く~にゃん雑記帳

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<奥能登探訪㊦> 朝日も夕日も望める最北端の岬・禄剛埼

2017年09月14日 | 旅・想い出写真館

【揚げ浜式塩田、見附島、恋路海岸……】

 能登半島最北端の岬、禄剛埼(ろっこうざき)。外浦と内裏の分岐点にあり、古くは狼煙(のろし)をたく要所として知られた。その名残が今も「珠洲市狼煙町」という地名に残っている。そばには「道の駅狼煙」もある。その道の駅から急坂を登ること10分弱で、芝生広場の禄剛埼台地に着いた。青い日本海が遥か彼方まで果てしなく広がる。ここは同じ地点から朝日も夕日も望むことができる全国でも数少ない場所という。

 岬の突端にある白亜の灯台「禄剛埼灯台」はイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン(1841~1901)が設計し、1883年(明治16年)に完成した。ブライトンは明治政府のお雇い外国人として来日し、多くの灯台を設計したことから〝日本の灯台の父〟と呼ばれる。正面には菊の紋章が輝く記念額が飾られていた。菊の紋章が掲げられた灯台は全国でもここだけとのこと。今は無人灯台だが現役で光は約35キロ先の沖合まで届く。「日本の灯台50選」の一つ。2008年には経済産業省から「近代化産業遺産」に認定された。この灯台は2年前のNHK連続テレビ小説『まれ』のオープニングに空撮が登場したことでも知られる。

 

 珠洲市北部の仁江海岸などでは「揚げ浜式」という製塩技術が連綿と受け継がれてきた。沿岸部の領民に米を前貸しし、塩で返納させる加賀藩の「塩手米(しおてまい)制度」によって江戸初期以降、急速に広まった。瀬戸内地方の「入浜式」は潮の干満を利用して海水を塩田に引き込む。一方、潮の干満の少ない能登地方の「揚げ浜式」では海水を汲んできて塩田に撒く作業を繰り返す。

 国道24号沿いには今もその揚げ浜式の塩田が点在する。「道の駅すず塩田村」のそばにある角花家の塩田(写真㊧)には「国指定重要無形民俗文化財 能登の揚浜式製塩の技術」と「『まれ』ロケ地」という看板が立っていた。『まれ』収録の際、この塩田を営む角花豊さんが塩田作業指導を務めたという。国道をしばらく進むと「株式会社奥能登塩田村」(写真㊨)があった。真っ黒に日焼けした男性が炎天下、海水を撒いた塩田で黙々と砂の乾燥作業に取り組んでいた。〝潮汲み3年、潮撒き10年〟。この言葉が揚げ浜式の過酷な製塩作業を物語る。

 

 能登のシンボルといわれる見附島はその形から軍艦島とも呼ばれる。高さは約28m。「飯塚珪藻泥岩」という堆積岩でできているそうだ。海岸そばの道路を南下し能登町に入ると、すぐの所に恋路海岸が弧を描く。ここにはこんな悲恋物語が伝わる。美しい娘の鍋乃と助三郎は人目を忍び逢瀬を重ねていたが、助三郎は二人の仲をねたむ男に騙され溺れ死ぬ。その直後、男は鍋乃に言い寄るが、鍋乃は拒んで海に身投げし助三郎の後を追う――。いま、見附海岸~恋路海岸の一帯は「えんむすびーち」「恋人たちの聖地」と呼ばれてカップルに人気があるそうだ。

 


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