河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

2027- シベリウス、5,6,7、ヴァンスカ、読響、2015.12.4

2015-12-04 23:03:54 | コンサート・オペラ

2015年12月4日(金) 7:00pm サントリー

オール・シベリウス・プログラム

5番変ホ長調  14′、8′+9′
Int
6番ニ短調  9′、7′、3′+9′
7番ハ長調  21′

オスモ・ヴァンスカ 指揮 読売日本交響楽団


昔、ヴァントがN響でブルックナーを振り始めた頃、これは単に作品をなぞった棒ではなくブルックナー解釈の移植だと思った。もっと言うと、当時の感覚だと田植えとか畑の耕しみたいな一種名状し難い感覚にとらわれたものでした。道具はある、肝心な、もの作りを今するのだ、そんな話です。
それが実現された形は、指揮者のブルックナー完全理解は当たり前の前提であって、その実現方法の一つとしてオーケストラの磨き上げが必須なんですよ、というあたりのことも明確に感じられた、ブルックナーの真っ当なインターナショナル化です。
この二つのことをヴァント&N響のブルックナーでは強く感じたものでした。

そのままの話ではありませんけれど、この日のヴァンスカのシベリウスではそのようなことを強く思い出しました。一曲目の5番の第1楽章これは完璧なシベリウス像ではないか。
色々な断片が次から次と出てきますけれど、断片と言っているのはその時の話しであって結局全てつながっていく。有機的結合と言う話ですけれども、そのしょっぱなの第1楽章の全部出し、ここらあたりの出しかたが圧倒的な説得力。
展開部にあたるところのヴァイオリンの半音階主題、滑らかに入っていきます。そしてモザイク風な管のトリルとシベリウス的イディオムといえるしゃくりあげ締め、ここ、圧倒的でした。さらに特筆すべきはゲストコンサートマスターの荻原尚子さんの見事な弾きと統率力、合わせて、ものの10分も経たないうちに巨人のようなシベリウス演奏に悶絶。
この楽章の後半スケルツォへの移行も冷静にして自然、全く素晴らしい棒というしかない。そして駆り立てて熱狂のエンディング、でもまだ先があると言わんばかり。フォルムを感じさせてくれます。ここの主題の主張と結合、形式感の見事さは、すべてお見通しのヴァンスカが成しえる技でしょうね。
第2楽章、聴くほうはかみしめて聴く番です。ホルンはプログラム前半のこの5番と後半でプリンシパルが交代していましたが、日橋さん率いるこの作品の演奏、第2楽章の中間でホルンハーモニーが少し濁ってしまうところがありました。すぐに立ち直りましたけれど。牧歌的な楽章なれど、する方はテンションの持続がポイントです。
第3楽章はいきなり締めのような緊張感で始まり、第1楽章のスケルツォエンディングが移ってきたかのよう。それが中間部からの展開は中低音域を中心にまるで人間が息でもするような具合のフレーズが印象的。ヴァンスカの移行は非常に滑らかで見事の一語に尽きる。音楽が生きている。
そして圧倒的な空白、打撃音の響きの正しさをこんなに正確に味わえる瞬間というのはクラシックの作品数々あれどそんなにない。完璧な余韻を何度も味わいつつ、明確にずらしたティンパニが音楽のフレームを見事にえぐりだし曲を終える。あぁ、見事。

後半の最初の曲、6番も大きかった。特に第4楽章は巨大と言ってよく、むしろ演奏の激しさが壮絶で言葉もない。前半3楽章も終楽章にバランスしたもので縁取り感覚、フレームのクリアさですね、明確な輪郭で、それが余裕の細部指示は既にリハーサルでブラッシュアップの極みに達していての棒指示であることがよくわかる、この説得力の強さ。

この6番の3,4楽章はアタッカで奏されました。第2楽章の冒頭のティンパニは、あとで考えると第7番の冒頭と同じとわかるのですが、ヴァンスカは6番7番の親近性の強調よりも、独立した作品としてポジションを確立していることを主張していたと思います。シベリウスのイディオムは打楽器だけでなく打撃のアクセントなど調性が異なっていても同じようなモードを感じさせてくれるところが多くありますけれど、この6番の巨大な演奏による圧倒的存在感は、とりあえずそんなことは横に置いてこれを聴け、と彼は言っているように思えました。

最後の7番。2回ある雄大なトロンボーンソロのうち1回目のソロのあとホルンをはじめとしてブラスが流れ込んだ後のティンパニの打撃。この1回目は譜面では、ピアノからクレシェンドして叩きつけるところ、そこには強弱記号がありません。ヴァンスカはかなり強めの指示で、このような解釈はムライヴンスキー以外では初めて聴きました。2回目のほうは弱めの指示が譜面にあり、ヴァンスカは指示通りの聴こえないぐらいの弱さ。ちなみにムラヴィンスキーは2回目もスコア無視の大打撃をしています。皮が破裂してばちが飛びそうなぐらいの。
また、トロンボーンソロが始まるとムラヴィンスキー、レニングラードは他の楽器を信じがたいほどのピアニシモまで落とします。このようなことが出来るのは世界ひろしと言えども当時のこのオケだけにしかできない絶対能力で神がかっている。と、つい、ムライヴンスキーの演奏をどうしてもしゃべりたくなってしまう。

ヴァンスカ、読響の7番は個人芸の集積というよりも合奏、統一感のとれた同じ呼吸の合奏、それが素晴らしい。薄い膜でも張ったかのような、比較的肉厚な弦なのだが揃ったアンサンブルでぶ厚い透明さみたいなものを感じる。読響の特質だろう。
最後までぶ厚い透明感で押し切っていく。シンフォニーの面影はもはやなくて交響詩でもない、なにかシベリウスの全エキスだけで出来ているものを飲まされているような味わいだ。最後、鮮やかな転調を繰り返し、スコアにある正確な音価レングスを保ちつつ極度の緊張感をもって、さっ、と終わる。お見事。
素晴らしい演奏ありがとうございました。
おわり

PS
1251- シベリウス交響曲第7番 演奏は曲を超えた。異形の絶演!ムラヴィンスキー&レニングラード・ フィル


 


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