廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

R.I.P チャーリー・ワッツ

2021年08月28日 | Rock CD、LP

The Rolling Stones / Tattoo You  ( 日本 ユニバーサルミュージック UICY-20198 )


私が初めて聴いたストーンズがこれだった。新譜として発売されて、少し経った後だったと思う。

ストーンズの名前はもちろん知っていたし、ロック界における位置付けや存在意義もある程度はわかっていたが、当時は別のグループに
夢中になっていたので、少ない小遣いでは当然手が回らず、通学路の途中に通り抜ける商店街の中にあった貸しレコード屋 "友 & 愛"で
借りたんだと思う。懐かしき高校時代。

その後、ストーンズのアルバムはほぼ全部聴いたけど、やはり若き日に刷り込まれた最初の1枚の印象は強烈で、未だにこれが1番好きかも
しれない。私は後期のストーンズのアルバムが結構好きで、初期の頼りないサウンドのものよりは後期のバリバリにリッチなサウンドの
ストーンズのほうがどちらかと言えばよく聴くかもしれない。"Undercover" や "Steel Wheels" なんかも大好きだ。

今聴いても、ボブ・クリアマウンテンのサウンドはやっぱり凄いと思うし、私がレコードのエンジニアの名前を最初に意識したのはこの人や
スティ-ヴ・リリーホワイトあたりが最初だったかもしれない。

ソニー・ロリンズが参加しているということを知ってたまげたのは随分後になってのことで、当時は、すっかりやる気のなくなった
チャーリー・ワッツをなんとかその気にさせるために、ミックがジャズの大物を連れてくればワッツも喜ぶだろうと考えて、
ロリンズを連れて来た、なんて話が語られていたけど、真相はどうだったんだろう。ロリンズのテナーは終盤になって少し出てくる
だけだけど、それでもその存在感はハンパなく、まあさすがの貫禄だ。

そこまでして天下のミック・ジャガーからも大事にされたチャーリー・ワッツも、とうとう鬼籍に入ってしまった。
自身のソロ・アルバムでは徹底的にジャズをやる、という気のいいおじさんだったけど、今まで1枚も聴いたことがないや、と
Amazonを見てみると、中古はすべて完売。みんな考えることは同じか。

ミック・ジャガーの変てこりんな踊りがクセになる "Start Me Up" なんかも、よく聴くとチャーリー・ワッツのドラムがすごくタイトで、
このドラムがあればこそだったんだなあ、と今更だけどそう思う。

ストーンズの音楽は客観的には終始一貫して変な音楽なんだけど、その変さ故に世界最強のロックバンドになっているという不思議さがあり、
ミック・ジャガーのこれまた意外なほどのバンド経営の上手さのおかげで、間もなく結成60周年を迎えようとしている。これは奇跡である。
その直前にチャーリー・ワッツが亡くなったのは残念なことだった。R.I.P。



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夜の記憶

2021年08月24日 | Jazz CD

Jakob Bro Trio / Who Said Gay Paree ?  ( EU Loveland Records LLR010 )


2008年5月にコペンハーゲンの Sweet Silence Studios で録音されたギター・トリオによるアルバムで、スタンダード集だ。
アルバム・タイトルの "Who Said Gay Paree?" というのはコール・ポーター作だそうが、他では聴いたことがない。
また、コルトレーンの "Fifth House" なんかもやっていて、ちょこっと捻りが効いている。

2015年にECMと契約する前は地元の "Loveland" というレーベルから毎年1作程度のペースをアルバムをたくさん出しているが、
日本では当時は「知る人ぞ知る」という感じだったような印象が残っている。ECM契約後はレーベル・パブリシティーの違いから
ようやく認知度が上がったのではないだろうか。私がこれを中古で拾ったのは10年以上前のことで、当時は何の予備知識もなかったが、
純粋なギター・トリオでスタンダードをやっているということと、何となく良さそうな予感を感じるジャケットに惹かれてのことだった。

全編ミディアム~スロー・バラードとして演奏されており、深夜の静まり返った街の風景を思わせる音楽となっている。
ぼんやりとした薄明りの中に浮かび上がる光と影、誰もいない石畳の道、そういう静けさを表現しようとする音楽。
こういう音楽を求める人は多いのではと思うけれど、その存在自体が静かすぎる。

ECM契約後の音楽とは雰囲気が違う。ECMは良くも悪くも音楽をECMの色に染めてしまい、それがアーティストの隠れた個性を
引き出す場合もあれば、ECMの色彩に塗りつぶされてしまう場合もある。このアルバムはそういう懸念とは無縁で、
おそらくこちらの方が彼の素の姿なんだろうと思う。

彼のギターは他の誰にも似ていない。強い個性がある訳ではないが、没個性ということでもない。
古いメロディーを歌うことに没頭しているけれど、音楽自体は現代的な雰囲気に仕上がっていて、その辺りの匙加減が絶妙。

深夜の静けさの中で、誰もが抱えている古い記憶を慈しむような、滋味深い音楽が流れてくる。



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美しいメランコリア

2021年08月22日 | Jazz LP (Capitol)

Duke Ellington / The Duke Plays Ellington  ( 米 Capitol T-477 )


エリントンが自作の曲をウェンデル・マーシャル、ブッチ・バラードらとのピアノ・トリオで弾いていく。
とても落ち着いた、澄んだ心持ちで弾いている様子が素晴らしい。エリントンらしい諧謔に満ちた、それでいて不思議と美しいメロディーが
どの曲にも零れんばかりに溢れている。ただ、楽譜に書かれた音符を弾いているだけでは、この世界を生み出すことはできないだろう。
エリントン独特の間の取り方や打鍵の質感があってこそ、である。

このアルバムの白眉は、"Melancholia" 。ベースとのデュオで奏でられるこの美しさは筆舌に尽くし難い。
これまでにいろんなミュージシャンがこの曲を取り上げてきたが、誰一人、この美しさを再現できた者はいなかった。
あのマイルスも畏れ多いと思ったか、この曲を演奏することはなかった。おそらく、唯一、演奏するのに相応しい人だったにもかかわらず。
ウィントン・マルサリスのように、この孤高の世界に触れるという暴挙をしでかす無神経さは彼には当然なかっただろう。

エリントンはピアノ・トリオのアルバムを他にも何枚か作っているが、このアルバムには他の作品にはない特別な雰囲気が漂っている。
高貴で、エレガントで、洗練された静謐さのようなもの。これを聴いていて思い出すのは、モンクのSwing盤である。
エリントンが弾く "Melancholia" や "All Too Soon" には、モンクがフランスのスタジオで一人寂しく弾いた "'Round About Midnight" と
同じ雰囲気がある。作曲者本人にしか語りえない曲想の核のようなものが表現されている。

このアルバムは初めは10インチでプレスされたが、そこには "Melancholia" や "All Too Soon" が含まれていない。
だから、聴くなら12インチで。



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彼女が本当に好きなら

2021年08月15日 | Jazz LP (Vocal)

Billie Holiday / The Blues Are Brewin'  ( 米 Decca DL 8701 )


ビリー・ホリデイの歌手としてのキャリアは1930年代前半から59年までと相当の期間があったが、それに比べて録音はさほど多くなく、
一通り聴くのに時間はかからない。そんな中で最も埋もれているのがこのアルバムだろう。1946年から49年の間にデッカに吹き込まれた
SP録音の曲を58年に12インチLPに切り直したもの。

スタンダードは "Lover Man" の方へ片寄せされて、それ以外の無名のブルースばかりを集めたせいで地味な印象となっているが、
これが非常にいい出来だ。声は若々しく、表情も明るく、録音状態も良好だ。ルイ・アームストロングとのデュエットも2曲含まれていて、
いいアクセントになっている。

アルバム・タイトルになっている "The Blues Are Brewin'" はビリーの紹介映像などの中でよく使われる曲で、彼女のレパートリーとしては
曲名は知らなくても聴いたことがあるという人は多いであろう。50年代になってノーマン・グランツが録音する頃には声がやつれてくるが、
まだそうなる前の(少なくともレコードで聴く限りにおいては)元気そうで楽しそうに歌う様子が前面に出ていて、とてもいい。

とかく重苦しい雰囲気のイメージが付きまとう彼女だが、実際にレコードを聴くと決してそうではないことがよくわかる。
歌うことが楽しくて仕方がない、という様子がストレートに伝わってきて、聴いているこちらもそれに感化されるようなところがある。
みんながそう言うから、ということではなく、彼女が本当に好きななら伝わるものがしっかりとある、いいレコードだと思う。



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メル・トーメが歌うレコード

2021年08月14日 | Jazz LP (Vocal)

Artie Shaw / Plays Cole Porter  ( 米 MGM E-517 )


レギュラー盤の新入荷コーナーでパタパタしていて、フッと手が止まったレコード。メル・トーメが歌っているではないか。
"What Is This Thing Called Love" 、"Get Out Of Town" の2曲だけだけど、こんなところで歌っているなんて知らなかった。

アーティー・ショウと言えば ”Moonglow" だし、ビリー・ホリデイを専属歌手にして史上初めて白人バンドに黒人歌手を常設したり、
グラマシー5という小編成のコンボもやるなど、見かけのイメージとは違ってなかなか硬派なところがあった。
ショウ・ビジネスの世界で大成功し、50年代中期に早々と音楽界からは引退したので、残ったレコードはスィング時代のものが多く、
この10インチもそんな中の1つだが、テディー・ウォルターズやキティー・カレンの歌も入っており、全編が楽しく聴ける。

アレンジもナチュラルで、ハーモニーも柔らかく上質で、ビッグ・バンド臭さもなく洗練されている。ベニー・グッドマンや
ウディ・ハーマンのようなアクの強さがなく、そこがいい。

10インチくらいのサイズの方が飽きずに聴けてちょうどいい。2曲とは言え、メル・トーメの歌が聴けるのだから、
これはこれで立派な稀少盤と言っていい。どん底のレコード漁りの日々で渇いた心が、ほんの少しではあるけど潤った。



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このアルバムの歴史的位置付けについて

2021年08月08日 | Jazz LP (Verve)

Stan Getz / At Large  ( 米 Verve MG V-8393-2 )


1958年に妻が妊娠し、出産を彼女の故郷であるスェーデンで迎えることにしたスタン・ゲッツは一家で渡欧し、デンマークのコペンハーゲンに
居を構えた。当時の北欧でジャズをやるにはこの街が最も適していて、妻の実家からも車で1時間ほどの距離だったからだった。

初めは現地のミュージシャンと演奏をしたが、あまりの実力の無さにメンバー探しをしなければいけない状態になり、オスカー・ペティフォード
がアメリカを逃れてきたのを機に2人は一緒に演奏をするようになった。この時にヤン・ヨハンセンも呼び寄せた。人種差別がなく、クリーンな
コペンハーゲンでゲッツ一家は暖かく迎え入れられて、しばらくは安定した日々が続いた。ゲッツの家は大きな邸宅で、北欧にやって来た
ミュージシャンたちは皆ゲッツの家に集まり、その都度パーティーが開かれるという、傍目には満ち足りたように見える生活だった。

しかし、その水面下では不穏な事態がゆっくりと進行していた。ドラッグの禁断症状を紛らわせるためにゲッツは深酒をするようになり、
元々抱えていた鬱病がまた顔を覗かせるようにもなっていた。

ゲッツがアメリカを離れている間に、ニューヨークではマイルスが "Kind Of Blue" を、オーネットが "The Shape Of Jazz To Come" を、
そしてコルトレーンが "Giant Steps" をリリースし、それらをレコードで聴いたゲッツはこの重要な転換期に自分が蚊帳の外にいることを
知った。10年間連続してポール・ウィナーだったダウンビート誌やメトロノーム誌で、ゲッツは首位から陥落し、トップはコルトレーンに
置き換わった。極め付けは、唯一の精神的支柱だったペティフォードが1960年9月4日にコペンハーゲンのアートギャラリーでの演奏後、
原因不明のウィルス性髄膜炎で突然亡くなってしまったことだった。まだ37歳の若さだった。

かつての仲間たちの目を見張る進化から1人取り残され、傍にいてくれたただ一つの拠り所を突然失い、孤独と不安に苛まれたゲッツは
穏やかで何一つ不自由のない生活を捨て、周囲からの猛反対を押し切り、再びニューヨークの喧騒の中へと戻る決意をする。
それは1961年1月のことだった。

この "At Large" というアルバムは、このデンマーク滞在時に吹き込まれた。ヨハンセンのピアノトリオをバックにワンホーンで
ゆったりとバラード基調で吹くゲッツの表情には明るさがない。かつての北欧録音時に見せた颯爽とした姿はここにはない。

表面上は穏やかに見える演奏だが、レイドバックしているにもかかわらず、寛いだ気分にはなぜかなれない不気味さが漂っている。
バックのピアノトリオの演奏は明らかに凡庸で、音楽に貢献できていない。ヨハンソンは本来の持ち味を生かさず、無理にアメリカの
ジャズを演奏しようとしていて、技術的に追い付けておらず、演奏はぎこちない。ベースとドラムは言及すべき点すらない。
ヨハンセンが自身のスタイルを貫いていれば、例えばアイラーの "My Name Is" のような新しい音楽が生まれていたかもしれないのに、
そうしなかったのは(あるいはできなかったのは)芸術的敗北だった。

ゲッツは実力不足の現地ミュージシャンたちのために演奏が容易なスタンダードを集め、自身が彼らの位置まで降りて行って演奏している。
ほとんどがスロー・テンポで演奏されているのは、バラードの情感を出したかったからではなく、おそらくそれが理由だろう。
その一方でバックの演奏は全然ゲッツのレベルには手が届いていないから、このアルバムは捉えどころのない、中途半端な内容になってしまった。
本来であれば、このフォーマットはゲッツの最も得意なパターンで、傑作が生まれるはずだったにもかかわらず、そうはならなかった。
ゲッツはこれらの吹き込みとマイルスやコルトレーンのアルバムとを比較して、おそらく絶望的な気分になっただろう。

ただ、このアルバムを「駄作」と言ってしまうのは簡単だが、私には安易にそう言う気になれない。この演奏の背景にあったスタン・ゲッツの
当時置かれていた状況や彼の苦悩を知れば、そんな言い方をする気にはとてもなれない。

アメリカに戻った後、ゲイリー・バートンやチック・コリアという新しい才能を発掘し、ボサ・ノヴァを通過し、オーケストラとの共演や
サントラも作った。周回遅れとなった自身の音楽を何とか巻き返そうともがき苦しみ、晩年になってようやく自身の新しい境地に辿り着く。
不甲斐ない状況から自分を奮い立たせることになった、ある種の象徴のようなアルバムがこの "At Large" というアルバムだったのだと私は思う。



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シンデレラ・ストーリーが生んだ無名の新人たちからの挨拶状

2021年08月01日 | Jazz LP (Savoy)

Kenny Clarke / Bohemia After Dark  ( 米 Savoy MG 12017 )


1955年7月14日に初リーダー作を作ることになった1ヵ月前に、キャノンボールはレコーディング・デビューをサヴォイで果たしている。
ケニー・クラーク名義になっているが、このレコーディングが行われたのはキャノンボールが契機になっていて、この時の話はシンデレラ・
ストーリーとして今に語り継がれている。

1955年6月のある夜、オスカー・ペティフォードは自身のバンドを率いてカフェ・ボヘミアで演奏することになっていたが、メンバーの1人、
ジェローム・リチャードソンが行方不明でバンドに欠員が出た。ちょうど観客の中にチャーリー・ラウズがいたので、彼にバンドに参加するように
声を掛けたが、ラウズはテナーを持っていなかった。この時、偶然にも店内にアダレイ兄弟が楽器を携えてライヴを観に来ていて、
ラウズはフロリダで共演経験があって彼らとは顔見知りだったため、キャノンボールにステージに上がってみないか、と声を掛けたのだ。

彼は二つ返事でステージに上がったが、オスカーはどこの誰かも分からない素人が加わったことにムッとし、1曲目の "I'll Remenber April"
を通常よりもずっと速いテンポで始めた。このド素人をステージから引きずり降ろそうとしたわけだ。ところが、パーカーのレコードで
この曲を勉強していたキャノンボールはこれを楽々とやってのけてしまう。

2曲目は自身が夜の帳が降りたカフェ・ボヘミアの光景を想って作曲した "Bohemia After Dark" で、この曲のテーマ部は吹くのが難しい
メロディーラインだったが、ここでもキャノンボールのアルトが火を吹いた。これにはオスカーもすっかり感激してしまい、
キャノンボールにライブの最後まで残るように頼み、彼の演奏で観客が熱狂することになった。

この時のギグの噂はまるで山火事のようにニューヨーク界隈に伝わることとなり、ケニー・クラークがすぐにオジー・カデナに連絡を取って、
レコーディングが用意されることとなった。この年の3月にパーカーが死去し、誰もが第2のパーカーの登場を心待ちにしていたのだ。
ある晩、フィル・ウッズがクラブで演奏したら、ジャッキー・マクリーンが血相を変えてやってきて「凄いやつが現れたぞ」と言って
ウッズをカフェ・ボヘミアへと引っ張って行くと、そこではキャノンボールが演奏していて、2人は固唾を飲んでそれを聴いていたという。

このギグの後、キャノンボールはオスカーのバンドに加わり演奏していたので、レコーディングはこのバンドのメンバーを採用することに
なったが、オスカーがメンバーだったホレス・シルヴァーを外すように要求したので(理由はよくわからない)、オジー・カデナがこれを
拒否して逆にオスカー自身をレコーディングから外すことに決めた。じゃあ、ということで、ケニー・クラークが代わりにカフェ・ボヘミアで
ピアノ・トリオのベースを担当していたまだ無名の20歳の痩せた若者を連れて来た。これが、あのポール・チェンバースだったのだ。

更に、ここに22歳の無名の新人トランペッターだったドナルド・バードを加えることになった。つまり、このアルバムは当時はまったくの
無名で、やがてはジャズ界を背負って立つことになる4名の新人(ジュリアン、ナット、チェンバース、バード)を世間にお披露目するために
先輩たちの粋な計らいで制作されたものだったのだ。こういう話になると日本ではアルフレッド・ライオンのことばかり取り上げられるけど、
実はそうではない。マイルスやロリンズを育てたワインストックにしろ、エヴァンスやウェスを育てたキープニュースにしろ、当時のジャズ・
レーベルのオーナーたちにはそういう熱い志があった。だからこそ、私たちは今、こうして素晴らしいレコードを聴くことができる。
このレコードは、ポール・チェンバースとドナルド・バードのレコーディング・デビュー作にもなった。

オスカーを外したことに後ろめたさが残ったメンバーたちは、予定していた "Sweet Georgia Brown" のメロディーに一部手を加えて、
"With Apologies To Oscar" というタイトルを付けて、B-2へ収録した。なんだか、これも泣かせる話である。

こういう経緯から生まれた内容なので、ここでの演奏はみんな活き活きとした勢いはあるけど、まだまだ個性の発芽は見られず、
平均的なジャム・セッションの域を出ていない。やはり、キャノンボールの演奏が頭一つ跳び抜けているけど、管楽器が多いので、
それぞれの見せ場を設ける設定だから、これはまあ仕方ない。そんな中、アルバム最後に置かれた "We'll Be Together Again" では
ナット・アダレイがワン・ホーンで切々と歌い上げて、アルバムの幕は閉じられる。それはまるでタイトルが示すように
「いずれまたどこかで、みんなで集まって演奏しよう」と言っているかのようで、切なく心に響き、深い余韻を残す。



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