2016年7月28日(木) 7:00pm みなとみらいホール
ロッシーニ ウイリアム・テル、序曲 11′
バーバー ヴァイオリン協奏曲 11′9′4′
ヴァイオリン、石田泰尚
Int
ショスタコーヴィッチ 交響曲第15番イ長調 9′16+5′20′
高関健 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
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P席で指揮を見たのですがあらためて神経過敏棒のように感じる。カンヴァセーションわからなくてもグラマーをマスターしていれば、言葉は通じる。グラマーは彼にとってオーケストラ全メンバーが少なくとも共通ルールとしてわかっていてほしくて、何はなくともそれさえあれば、ザッツは合わせられる。音価レングスは正しく、強弱記号も正確に表現、、、、、といったその一点で演奏行為をすることができる。音が流れなくても。
基盤となる共通項の意識の上に、指揮者が何をどう伝えたいのか、それを理解し表現していくメンバーも大変な気がしますね。ここはこうだよ、練習通りに、と、早い話、息が詰まる棒。
とは言え、日々是音楽ですから、このような事態は軽く越えているかもしれませんね。音楽は正確ではあったけれど、全く流れの無い演奏だった、などと言った話の事はとうに越えていることなのかもしれない。というよりもむしろ、指揮者にとっての関心事項ではないのかもしれないと思ったのも事実。
静止したショスタコーヴィッチ、これは15番にはふさわしいかもしれない。最奥に鎮座した迷宮ワールド。確信犯的な1曲目配置のプログラム構成といえるロッシーニの序曲。後半のブラスの行進節は明確に15番で引用されるものではありますが、この日のような静止画像的演奏を聴くとそのことよりもむしろ、序曲序奏のチェロが第2楽章虚無的なブラスハーモニーのあとのチェロソロにエコーしているとの思いの方が強い。止まっている音楽とは妙な言い方ですけれども、そちらのほうの印象が一層濃いものです。
第1楽章から流れは無い。音の動きが律動に結びついてはいない。強烈な炸裂フレーズが出てくる楽章ですが、そういった噴出までに至る音に流れが無くて突然出てくる。だいたいそんな感じで、モザイク的な表現が濃厚です。このフレーズはここまでで、次はこれです。と、順番にひとつずつ。面白いものですね、引用された音楽が孤立しているように聴こえてく。終楽章頭のジークフリートの死は、引用よりも第2楽章のブラスによる虚無パッセージとのつながりを強く感じさせてくれる。なんだかいろんなモザイクが至る所に張り巡らされている。ところてん式な攻めながら時間の残像を感じさせる。
この指揮者の音楽の攻め方でしょうね。ショスタコーヴィッチの音楽がゆさぶりから不思議と落ちついたものに変化している。
終楽章の静止画像は指揮者の得意とするところかもしれない。上記のような攻め方をどんどん推し進めていって行きついた先の究極の20分。まるで、宇宙遊泳のスローモーション・ヴィデオでも見ているような雰囲気。ゆっくりと、でも、一度に二つの操作は出来ないの、順番にゆっくりゆっくりと。テンポの出し入れは無い。一定したものでそれはそれで驚異的なものです。最後の弱音パーカッションの饗宴まで一定している。落ち着きと不思議な空気。パーカッション饗宴を導くのは弦の長い長い一音。尾を引くような響きの継続とその上を割と強めに跳ね回るパーカス。線香花火が消え入るのではなくて、遠く宇宙の果てに吸い込まれていく。弦は宇宙の水平線。
今までわからなかったものが一つ解き明かされたような気がしました。見事な演奏でした。
14型(ベース7)対向
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前半2曲目のバーバーは作曲家の語法がよくわからない。1910年生まれの作曲家の1939年の作品で29才30才頃のもの。若いころの作品が比較的多いと思いますが、それでもさらに10年後のピアノソナタと比べると主張の濃度の違いは明白。ピアニストでもあったとはいえ。
風貌に比してシャイな感じのアンビバレントさが魅力的なコンマス・ソリストのヴァイオリンは熱演でした。
おわり