河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1597- ドン・カルロ、二期会、デイヴィッド・マクヴィカー演出、ガブリエーレ・フェッロ指揮、都響2

2014-02-22 23:07:00 | インポート

 2013-2014シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから。
2013-2014シーズン
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140222_122201

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2014年2月22日(土)1:00-5:10pm 東京文化会館
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ヴェルディ作曲
デイヴィッド・マクヴィカー、プロダクション
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ドン・カルロ
 ACTⅠ24′
 ACTⅡScene1 18′ Scene2 45′
 ACTⅢScene1 15′ Scene2 22′
Int 25′
 ACTⅣScene1 40′ Scene2 17′
 ACTⅤ23′
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キャスト(in order of appearance)
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エリザベッタ 横山恵子
ドン・カルロ  福井 敬
テバルド  加賀ひとみ
レルマ伯爵  大槻孝志
ロドリーゴ  成田博之
エボリ公女  谷口睦美
フィリッポ二世  伊藤 純
宗教裁判長  斉木健詞
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6人の代議士  岩田健志 勝村大城 佐藤 望
野村光洋 門間信樹 湯澤直幹
天よりの声  湯浅桃子
修道士  三戸大久
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二期会合唱団
ガブリエーレ・フェッロ 指揮
東京都交響楽団
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2014.2.19と同キャストの公演。
トラヴィアータやリゴレットでもずっしり重みのある場幕が用意されている。このドン・カルロでも、ずっしり重心が2幕2場、3幕1場あたりに漂う。二つもあるとやはり重みも倍になるなあ。
それから、3幕2場のグランドオペラ風味とはいっても、こうやって観ながら聴くとワーグナーの精神世界に近いと感じた。音の鳴りの派手さとは、一種別のような舞台なのだ。いろんな思惑のようなものがここに一気に集中していく感じ。複数のストーリーを観ている錯覚に陥る。この場面はストップモーションの出来栄えの美しさもあり、複数の感情が同時多発的に起きると興奮してくるというのを再認識。
トランペット、トロンボーンなどのブラスをはじめ、オーケストラも素晴らしかった。ヴェルディの叩きつけるスフォルツァンド、バーンと鳴ってスーと減衰するあの感覚、下手なオケだとうまくいかないのですが、このオーケストラの鳴りは快感。きれいな音のヴェルディサウンドを堪能できました。
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このドラマティックオペラには初日のような多少荒削りのほうが合っているのではないか、というのは間違いで、正確性が増し滑らかになった歌、音楽が正確に鳴れば鳴るほど音楽そのものの力が正しく出てくる。これは迫力。
おしなべて同じような感はあるものの、こなれてきた分だけ19日よりこの日のほうが上。19日のところで書いたようにこのタイトルロールの声は好みではないのですが、他より一歩レベルが上だと思います。揺れるビブラートはいいですね。
だいたい初日と同じであれば、あとはこちらの理解度がどれだけ深まるか、そこらへんが個人的な焦点ですね。
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これまでこのオペラのことは詳しくなく、こうやって続けざまにそれも同一キャストで観ることができたというのは大きいですね。ブレが少ない分、作品の巨大さをより実感できる。
一般的な話ですけれど、感想の頭から、この人の歌は良かった、あのプレイヤーは素晴らしかった、といった話はよくあることですが、個別の演奏者のことに耳を傾けていても作品のことはわからない。また、演奏者レベルが高かったから作品の良さがわかったみたいな話もあるが、おそらく演奏レベルが高くても作品のことを理解できているとは思えないようなものもある。
このような巨大作品を前にして、最初のセリフが、あの人の歌は良かった、この人の声は素晴らしかった。それはそれでわかるが、何を聴いているのかと、第一義的なものはなんだと。オペラの場合、備わった才能を聴きに行く場であって、それはそれでいいではないか、という話も当然ありますね。たしかにそうかもしれません。
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同じプロダクション、キャストで反復して鑑賞することのメリットは、同一内容レベルでぶれのない表現で作品を見ることにより、作品そのものに集中していくことができ、よりストレートに作品を理解することができる。さらに、一つのことに集中することにより、逆説的な話ではあるが、いろいろなプロダクションやキャストの同作品を自由自在に聴いていくことができるようになる。といったあたり。
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この際ちょっと付け加えますが、あるオケのある楽器のソリストの何とかさんは素晴らしかった、といった話には全く興味なし。オーケストラという個体の中で機能するインストゥルメントをやっている人がだれであれ興味はない。これと逆な人がたくさんいますが、これはもう感性というしかなく、双方、相手をどうのこうの言う類のことではない。また、このての話で例外ケースの局部肥大化議論は最終的に人間はファジーなものであるという世界になってしまうので、しない。1%が100%になる話なんですね。
個人には全く興味ないのに、この人がソロをしているときはいつも強いアンサンブルを感じる、いったいどうゆう人なんだろう、といた具合に興味が出てくる場合もありますからね。(私における1%のケース)
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ついでに、もう一つぬぐい難い違和感をこの際書いておきますが、あるオケのコンサートに行ったことをツイッターなどでしゃべると、「ありがとうございます」というエコーがある。ありがとうと言われる筋合いのないところで言われるのでものすごい違和感がある。ありがとう人間はおそらく、そのオケのフレンドとかファンとか何某かの個人的関係者で、その立場でお礼を言いつつ周囲に自分の存在示威行為(見栄はる)ができるという一石二鳥的な部分があるのかもしれない。その材料にされたらたまらん。
こちらは聴きたい曲や演奏家を中心に取捨選択して聴きに来ているだけなのに、なんだろう、横っ腹から、ありがとうございますって?違和感強い。
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話が別方向に飛んでしまいました。
アナログディスク、CD、DVD等メディア聴きの場合でも、昔はオペラやオーケストラル曲というものは、最初から最後まで続けて聴いてしまうものだ、という縛りみたいなものがありました。聴くほうの完璧性みたいなものを自分に課していたわけです。作品理解の完全性の一つの担保みたいなところかもしれません。
ところが、今回続けざまにこのオペラを観たら、メディアではなく生でも、どっか切り抜きで聴くようなスタイルで聴いてもいいかなと思うようになりました。今日は第3幕第1場を観たい。そんな感じで自由自在にある部分を観ることができるようになった。つまりそのシーンのことを全体像の中で理解できるようになった、これは自分にとってはとてもデカイこと。全曲モードに縛られていたのがなぜか解放されていく。これはこれで悪くないな。
そこで初めてプロダクションとかキャストのことが浮かんできた。そろってないとダメだと。この日のバランスの良さはこのように肯定的な回答がちりばめられた好演であった。
おわり
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PS.この日は演出補の女性の方カーテンコールに出てきませんでした