身に染みてよくわかった。
スピルバークの映画に「アイ・アム・レジェンド」というのがあるけど、何となくあれを思い出す。


入り口で若い店員から消毒液をシュッとしてもらい、密を避けるために階段で3Fへと上がる。

   

客が誰もいない・・・。貸し切り状態だ・・・。気味が悪い。

新着コーナーを見ると、安レコがたくさん出ていた。よしよし、と思いながら、2ヵ月振りの懐かしきパタパタである。
どことなく落ち着かないものを感じながらも6枚ほど抜き、吟味の上、これを拾って30分もかけずに店を出た。




安レコ漁りの極意は、「決してたくさんは買わないこと」。安いからと言ってホイホイ買っていくと、結局金額が嵩んで高額盤を買うのと
何ら変わらなくなってしまう。「こんなに少ないお金でこんなにいいレコードを買ったぞ」、これに尽きる。

晩年のエリントンのこのレコード、再発は時々見かけるけれど、初版は何気に見かけない。安レコは安レコで、意外に難しいのである。

安レコはボリュームがあるので、エサ箱を一通り見るだけでも時間がかかる。これをどうするかが今後の課題だと認識した。
中古レコード屋で集団クラスターが発生した、なんてことになったらエライことになる。この先も楽しい猟盤生活を持続させるために、
店を訪れるマニア全員が節度ある、新しい猟盤スタイルを実行する必要がある。とにかく、自分さえよきゃそれでいい、というのはやめよう。


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バド・パウエルの肖像

2020年05月20日 | Jazz LP (Columbia)

Bud Powell / A Portrait Of Thelonious  ( 米 Columbia CL 2092 )


1961年12月、渡仏したキャノンボール・アダレイはプロデューサーとして、パリのシャルロット・スタジオで2つのセッションを録音した。
1つは15日にバド・パウエル、ピエール・ミシュロ、ケニー・クラークの "The Three Bosses" にドン・バイアスとアイドリース・スリーマンを加えたもの、
もう1つは2日後の17日に管楽器を外したパウエルらのピアノ・トリオによる演奏。但しこの2つのセッションは一旦お蔵入りとなり、前者は1979年、
後者は1965年になってようやく発売された。後者はアルバムとして発売される際にスタジオ演奏の上に観客の拍手をオーヴァー・ダビングしている。
どうしてこういう経緯を経たのかはよくわからない。

アルバム・タイトルも不思議で、確かにモンクの曲が半分を占めているとは言え、この構成から「セロニアスの肖像」とするにはいささか無理がある
ような気がする。メンバーたちはそういうつもりでレコーディングをしたとは思えず、このアルバムには制作上の不可解な混乱の跡が残っている。
もしかしたら、録音時点では発売先は決まっておらず、後にコロンビアがキャノンボールから版権を買い取ったのかもしれない。そのため、制作の
意図と発売の形式が噛み合っていない結果となってしまったのかもしれない。

そういうわからないことだらけのアルバムではあるけれど、幸いなことに、ここで聴ける演奏は圧倒的に素晴らしい。私自身は欧州移住時に録音
されたパウエルのアルバムの中では、これが一番好きだ。

パウエルは運指が滑らかでフレーズもイマジネイティヴだが、ここでの演奏にはそういうことにプラスして深いタメが効いている感じがある。
だから演奏全体に哀しみのようなものが漂っていて、それが切ない。ヴァーヴ盤で聴けるような朽ち果てていこうとする際の哀感ではなく、
音楽家として成熟を極めた感性から放たれる深い芳香のようなものだ。この演奏に枯れている様子は見られず、逆にみずみずしいくらいだ。
選曲も良く、アール・ボステックの "No Name Blues" なんてイカした曲も入っている。

そういうことを感じることができるのは、録音が良いおかげかもしれない。ステレオ盤は聴いたことがないのでよくわからないが、手持ちの
モノラル盤は音が深く澄んでいて、適度な残響と拡がりのある空間が感じられるとてもいい音だ。楽器の音もクリアで演奏の微細なニュアンスも
手に取るようによくわかる。そのおかげで、演奏の良さがより際立っているのかもしれない。

パウエルのピアノ・トリオにはただのピアノ・トリオだけには終わらないものがたくさん含まれているので、やはり管楽器のバックではなく、
トリオなり、ソロで聴きたい。そういうピアニストは、エヴァンスなどを含めてごく一握りしかいない。このアルバムは「セロニアスの肖像」
ではなく、「バド・パウエルの肖像」なのだ。


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エリントンの手引きで

2020年05月18日 | Jazz LP (Reprise)

Bud Powell / In Paris  ( 仏 Reprise RV. 6098 )


1963年2月にチューリッヒにいたエリントンは紹介されて演奏を聴きに行ったダラー・ブランドのトリオを当時自身が契約していたリプリーズ社へ
働きかけて録音させたが、これと並行して同じく2月にパリにいたバド・パウエルにもリプリーズ社で録音させている。当時のパウエルは欧州各地の
クラブでの演奏は積極的に行っていたが、スタジオでのアルバム収録が少ない。アメリカからかつての仲間がパリにやって来た際に声を掛けられて
レコーディングに入る、という程度だったようだ。エリントンはそんな旧友に対して、スタジオに入ってレコーディングをするよう、勧めたのでは
ないだろうか。この2月のリプリーズ社のレコーディング・プロジェクトは、どちらかと言えばこのパウエルのほうがメインだったのかもしれない。

一聴すれば明らかなように、パウエルはとても調子が良かったようで、闊達な指捌き、陽気な唸り声、演奏の明るい表情などが強く印象に残る。
自身がよく知ったスタンダードばかりを選び、それらのテーマのメロディーの歌わせ方がとてもきれいだ。この部分一つとっても、パウエルの
意識がすっきりとクリアだったことがわかる。

全盛期の神憑りの演奏と比べて取っ付きやすいと言われることが多くて、それはそうかもしれないけれど、やはりこれはどこからどう聴いても、
パウエル特有のピアノ演奏だ。この独特のタイム感、ノリの感じはパウエルだけのもので、全盛期と言われる頃の雰囲気そのままである。
誰にも追い付くことのできない疾走するシングルノートによる長いフレーズなどは出てこないけれど、このゴツゴツとした固有のノリはまったく
失われていない。表情の明るさが際立っている分、却って昔にタイムスリップしている感すら漂う。

当時、既に早くからフランスに移住していた "カンサス・フィールズ" によるしっかりしたドラムにも支えられて、トリオの演奏には華と勢いがある。
「晩年のバド・パウエルは・・・」というネガティブな枕詞は必要ない。バド・パウエルだけがみせることができたジャズの神髄の1つを聴けばよい。
レコーディング終了後、レコードはすぐにアメリカ、カナダ、フランス、ドイツ、イタリア、日本、アルゼンチンなどの各国で発売された。
世界中がバド・パウエルを待っていたのだ。


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セロニアス・モンクの研究

2020年05月17日 | Jazz LP (Reprise)

Dollar Brand / Duke Ellington Presents The Dollar Brand Trio  ( 米 Reprise R-611 )


1963年に欧州を巡演していたデューク・エリントンがダラー・ブランドのことを知り、LP3枚分の録音をさせて、その中からセレクトして
リリースされたのがこのアルバムで、これがアメリカ市場でのデビュー盤となった。だから、このアルバムは一定の意図をもった編集が
されていて、このアルバムを聴いてダラー・ブランドはこういう人、と決めつけると見誤る可能性がある。

とにかくモンクの "Brilliant Corners" を演っているのが驚きで、ほとんど誰も演奏しないこの難曲のオリジナルの雰囲気をバッチリと再現していて、
これが後について回る「モンクの影響を受けた」という解説に繋がっている。他は自身のオリジナル曲で、ピアノの弾き方は明らかにエリントン~
モンクの中を通過している最中。この時期は、まだ手探りで模索している様子がありありとわかる。エリントンにしてみれば、自分と同じ匂いを
嗅ぎ取ったからこそ手を貸したのだろうけど、後の姿を知っている我々にはまだ習作の時期だったんだよ、これは、ということがわかるのである。

音数の少ない、隙間の多い弾き方で、"African Piano" と同一人物だとはとても思えない。楽曲もモンクの作風を真似たものが多く、その研究成果は
上々だと思う。まじめにモンクを研究し、愚直にコピーするところから始めたんだろう。まだ本来の個性は表出していないけれど、打鍵のタッチが
きれいで、ピアノの上手さが強く印象に残る。

ピアノ・トリオとして聴けるレコードは少ないので、そういう意味では貴重な1枚。次作からはこういうモンクへの心酔からはきちんと卒業して、
自分の道を歩き出そうとする姿が捉えられている。そうなる前の珍しい姿が記録された1ショットだ。


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国内盤の底ヂカラ(その14)

2020年05月15日 | Jazz LP (国内盤)

Dollar Brand / This Is Dollar Brand  ( 日本 トリオ・レコード PA-7063 )


このアルバムは自身初のソロ・ピアノ作品として1965年3月にロンドンで録音されているが、実際に発売になったのは1973年。正確な経緯はよく
わからないが、おそらくは1969年にカフェ・モンマルトルで収録された "African Piano" が脚光を浴びたために、眠っていたこの音源をレーベルが
慌てて蔵出しリリースしたのではないだろうか。"African Piano" も初版はデンマークの Spectator Records が1970年にリリースしたものだが、
世間一般に認知されているのはドイツの JAPO Records が1973年に出した方だろう。つまり、ダラー・ブランドの個性が広く世間で受け入れられる
には、70年代になるまで待たなけれいけなかったということだ。

このアルバムは、ダラー・ブランドがアフリカ・ブランド化される遥か以前に録音されているため、そういう特定の色付けがされていない、
ある意味で純粋に音楽的な内容となっているのが非常に好ましい。ランディ・ウェストンや、とりわけエリントンのナンバーをメインに据えて、
それまでのジャズ界には見当たらなかったまったく新しい感覚で弾き切っている。

この非アメリカ的で、非ヨーロッパ的な、当時のジャズ界としては第三世界的な感覚は、それが一般的な人気に繋がるかどうかは別にして、
彼に初めて接した人々には驚異をもって迎えられたことは容易に想像できる。ただ、65年という時期はまだ早過ぎたかもしれない。

ここで聴かれる感覚は、非ジャズ的と取る向きもあったかもしれない。ジャズにおいて現代では当たり前になっている「新しい風」の流入も、
当時は音楽形式の進化こそ日常的にあっただろうが、このような音楽の土台となる感性の更新はあまり経験がなかったのではないだろうか。

ところが、時代背景的に受け入れが可能になった途端に「アフリカ物」が大量生産されるようになったのは、私自身は閉口するところがある。
本人がどう思っていたのかはよくわからないけれど、ちょっと企画が露骨過ぎて、商業主義臭さが鼻につく。だから、そうではないものを
探しながら聴くようにしているのだけれど、このアルバムの自然な音楽観は素晴らしい。

加えて録音が素晴らしく、ピアノを堪能するには最適の音質だと思う。ハイ・ファイというより、ピアノの残響が深く録られていて、
それが静寂感を醸し出し、音楽を豊かに再現している。日本トリオ・レコードも頑張った。国内盤のイメージを覆す音で、さすがである。


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国内盤の底ヂカラ(その13)

2020年05月14日 | Jazz LP (国内盤)

Miles Davis / 'Round About Midnight  ( 日本コロンビア PL 5062 )


エサ箱でこれを手にした時、ペラジャケ愛好家がなぜペラジャケを買うのかという疑問の答えがわかったような気がした。

これら国内初版はオリジナル盤と比べると音の質感が違うものが多いが、ペラジャケ愛好家にとってそういうのは重要なことではない。
製品としての魅力に惹かれて買うのだ。オリジナルとは音が違うということは頭ではわかっていながらも、ジャケットの淡い光沢だったり、
レトロな雰囲気だったり、盤を手にした時の重みだったり、そういう五感に直接訴えかけてくる何かに惹かれて買うのだ。

オリジナル盤を買うことを趣味とする人は、蒐集が一回りして買う物が無くなってくると、ステレオ・プレスや別国プレスに興味が移っていく。
レコードと戯れることが好きだから、買うことを止めることなんてできっこない。ディープでコアなマニアのSNSで、ステレオ・プレスの
音の良さを驚きをもって語られていないものはない。モノラルのオリジナルが唯一絶対と思い込んでいたのが、実はそうではなかったのだと
いうことにそこでようやく気が付く。

工業製品だからプレスが違えば物理的に音質が違ってくるのは当たり前で、そのことを目の当たりにした時にレコードへの偏愛に再び火が付く。
新しく目の前に現れた興味の対象に翻弄されながらも、レコードの魅力とはどれが一番音が良いかではない、それぞれに独自の魅力があるのだ、
ということがわかってくる。例えそれが自分好みの音ではなかったとしても、ジャケットの質感が好きだから、盤の手触りの質感が好きだから、
という理由で自分のお気に入りの列に加わることもあるのだ。そんな訳で、ペラジャケ愛好家はペラジャケを買うのだろう。

このアルバムも、アメリカのコロンビア盤とは音の質感は違う。録音が少し古いせいか、オリジナル盤はデッドな音場感で決して高音質という
感じではないが、楽器の音は太くしっかりとしている。それに比べてこのペラ盤の音は若干くすみがあり、やや大人しいかなという印象だが、
それでも悪くはない。

盤はレーベルがエンジで、フラット・エッジ。オリジナルよりも重い。盤の質感はこちらの方がいい。このタイトルのエンジ・レーベルは
カナダ盤の仕様で、アメリカ盤にもごく稀にあるらしいが、これはおそらくエラー・プレスだろう。グレン・グールドのバッハのパルティータの
レコードにも同じパターンがあるので、コロンビアでこういう事例は珍しくないようだ。米オリジナルは6ツ目でいいと思う。
ジャケットの写真の解像度も良好で、オリジナルとはまた違う趣がある。

但し、何でもかんでもペラジャケがいい、とまではやはり振り切れない。結局は物による。且つ、安くなければ買う気にもならない。
あくまでもそれは別荘であり、セカンド・ハウスだ。出物に遭遇した時にのんびりと買えばいいと思っている。


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最も美しく録られたエヴァンス

2020年05月12日 | Jazz LP (Warner Bro.)

Bill Evans / New Conversations ~ Monologue, Dialogue, Trialogue  ( 米 Warner Brothers BSK 3177 )


晩年のエヴァンスの音が一番きれいに録れているのが、このレコード。的確でしっかりとした打鍵から生まれる美しい音を全身に浴びるように
聴くことができる。ただ単にピアノの音が美しいだけではなく、音が拡散していく空気感もしっかりと録られていて、繊細で震えるような響きの
何と美しいことか。このアルバムはコロンビアのスタジオで録られている。メジャー・レーベルの特権である恵まれた環境の中でエヴァンスが
録音できたのは幸いなことだった。

副題にある通り、エヴァンスがソロ、2重奏、3重奏と多重録音で、エレピも少し交えながら美しい楽曲を奏でる。ここにあるのは、溢れんばかりの
美音の波。純化した音楽の結晶。透徹した目線。それ以外は何もない。何かに達した音楽。

多重録音やエレピが、という話はこのアルバムの本質とはおよそ関係がない。無心にピアノに向かう演奏者が紡ぎ出す音と、それが構築する音楽の
姿を受け止めればそれでいいのだと思う。もはや、来るところまで来てしまった、という感がある。

自らが作曲した "For Nenette" などの佳作も交えて美しい楽曲が並ぶ中、ラストに置かれたエリントンの "Reflection In D" に心打たれる。
これほど、このアルバムを締め括るのに相応しい曲はないだろう。エヴァンスが弾くと、エリントンもまるでドビュッシーのように響く。
時間の流れがゆっくりと遅くなり、1日がまさに終わろうとするその間際にいるような感覚。
美し過ぎて、言葉が出てこない。


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叶わぬ願い

2020年05月10日 | Jazz LP (Milestone)

Lee Konitz / Duets  ( 米 Milestone MSP 9030 )


このアルバムを語る時は概ね自然と肩に力が入ってしまい、なんだか敷居の高い高尚な作品のような印象になってしまうけれど、実際のところは
そういう感じはまったくない。コニッツの音楽は本質的に "軽い" 音楽で、そこがいいのだ。通して聴くと疲れてしまうというようなことはなく、
アルトをメインにしているせいか、全体的に心地よい軽快さ、爽やかさがある。あの "Motion" もどこか浮遊して彷徨っているようなところがあって、
重苦しいところはない。それはまるで本人の人柄のように、音楽の中からどうしようもなくにじみ出ている。

難解さなんてどこにもない。メロディーから離れてインプロヴィゼーションを取る時点で既に自由を手に入れた、ということがコニッツのアルバムを
聴いているとよくわかる。コニッツの演奏が始まると、音楽の風景は一変する。その一瞬で変わる場面転換が快感だ。

"Alone Together における変奏曲" でも、自由な演奏をしながらも常に主題を挟むことでこの演奏がスタンダードであることを忘れさせないから、
聴き手は安心して演奏に身を任せることができる。演奏者の自己満足ではなく、聴き手をちゃんと意識した作りをしている。

リッチー・カミューカとのデュオではカミューカがリズム感に優れた演奏をするので、コニッツも安心して歌うようなアドリブラインをとる。
こうして比較すると、コニッツがアドリブをとる時にいつも見せる少しうわずったような語り口がよくわかる。そうそう、これがコニッツの
歌い方なんだよなあ、と今となってはしみじみと聴き入ってしまう。

レイ・ナンスとのデュオは、民族音楽臭の抜けたバルトークの音楽のようで面白い。レイ・ナンスはジャズでは普通やらないピチカートも多用して、
クラシック音楽の雰囲気が行ったり来たりする。なかなかやるじゃん、という感じで、御大もすごく頑張っている。コニッツのコンセプトに
深く共感した演奏で、それに応える力があるのが素晴らしい。エリントンのレコードだけ聴いていてはわからないこの人に実像の一歩近づける。

このアルバムの唯一の残念なところは、各演奏が短いところ。どの演奏ももっとしっかりと聴きたいのに、スペースの都合であっと言う間に
終わってしまうのがとにかく物足りない。これだけ充実した内容なのだから、最低でも2枚組にして欲しかった。優れた演奏にはいつもこういう
「おあずけ感」が残るものだが、このアルバムには特にそう感じる。パート2をやって欲しかったけど、叶わぬ願いとなってしまったな。


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