く~にゃん雑記帳

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<山の辺の道> 記紀が編纂された8世紀初めにはすでにあった!

2012年10月05日 | 考古・歴史

【天理大学公開講座「山の辺の道の考古学」】

 奈良盆地の東の山裾を南北に走る山の辺の道。今では東海自然歩道の一部となり、ハイキングコースとして人気が高いが、この古道はいつごろでき、その周辺にはどんな遺跡が残されているのだろうか。「山の辺の道の考古学」と題する天理大学の公開講座がこのほど奈良県中小企業会館(奈良市)で開かれた。講師の小田木治太郎氏(天理大文学部歴史文化学科准教授)によると、山の辺の道は古事記、日本書紀が編纂された8世紀の初めごろにはすでに存在していたという。

 山の辺の道は三輪山の南西麓から春日断層崖の西縁を縫って北上、奈良山丘陵に至る古道。断層崖は直線的で、山麓を少し上がれば奈良盆地全体を眺めることができる。その南端にある海石榴市(つばいち)は東西の交通の要衝。こうした地理的な好条件が「ヤマト王権がその地に誕生した理由の一つかもしれない」。ただ、古代のルートそのものはよく分かっていない。「時代によって様々なルートが選ばれたのではないか」という。

 8世紀にこの古道が存在したことは古事記などの記載から証明されている。第10代崇神天皇陵の場所について古事記は「山辺道勾(まがり)之崗上」、日本書紀は「山辺道上陵」とあり、第12代景行天皇陵についても同様に古事記に「山辺之道上」などと書き記されている。両天皇陵の近くには卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳がある。山の辺周辺にはこの古墳をはじめ実に多くの古墳がある。「日本列島で巨大古墳の造営が始まった地、古墳時代が始まった地といえる」。時代を切り開いたのは大集落の纒向遺跡を母体とする纒向古墳群。箸墓古墳を中心に6つの古墳から成る。

  

 山の辺地域ではこれらの古墳だけでなく、発掘調査によってそれを支えた集落の様相も徐々に分かってきた。城島(しきしま)遺跡からは木製土掘り具が大量に出土しており、桜井茶臼山古墳築造のための臨時集落とみられる。脇本遺跡では5世紀前半の大型掘立柱建物群の跡から雄略天皇の泊瀬朝倉宮ではないかといわれる。さらに乙木・佐保庄遺跡からは玉杖に類似したさしば形木製品が見つかっており、王権中枢との関連がうかがわれるという。「山の辺地域はまさに歴史の宝庫」(小田木氏)というわけだ。

 上の図「畿内における大型古墳の編年(白石太一郎氏作成)」が示すように、大王墓とみられる巨大古墳を抱える古墳群は時代が下るにつれて場所も移動する。箸墓古墳(全長280m)中心の纒向古墳群から行燈山(242m)、渋谷向山(300m)の両古墳を中心とする柳本古墳群へ。この山の辺地域から奈良市北部の佐紀古墳群へ。この大王墓の移動について「ヤマト王権の政権中枢の移動を示すものではないか」と推定する。巨大古墳の所在地はさらに大阪の百舌鳥古墳群、古市古墳群に移動していく。

 各地で遺跡の発掘調査が進むが、最近では技術の進歩で掘らなくても実態が分かる方法が開発されてきた。その一つが航空レーザースキャニング測量。上空からレーザーを照射すると、古墳などをまさに〝丸裸〟にすることができる。この技術を使えば、原則発掘禁止になっている天皇陵についても墳丘の高さや大きさなどを正確に測量することが可能というわけだ。

 ただ、そうした技術の活用も遺跡などが現状のまま保存されることが前提。山の辺地域の古墳や遺跡の中には宮内庁が陵墓管理しているものや国、県の指定史跡になっているものも多いが、一方で指定外のものもかなりある。小田木氏は「史跡化されていないということは、法的に守る根拠がないということで、実に危うい状況。いかに現状を崩さずに保存していくかが大きな課題」と警鐘を鳴らす。

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