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『編集者という病い』(著者 見城徹 太田出版2007年)を読んで 

2015-04-04 03:30:25 | 書評
『編集者という病い』 著者 見城徹 太田出版2007年 

 憲法学の講義の際、顔に血管奇形がある韓国籍の実在の主人公の私生活を赤裸々に描き問題となった『石に泳ぐ魚事件』に象徴されるようなプライバシーや名誉の侵害となってもなお出版されることがあり、作家や編集者に対し、なぜ、そこまで表現行為をするのかと常々否定的に見て来た。だからこそ、見城氏の著書『編集者という病い』は、書名からして、他者の人権を侵害してでもなお表現しようとする者の確信に迫るものであるから興味深く読み進めることができた。

 「表現というのは、非共同体であること、すなわち個体であることの一点にかかっている。百匹の羊の共同体の中で一匹の過剰な、異常な羊、その共同体から滑り落ちるたった一匹の羊の内面を照らし出すのが表現である。共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要だろうけれども、一匹の切ない共同体にそぐわない羊のために表現はある」と見城氏は述べる。

 有限の一回限りの人生しか生きることができず、時と場所と共同体を選べずに生まれてくるという条件の中で、表現でしか救えない問題を、この世にたった一人しかいない個体としての人間は背負っている。編集者は、その人の精神という無形の目に見えないものから本という商品を作り出し、そこから収益をあげる。そのために、裸になって真剣に作家と切り結びあう。精神のデスマッチを表現者と編集者は繰り広げるのである。特に見城氏は、デスマッチの上に目指したのは、安全な港ではなく、悲惨の港であった。その悲惨が黄金に変わる瞬間、その誕生の場に立ち会うことが見城氏にとって何ものにもかえられないエクスタシーを「正しい病い」として味わう。見城氏の見解を知ったとき、表現の自由に関連する判例を読み、編集者に否定的なまなざしを向けていた自分の謎が解けたような気がした。やはり、表現の自由が保障される理由のひとつ「自己実現」という4文字では語りつくせない作家や編集者の思いがそこにはあり、結局は、売れなければ満足できないから「病い」ではあるが、その思いは、「正しい病い」というべきものであった。

 見城氏は、本物たちをプロデュースし、下火になってきていた文芸の手法を用いて、一つの時代を作り出して来たといって過言ではない。作家は、自分の内部から滲み出る、やむにやまれぬ気持ちを作品化している。表現者は、あざとく、表現者が無意識に持っているもの、葛藤している様を言語化させる。心に裂傷を負わせ、それを抉(えぐ)ってでも書いてもらう。自分の人生の全体重をかけた言葉が相手の胸に届かなければ編集者として現役でいる資格がない。逆に、表現者が編集者をそこまで駆り立てるのは、見城氏に言わせれば、「極端なことを言えば、殺人者だろうと変態だろうと、僕を感動させる作品さえ見せてくれるか、書いてくれるか、聴かせてくれればいいんだよ。逆に、そんなに爽やかでいい奴でも、その作品に心が震えなければ、付き合うことができない。編集者は、自分が感動できて、それを世にしらしめたいと思うからやっていける。その一点に尽きる。」と言い切る。まさに、精神の格闘家である。

 見城氏は、42歳にして、角川書店の取締役という安泰なポストを捨て、四谷の雑居ビルで自ら5人の仲間と幻冬舎を1千万円資本金で設立し、9年後には、時価総額300億円に育て上げ、ジャスダック上場も果たした。

 見城氏曰く、40代とは、「切羽詰まって闘える最後の世代」という。今、見城氏が出版界に「闘争宣言」を掲げ挑戦した40代という年代に、私もいるため、彼と自分を比較して見てしまう。見城氏は、慶応大学法学部を出て、法曹の道を選ばなかった。自分は、医師であるが、法曹の道を目指す。一方、「勝つことが目的ではない。闘うプロセスに充足を感じる」。「死ぬ時に笑って死ねたらよい。」と同じようなことを思う。そして、見城氏の自己評価同じく私もまた、自己愛に溺れ、永遠の少年である。

 出版の依頼を、幻冬社若手の編集者から受けたことがあるが、未だ実を結んでいない。もし、本著のような書を十年後に私が書けるならば、自己実現とは別に、「共同体を維持して行くためには、倫理や法律や政治などが必要で」それらが機能するための政治的表現という「自己統治」に通じる表現について是非とも論じたいものである。見城氏は、「自らを、悪魔のように繊細で、天使のようにしたたかでありたい。悪魔と天使が一つの心に巣食い、引き裂かれるような痛みを感じなければ作家に共感することもできないし、この世の中の光と影のグラディエーションを感じ分けることはできない」という。心が運動することによって生まれる風や熱があるから人は引き寄せられるゆえの表現であろう。行政、有権者、専門家などの相手と共感を勝ち得ることもまた、同じ心が運動することによってのみ生まれるものと考える。幻冬舎は、その時の私の表現を活字化してくれようか。

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