対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「踊るのか、跳ぶのか。」改訂

2022-08-16 | 跳ぶのか、踊るのか。
はじめに

 これは2007年の「踊るのか、跳ぶのか。」(カテゴリー「跳ぶのか、踊るのか。」の最初の記事) の改訂版である。改訂といっても内容は全く同じで、読みやすくしたものである。この記事の最初はブログではなく、ホームページ(OCN)にHTMLで書いたものである。gooのブログに移行したとき、HTMLのタグが仇となって、途中に空白ができ、読みにくくなった。またリンクはどれもたどれなくなっている。

 ときどき「跳ぶのか、踊るのか。ーーーロドスはマルクスの薔薇」の記事が読まれている。こちらは2014年のものである。「踊るのか、跳ぶのか。」(2007)に疑問を持ち、克服しようとまとめたのが、「跳ぶのか、踊るのか。」(2014)である。

 わたしも振り返って読んでみたいと思った。

踊るのか、跳ぶのか。

 堀江忠男は、Hic Rhodus, hic salta! を、「ここがロードス島だ、ここで跳べ!」ではなく、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」と訳している(『マルクス経済学と現実』学文社)。わたしには、踊ると跳ぶの違いは、肯定と否定の違いに等しく、違和感を覚えるのであった。「踊る」のイメージは、現実に対する肯定的認識、現実との和解、観想の立場と結びついていて、「跳ぶ」のイメージとは、かけ離れていたのである。わたしのこのイメージは、許萬元の『弁証法の理論』から来ている。
「哲学がその灰色を灰色にえがく時には、生命の姿は老いている。そして、灰色を灰色にえがいたところで、生命の姿は若返らせられるのではなく、ただ認識されるだけなのである。」 すでに見られたように、一般に歴史的、実践的な立場は「青年」の立場であるが、反歴史的、非実践的な観想の立場は「老いたるもの」の立場であり、ここにいう「認識」の立場なのである。現実を実践的当為にもとづいて根こそぎ改革しようとする若者とは異なって、老いたるものは、むしろ現実に対する肯定的認識によって現実そのものと融和することをめざすのである。完成した現実は存在する理性そのものである。だからヘーゲルは、「ここにバラがある。ここで踊れ」という。「バラとしての理性( die Vernunft als die Rose )を現在の十字架のうちに認識し、よってもってこれを楽しむためには、この理性的洞察は、現実との和解( die Versohnung mit der Wirklichkeit )を概念的に把握( begreifen )しなければならないのである。」
 わたしは、踊るを「老いたるもの」の立場、跳ぶを「若者」の立場と対応させて理解してきた。いいかえば、踊るは肯定的理性、跳ぶは否定的理性と関連し、ハムレットの表現をかりれば、踊るは「to be」(このままでいい)、跳ぶは「 not to be」(このままではいけない)と対応すると考えてきたのである。
 いったい、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」などという訳はありえるのだろうか。

 しばらくして、堀江忠雄が『弁証法経済学批判』のなかで、意図的に「跳べ」ではなく「踊れ」を選択していることを知った。次のように説明していたのである。
 余談だが、ここのHic Rhodus, hic salta! は、「ここがロードス島だ、ここで跳べ」と訳されている場合が多いのに、「ここで踊れ」と訳したのは次の理由からだ。ヘーゲルの『法の哲学』の序文に Hic Rhodus, hic saltus. という言葉がある。これが「ここがロードスだ、ここで跳べ」である。これは『イソップ物語』に出てくる寓話の一節で、あるほら吹きがロードス島でものすごい飛躍をしたと自慢したので、聞いた人が「ほんとだったら、ここがロードス島だと思って、跳んで見せろ」といったら、参ってしまったという話だ。 さて、ヘーゲルはついで「さきの慣用句はすこし変えればこう聞こえるだろう。Hier ist die Rose, hier tanze!? これがローズ(ばら)だ、ここで踊れ!」(以上、両文とも Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, HW, 7, S. 26.にある。二章(8)の資料 『世界の名著――ヘーゲル』171~3ページ参照。)これをラテン語に書きなおせば Hic rodon, hic salta! である。マルクスはおそらくこの両方を知っていて、Hic Rhodus, hic salta! 「……踊れ」と書いたのであろう。
 Hic Rhodus,hic saltus. の「saltus」が「跳べ」、Hic rodon, hic salta! の「salta」は、「tanze」(ドイツ語の踊れ)のラテン語訳で「踊れ」である。それゆえに、Hic Rhodus, hic salta! の「salta」は「跳べ」ではなく「踊れ」である。このように堀江忠男は推測している。
 この推測は、まちがっていると思った。というのは、わたしは「salta」は、「 salto 」(跳ぶ)の命令形として存在しうることを知っていたからである。

 『世界の名著44ヘーゲル』を見てみると、 Hic Rhodus, hic saltus.(ここがロドスだ、ここで跳べ)には、次のような注が付いている。
 『イソップ物語』にあるほら吹きが、ロドス島でものすごい跳躍をやらかしたこと、おまけにそれを見ていた証人がいたことを自慢したので、聞いていた人が「お前さん、もしそれがほんとうなら、証人なんかいらない、ここがロドスだ、ここで跳べばいい」といった話がある。
 また、「ここにローズ(薔薇)がある、ここで踊れ。」(Hier ist die Rose, hier tanze!) には、次のような注が付いている。
 ギリシア語のロドス(島の名)をロドン(ばらの花)、ラテン語の saltus(跳べ)をsalta(踊れ)に「すこし変え」たしゃれ。ヘーゲルはここにギリシア語もラテン語も記してはいないが。
 この注は、まぎらわしい。 Rhodus と rodon、また saltus と salta が、韻を踏んでいることはよくわかる。しかし、ここには、saltus に「跳べ」、salta に「踊れ」と訳が付いている。おそらく、この訳が、堀江忠男の推測を歪めたのではないだろうか。
 おそらく、マルクスは、両方とも知っていた。両方を知っていて、Hic Rhodus, hic salta! 「……跳べ」と書いたのである。これが、わたしの推測である。
 salta を「踊れ」と訳すのは、マルクスをヘーゲルと間違えるのと同じことのように思える。許萬元のことばでいえば、「踊る」は「絶対的総体主義にもとづいた歴史主義」、「跳ぶ」は「絶対的歴史主義に立脚した総体主義」と対応するのである。

 堀江が「踊れ」を選択した理由を読んでいて、なじみがなかったのは、 Hic Rhodus, hic saltus. の表現である。調べてみることにした。"saltus" "salto" で検索すると、松原聡の「座右の銘」が出てきた。すべて解決した。
Hic Rhodus, hic saltus! 定訳は「ここが、ロードス島だ、ここで飛べ!」(「飛べ」ではなく、「跳べ」がいいのではないだろうか。――引用者注)。これでは、なんのことか、さっぱりわかりません。私が初めてこの語に出会ったのが、カール・マルクスの『資本論』でした。マルクスは、ヘーゲルの『法の哲学』からの引用です。 実は、『資本論』では、Hic Rhodus, hic salta! となっており、『法の哲学』では、Hic Rhodus, hic saltus! となっています。
 そして、"saltus" と "salta" の違いについて、森田信也(東洋大教授)の見解を紹介している。
 マルクスが資本論の中で使った salta は、salto「跳ねる、踊る」の命令形ですが、ヘーゲルが使った saltus は、「跳躍」という意味の名詞の対格(=直接目的格)で、おそらく ago「する」の命令形 age「~をしなさい」が省略されていると考えるのが、最も妥当かと思われます。どちらも正しいラテン語で、どちらも同じ意味です。 まとめると、salta は「跳ねる」という動詞の命令形、saltus age は「跳躍をする」というという動詞「する」+名詞「跳躍を」で、saltus は、名詞の対格です。 例えば、英語でも、We wish you a Merry Christmas! の代わりに、単に Merry Christmas と名詞だけで言うのに似ています。定型文で、慣用の度合いが高いほど、名詞だけで表現される例が多いようです。
 salto が原形で、「跳べ」でも「踊れ」でもどちらでもいいのである。saltus が「跳べ」、salta が「踊れ」ではなく、どちらも「跳ぶ・踊る」の意味を持っていて、saltus が名詞の対格、salta が動詞の命令形ということである。
 「salto」が、跳ぶになったり、踊るになったりするのは、文脈によるのである。イソップの寓話は「五種競技の選手」の話なのだから、跳ぶがいいのではないだろうか。

 ただし、わたしが手にした辞典(研究社 羅和辞典)では、salto に「踊る」の訳だけ、saltus に跳躍の訳だけが載っていた。Cassell's Latin Dictionary では、salto には、to dance,esp. with pantomimic geatures また、saltus には a spring, leap, bound とあった。salto 自体は、踊るの意味が優先するようである。 また、Hic Rhodus, hic salta! を「ここにロドス島あり、ここにて跳べ」、 Hic Rhodus, hic saltus! を、「ここにロドス島、ここに跳躍」と訳している辞典もあった。文法に忠実に動詞と名詞を訳し分けているのである(「ギリシア・ラテン引用語辭典」岩波書店)。

 わたしは、堀江忠男の「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」の訳に違和感をもっただけではない。かれが紹介するイソップの寓話にも、とまどったのである。マルクスの引用の前後を含めてとりあげてみる。
この問題提起のところ(第四章第二節の終わり)で、マルクスは次のような気負った文章を書いている。
 「資本は流通から発生しえないのと同様に、流通において発生しえないのでもない。それは流通において発生しなければならぬと同様に、流通において発生してはならぬ。…… 貨幣の資本への転化は商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物同志(ママ)の交換が出発点たる意義をもつ。まだ資本家の幼虫として存在するにすぎぬわが貨幣所有者は、商品をその価値で買い、その価値で売り、しかも過程の終わりには、彼が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならぬ。幼虫から成虫への彼の発展は、流通部面で行われねばならず、しかも流通部面で行なわれてはならぬ。以上が問題の条件である。ここがロードス島だ、ここで踊れ!」

 余談だが、ロードス島というのは、ギリシアの東南方の海上、トルコ半島の西南端に近い島で、紀元前から地中海貿易の要衝だったところである。したがって、芝居、奇術、踊りなどの興業が盛んだったらしい。アイソフォスの寓話のなかに、ロードス島で他人が真似のできないほどすばらしく踊ったという人にむかって「ここでロードス島だと思ってもう一度踊ってみよ」といった話がある。
 「他人が真似のできないほどすばらしく踊った」? これでは、アイソフォスとイソップは別人ではないか。異説があるかもしれないから断言はできないが、「踊る」の訳を自然にするために、堀江忠男が捏造した寓話ではないだろうか。

 堀江忠男は「貨幣の資本への転化」の展開には、3つの誤りがあると指摘していた。この指摘のなかで、「踊り」は重要な役割を担っている。
 労働力が商品となるのを契機として剰余価値が発生し、貨幣が資本に転化するという考え方は、商品の内包する、使用価値と価値の対立を出発点として資本主義の発生・発展・死滅を論ずる『資本論』の弁証法的理論構造の、不可欠な一環を構成するものである。それが、言葉のアヤと踊りの主役の無断変更と、さらに舞台装置の間違いから生じた錯覚であったということになれば、『資本論』は弁証法の模範的な適用である、という一般の評価、『資本論』は弁証法の論理学であるというレーニンの有名な言葉も、根底から考えなおしてみる必要があろう。
 「踊りの主役の無断変更」、「舞台装置の間違い」は、「ここがロードス島だ、ここで踊れ!」に起因しているのである。それが、「虚偽」によるものだとしたら。わたしは堀江忠男を評価する記事を書いてきていた(〈幻視のなかの弁証法 〉 、〈濁りの引き継ぎ〉 、〈「濁り」と「論述あいまいの虚偽」〉)。見逃していたものがあったのではないか。『資本論』の弁証法とともに、堀江の指摘する3つの誤りも、根底から考えなおしてみる必要を感じるようになったのである。(「マルクスもうひとつの弁証法――「貨幣の資本への転化」について」)

 ところで、わたしは「salta」が「 salto 」(跳ぶ)の命令形であることを知っていたと述べたが、20年ほど前に、調べたことがあったのである。そのころ、わたしは、科学論に関心があった。わたしなりに科学哲学の問いを設定するときに、フォイエルバッハが、どこかで「ここがロドスだ、ここで跳べ」と対照して「ここがアテナイだ、ここで考えろ」という表現を提示していたことを思い出した。フォイエルバッハのいいかえは、わたしの問題意識を集約する表現のように思え、これをラテン語でどのようにいうのかを知りたかったのである。本には、ラテン語は並記してなかったので、『資本論』の Hic Rhodus,hic salta! を参考にして、作文しようと思ったのである。そのとき、「salta」が「 salto 」の命令形であること知り、これと対応させて、考える( cogito )の命令形を「 cogita 」と活用して、次のように作ったのである。
   Hic Athenae, hic cogita!(ここがアテナイだ、ここで考えろ)

そして、わたしは、これを『もうひとつのパスカルの原理』のなかで、次のように使ったのである。
 この過程は、バシュラールやケストラーが描くように、奇妙な過程なのだ。それは「自分自身の運動を支えとしている」し、また「あてにならない直感に頼っている」のだ。いま、まさに私たちがこの奇妙な過程に入っていくのである。一度でもこの過程の内部に立ち入ったことのある者なら、その難しさを知っていることだろう。しかし、困難が前途をさまたげてもけっしてへこたれないようにしよう。この過程の入口には、地獄の入口とおなじ次のような要求が掲げてあるのだから(マルクス『経済学批判』参照)。

 「ここでいっさいの優柔不断をすてなければならぬ
    臆病根性はいっさいここでいれかえねばならぬ」

 この過程に入っていくとき、かれ(科学者)は対象について未知であり、この過程から出てくるとき、かれは対象を把握している。この過程の初期において、対象は知の「さなぎ」として存在しているにすぎないが、この過程の終期において、対象は知の「蝶」として存在している。かれの対象がさなぎから蝶へと転化していく過程、つまり未知と知の関係は、さなぎの形姿(Form)が蝶の形姿とまったく異なるように異なっており、さなぎの構成(Gestalt)が蝶の構成と対応しているように対応している。この過程に入っていくまさにその瞬間、かれは、はるかかなたの恒星が光ったとひとり信じている。この過程のまんなかで、かれはその光がとどくのをじっと待っている。そしてこの過程から出てくるとき、かれはまさにその光が地球に降るさまをみている。これが着目している過程の条件である。Hic Athenae, hic cogita ! (ここがアテナイだ、ここで考えろ!)
 いくつか感想を述べさせてもらう。 バーネットという科学哲学者は、科学とはギリシア人のように考えることだという科学の定義をしていた。アテナイは、それを念頭に置いたものだったと思うが、いまは、ラファエロの「アテネの学園」と関連させたい気分である。

 「気負った文章」を書いたものだが、それでも、場所を限定し、探究していこうとする精神は表われているようなので、まずまずかなあと思う。
 下敷きにしたマルクスのロードス(「貨幣の資本への転化」の条件)と比べてみて、わたしのアテナイ(「知の形成過程」の条件)には、矛盾律に挑戦する姿勢が表われていないことに、安心する。似させて書いたつもりだったが、いま読むと、あまり似ていないのではないかと思う。
 初出は、「試行」№71(1992年5月)である。『もうひとつのパスカルの原理』は、ここまで(第4章)「試行」に、載せてもらった。

 さて、記憶はあてにならないものである。こんど、フォイエルバッハが、どこで、「ここがアテナイだ、ここで考えろ」といっていたかを探してみた。『将来の哲学の根本問題』にはなかった。『唯心論と唯物論』にあったのだが、信じられなかった。

 そこには、「跳べ」ではなく、「踊れ」とあったのである。
すなわち我は単に、ここで思惟し、ここにあるこの肉体のなかで思惟し、とくにあなたの頭の外にあるこの頭のなかで考えるこの個体の言語上の省略法にすぎない。ただ「ここがロドスだ、ここで踊れ!」といわれるだけではなくて、また「ここがアテナイだ、ここで考えよ!」ともいわれるのである。(船山信一訳 岩波文庫)
 角川文庫 桝田啓三郎訳 も見たが、同じように「踊れ」であった。 
単に「ここがロドスだ、さあ踊ってみろ」といわれるばかりでなく、また、ここがアテナイだ、さあ考えてみろ、ともいわれるのである。
 これには訳注がついていた。
 アイソポスの寓話、いわゆるイソップ物語にある寓話に由来する言葉。ロドス島ではオリンピック選手の誰にもまけないほど巧みな跳躍をしたといってホラを吹く競技者に向かって、市民の一人が、それならここがロドスだと思って跳んでみせろ、といった話から、hic Rhodus,hic salta(ここがロドスだ、ここで踊れ)という言葉が、なにごとでもひとに信じてもらいたければ人の目の前で事実を示して証明しなくてはならぬ、という意味の格言になって伝えられた。ここではこの格言的な意味ではなく、ヘーゲルが『法の哲学』の序で、個人が時代の子であるように、哲学も時代の子であって現在の世界を越えることはできないとして、ここでこのロドスで哲学しなくてはならぬと語ったのをもじって、ここにいるこの個人に結びつけているのである。
 この訳注では、「跳べ」と「踊る」が混在しているようである。 

 いったい、船山信一も桝田啓三郎も、どんな理由で「跳ぶ」ではなく、「踊る」と訳したのだろう。堀江忠男と同じなのだろうか。違う理由があるのだろうか。岩波文庫の初版は、1955年である。角川文庫の初版も、1955年である。そのころは、「踊る」が主流だったのだろうか。
 しかし、間違っている。ロードス島では踊らないのである。ロードス島では跳ぶのである。
 「踊る」のはバラ(薔薇)、「跳ぶ」のはロードス島、「考える」のはアテナイである。

 3人の哲学者のラテン語を読んで、終わりとしよう。
  ヘーゲル     Hic rosa, hic salta! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)
  マルクス     Hic Rhodus, hic salta! (ここがロードス島だ、ここで跳べ!)
  フォイエルバッハ Hic Athenae, hic cogita!(ここがアテナイだ、ここで考えろ!)