河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2056- マーラー夜の歌、カンブルラン、読響、2016.2.12

2016-02-12 23:40:50 | コンサート

2012年2月12日(金) 7:00pm サントリー

モーツァルト セレナード第13番ト長調
アイネ・クライネ・ナハトムジーク  6′4′2′4′

Int

マーラー 交響曲第7番ホ短調 夜の歌  22′15′10′12′19′


シルヴァン・カンブルラン 指揮 読売日本交響楽団


バレンボイム、シュターツカペレ・ベルリンのブルックナー全集の休息日にこうやってカンブルランのマーラー7番を聴けるというのは僥倖ですね、毎日が僥倖と、お天道様に感謝。
カンブルランはGM7初振りらしくて、おお、そうだったのかと軽い驚きを感じました。現音スペシャリストでオーソリティの彼がこれまでこの曲を振ってこなかったのはなぜ、神のみぞ知るということで。

DB/SKBのGM7を聴いたことがありますけれど、見た目はなんだか、似てましたね。滑るような演奏というのではなくて垂直進行とでも形容したくなる。でも、DBと同じようなアプローチながら全体的な印象は随分と異なる。


プログラムの配置が素敵で、小夜曲と夜の歌、ビルディングとしてはしゃれてますね。
この前半のモーツァルト、読響らしさとカンブルランらしさがうまくないまぜになって、筋肉質でぶ厚いという、オーケストラ演奏の醍醐味。ストリングオンリーの演奏でもプレイヤーにオケの鳴りがしみついているとでも言いましょうか。このような演奏は本当に、聴く醍醐味、大有りですね。気持ちよく聴けました。

後半のマーラーは指揮、奏者、聴くほう、みんなコンセントレーション高めて、ちょっと気張り過ぎなのかオケが若干ラフ気味なところもありましたが、冒頭のテナーホルンの自信に満ちた縁取り感覚に、つつがなく全てを包み隠さずやるというオーソリティ指揮者の面目躍如たるそのやる気を感じましたので、乱れよりもやる気の勝ち。

頭の序奏と提示部の第1、2主題のテンポがほぼ同じ。シューベルトのグレイトでも同じように持っていく指揮者がおりますがあれをふと思い出しました。ここらあたりに指揮者のスタイルというのがよくでると思います。
この進行でだいたい雰囲気をつかんでおいて、結局、曲全般にわたりほぼインテンポで進む。終楽章はすこし出入りありましたが概ねインテンポ進行で曲想毎の切り替えを妙にアチェルしたりリタルしたりしない。変なタメも無い。思いつかせない。
結果、垂直に進む。
この曲の音響を楽しむことができました。微細なアンサンブルのポーンポーンとはじいていくようなクリアさはカンブルランのものだし、響きがぶつかり合って別の響きを生んだり、逆にアンサンブルをインストゥルメント1本まで分解していったり、めまぐるしく変わる面白さ。
カンブルランは音楽を駆り立てるように進めていかない、情に流されないというか、曲の中身の響きを洗いざらい出すことに腐心していて、これがやはり現音スペシャリストのする耳と表現であって、ヘヴィーな縦の進行のように聴こえてくるのは、普段そのような聴き方や先入観、刷り込みなど無意識にしてしまっている自分のほうをチェンジしていかないといけないのかなと思いましたね。
2,4楽章の夜の歌は実に味わい深かった。崩さないスタイルで進めていくこれら楽章、音楽が印象として残ります。両楽章ホルンが踏ん張りどころです。腕達者なプリンシパル、踏ん張りどころね。
自分としてはここらあたりもっとビブラートかけて湯気の出る様な雰囲気が欲しいところですけれど、国内のホルニストはあまりビブラートかけませんからね。昔の、千葉馨のフィーリングが欲しいわ。

あと、夜の歌に挟まれたスケルツォ、指揮者によっては途中、ワルツみたいにねっとり感満載な濃い表現に脱線していったりしますけれど、カンブルランはインテンポで表現する音楽の極意的スタイルで、真ん中の楽章としての存在感、転換点といいますか折り返しの楽章、ミラーを感じさせてくれる節目楽章でした。

両端楽章、1楽章はブラックホールに吸い込まれていくような演奏で、ここらはDBに似てます。この短調の真っ暗さを最後まで貫き通す。夜明けはくるのだろうかという感じですね。圧倒的な存在感の第1楽章。
終楽章はこれまた滑らない。克明過ぎる部分もありですが、そういえば思い出した第1楽章の展開部の音楽づくりは出色の克明さでしたね、主題の練り具合がおもしろいように、手に取るようにわかる。理解には欠かせない棒、お見事。
それでこの終楽章、ロンドは曲想のめくるめく変化を浴びるように楽しむだけでいいですね。
この楽章の最後のところで第1楽章の主題が明確に出てきますが、あの部分の作曲技法といいますか、やりかたがあまり好きでなくて、書いているほうの気持ちはわからなくもないですが、それでなくても似た雰囲気の主題展開のフィナーレ楽章なわけですから、あすこまで裸でさらさなくても、わかる。ので、余計なことをしていると感じてしまう。
カンブルランさんはどう感じているのかわかりませんけれど、あすこらへん、ぜい肉の上塗りみたい、と思っているのかもしれませんね。と想像する。

いずれにしても、オーソリティらしい棒で、曲の響きの多様性を満喫できました。
読響の重心の低い特性を、そのまま保持させながら、駆けずり回らせることのできる指揮者はめったにおりませんですね。
いい演奏でした、ありがとうございました。
おわり


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