ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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中国はこうして核大国化した2

2006-12-20 10:21:50 | 国際関係
●「6億人いるから半数が死んでも」と毛沢東は言った

 最初に核開発に成功したアメリカの後を、ソ連が追った。ソ連は、昭和24年(1949)に原爆保有を公表し、28年に水爆実験を行った。その後、間もなく昭和32年(1957)8月、ソ連は、大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功した。アメリカは先を越された。10月には人工衛星スプートニク1号、続いてライカ犬を搭載したスプートニク2号の打ち上げにも、ソ連は成功した。ソ連はアメリカに対する軍事的優位に立った。
 しかし、ニキータ・フルシチョフは、核の破壊力を増大していくと、いずれ米ソは核戦争に突入し、人類の絶滅につながると認識するようになった。フルシチョフは、軍事よりも経済でアメリカを抜くことを目指す政策に転じた。「大砲よりバター」で、社会主義体制の優位を示そうとした。

 毛沢東は、違う考えを持っていた。毛は朝鮮戦争(1950-1953)の時、途中から北朝鮮の意思を越えて、戦争を拡大した。戦争を拡大することにより、スターリンから核開発への援助・協力を取り付けようとしたのである。
 昭和32年(1957)10月、ソ連は、毛沢東の強い要望に応えて、中国と核兵器開発の技術援助を行う協定を結んだ。以後、中国の核兵器開発は、ソ連の技術援助により進められた。

 当時、毛は、ソ連が大陸間弾道ミサイルの発射実験に成功したことをもって、「東風は西風を圧倒している」と認識した。東側の諸国が西側の諸国に対して力の優位に立ったというわけである。そして、毛は、ソ連を中心とする社会主義陣営が団結して、アメリカの核を恐れず、「原爆は張子の虎」であることを暴露すれば、世界戦争は起こらない、そればかりか帝国主義を絶えず弱体化させ、究極的には圧倒することができると主張した。

 「中国は人口が6億人いるから、仮に原水爆によって半数が死んでも、3億人が生き残り、何年がたてばまた6億人になり、もっと多くなるだろう」と、毛は語った。
 これには、フルシチョフも呆れ果てた。毛の思想は「核兵器のいかなるものかを知らない」人間の「非人間的な考え方」であり、「野獣の考え方」であると厳しく批判した。シナの伝統である人命軽視の価値観は、ソ連の指導者をも驚かせ、警戒させたのである。

 やがて中ソに亀裂が生じた。ソ連は昭和34年(1959)6月に中国に対する核開発技術援助供与を一方的に打ち切った。打ち切りに対して、中国はソ連に反発した。毛沢東は、ソ連との同盟関係を反故にし、ソ連の社会主義陣営を離脱し、自国を危機にさらしてでも、自力で核開発を推進しようと考えた。

●核開発のためだった大躍進・人民公社

 こうした中国の核開発の初期に、大躍進(1958-1960)が試みられた。毛沢東は、建国10年を迎える中国が社会主義建設を進めるためのスローガンとして、「大躍進」を打ち出した。これは、生産大躍進として、人民公社革命・社会主義建設総路線と並んで、三面紅旗の一つをなすものだった。
 「大躍進」という名目で、全国民を挙げての製鋼事業が行われた。伝統的な工法による粗鋼の生産に労力が集中されたため、農作物の収穫が満足に出来ず、作物は腐るまで放置された。その結果、ひどい食料不足を招き、少なくとも2000万人、多く見て4300万人が餓死したといわれる。餓死者続出のなか、鍋・釜まで供出して民衆が作った鉄は、ほとんど使い物にならなかった。

 壮大な失敗に終わった大躍進政策は、実は中国の限られた財源・資源を核兵器開発に集中するために行われたものだった。
 中国が大躍進政策を始めた昭和33年(1958)から、毛沢東は、核ミサイル開発と人民戦争の組み合わせによる「二本足軍事路線」を取った。
 毛沢東は、核開発を進めるとともに、核攻撃を生き延び、侵略した敵を「人民の大海に埋葬する」という人海戦術を打ち出した。そして、広大な農村に「星をちりばめたように散在する」人民公社が設立された。人民公社は、革命後の土地改革で農業の集団化が進められた。その発展形態が、人民公社である。
 人民公社は、単なる農業生産組織ではない。政治・経済・文化・軍事など国家・社会のあらゆる機能を兼ね備えた一種の「自給自足社会」であり、「小国家」であった。かつまた人民公社を単位として民兵が組織された。万が一、アメリカの核攻撃を受けた場合は、人民公社で生き残ることを、毛沢東は考えたわけである。
 毛は、原爆で中国の人口の半分が死んでも、半分は生き残って、また元に戻っていくという発言によって世界を驚かせたが、その根拠は人民公社にあった。

 大躍進と人民公社は、毛沢東の愚劣さを示す代名詞となっている。しかし、それらは核兵器を開発するために採られた戦略だった、と平松氏は言う。核開発と大躍進・人民公社は、一体のものとして推進されたのである。
 人民公社は、農業政策としては失敗だった。農地の共有化と農業の集団化は、農民の労働意欲をそぎ、生産性は低迷した。1980年代には、土地を貸与する方式に転換され、昭和60年(1985)には人民公社の解体が完了した。しかし、毛沢東の強引な政策によって、独自の核開発は進められた。4300万ともいわれる犠牲者を伴いながら、やがて中国の核は産声をあげることになる。

 次回に続く。

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