河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

426- ファウストの劫罰 パリ管2 1991-23

2007-09-30 23:15:00 | 音楽

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1991年のパリ管来日公演のことを書いてます。

425-に全日程等を書きました。

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さて、この年のパリ管初日の公演に潜入してみました。

初日はこんな感じ。

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19911031()7:00pm

東京文化会館

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ベルリオーズ/ファウストの劫罰

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マルガリータ/ワルトラウト・マイヤー

ファウスト/デイヴィット・レンドル

メフィストフェレス/ジョン・トムリンソン

ブランダー/ジョン・ポール・ボガート

天上の声/エレーヌ・ブリュール

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パリ管弦楽団合唱団

セミヨン・ビシュコフ指揮

パリ管弦楽団

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総勢280人の布陣。

うち合唱団が120人。

巨大な陣容で迫る。

ソリストだけ見ればなにやらワーグナーでも始まりそうな雰囲気。

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トムリンソンとマイヤーがはいってきた。マイヤーはスコアを持っていない。

ちょっと不安になったが、彼女は頭の良いソプラノ。そんなことはわかっていても、歌いっぱなしの曲ではなく、オペラ風なので暗譜はかなり努力がいるはずだ。プロンプターがいるわけでもないし。。

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全曲公演である。

421場。

ブラバンでもよくやるラコッツィ行進曲は1部終場、といっても2場構成だから、聴きものラコッツィは演奏が始まって割とすぐに終わってしまう。

あとは禅問答が続くというわけだ。

このときの公演ではプログラムとは別に歌詞対訳、いわゆるリブレットがついていた。

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パリ管のウィンドというのは、なんというか一聴、空虚な音を出すことがある。

否定的な意味合いではない。

フルートとかバスーンとかピッコロとかクラリネットなどが、いかにもトンネルの中を音がそのまま抜けてきたような素の音が他の音と混じりあうことなく響いてくる。

ハーモニーにならない、ブレンドしない、みんな勝手にやっている、そんな感じだが、たしかに昔のフランスのオケは団員各人が好き勝手にプレーしていると言われるようなことがしばしばあった。

指揮者の無能力さとは別なところで、団員がやる気を出したり出さなかったりしている。

他日ボレロの公演があったが、あのトロンボーンは、気持よく吹きながら、きっとしゃべっていたと思うよ。誰も俺の邪魔をするんじゃねぇよ。って言う感じでね。

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それでファウストの劫罰だが、第1部のラコッツィ行進曲が済んだ後は、ほぼ演奏会形式のオペラ、今でいうホールオペラ風に進んでいく。

但し、舞台の上は凝ったものではなく通常のオーケストラ公演と同じように整然と進んでいくのだが。

ベルリーズ独特の引き延ばした小節、いきなりストップする合唱。全てが魅力的。

この曲の全曲を生聴きできるチャンスはほぼないので、貴重な体験だ。それもとってもハイレベル。

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ウィンドは気ままにやっていると言ったけれど、アンサンブル重視ではなく個人技で迫ってくるわけだが、これはこれで音楽の輪郭、縁取りが明確に聴こえてくるため理解しやすい。

特にこの日のような曲の場合、功を奏する。

ブラスも途中から気のせいか耳のせいか、合唱の声の一部になったように聴こえてきた。

歌と一体化したブラスの個人技、個人技でしか合唱に同化することはできない、と思わせるようなものすごい説得力。

それにソリストが加わって、完全なるファウストの劫罰の一体化した演奏のすごみを味わった。

うまく表現できないのだが、ソリストの一人ずつ、合唱団のパートずつ、オーケストラの各楽器ずつの力関係、音圧関係、バランス感覚が全く一様であり、各人のさえた技があまりにも見事なため、逆に全体としては一様に聴こえてくる。

音楽が波打ってうねりを伴って進んでいくのではなく、そこかしこで花火のようにキラキラ光輝き、一つずつも美しいが、遠くから眺める全体風景もあっちから光が、こっちからも光が、いたるところからキラキラ光が、それぞれ輝くのだ。

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それでは指揮者はなにをしていたのかしら。

(続く)

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