十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

佐藤(岩崎)法賢先生

2018-02-06 18:03:20 | 柔道

(写真の後列左より佐藤法賢、磯貝 一、永岡秀一、前列左より山下義韶、嘉納治五郎、横山作次郎) 

昨年高齢の柔道家とお会いした時、黒澤明の戦前の映画「姿三四郎」の柔道指導を担当したのは佐藤法賢と聞いた。これは先生の記憶違いと思う。黒澤明がこのデビュー作を作ったのは昭和18年で、佐藤法賢先生はその時は既に亡くなられていた。昭和5年講道館発行の柔道年鑑でも5段の部の名前の上に亡と記されている。私は柔道発展に尽くされたこの柔道家になぜか惹かれるものがある。明治の末年の三年間嘉納治五郎先生の命で柔道教師として私の母校旧制北野中学に赴任されていたということもある。しかし柔道一途に生きられた方が今ではすっかり忘れられ、柔道名鑑にもその名がない。なぜなのだろう。でも彼は柔道の為に生き、一生を終えた。その生き方に興味を持っている。以前佐藤法賢について別のところで書いた。もう一度加筆訂正してこのブログに載せてみたい。

「日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した海軍軍人の広瀬武夫は柔道を愛する人であった。明治二十三年の十月二十六日の紅白試合、海軍少尉候補生で軍艦海門の乗組員であった彼は初段。四将で出場して五人抜き、六人目に馬場七五郎二段と引分け。この試合で即日二段。この日の試合について彼は父親宛に手紙を出している。中佐の後の試合の模様の記述である。

「紅白トモ三名宛残リ。双方トモニ大将ト大将ト相見エルヤウニナリヌ。即チ紅小田氏ハ白川合氏ニ勝チテ、白嘉納氏ニ破ラレ、嘉納氏ハ紅小田、斉藤氏ニ勝チテ、紅戸張氏ニ負ケ、マタ紅ノ大将戸張氏ハ嘉納氏ニ勝チ、白ノ大将岩崎氏ト見参セシガ、終ニ岩崎氏ノ勝利ニ帰シ、以テメデタク大勝負ノ終局ヲ告ゲタリ、時ニ午後二時、而シテ右ノ岩崎、戸張ノ両氏ハ警視廰ニ出勤シ、共ニ當時日本ノ若手デハ、屈指ノ先生株ナリキ。」

 岩崎氏とあるのは後の佐藤封賢。越後国東頸城郡小黒村出身。講道館入門は明治十八年三月十日。入門時の名は岩崎秀太郎。十八歳とあるので、西郷四郎、戸張瀧三郎と同年齢。嘉納塾生となる。当初嘉納塾では「高位、高官、華族、富豪」の師弟を預かったとあるが、豪農出身か。 講道館は上二番町にあり、二十畳の道場であった。嘉納塾には冨田常次郎、西郷四郎、宗像逸郎、山下義韶、肝次宗次、横山作次郎、戸張瀧三郎等綺羅星の如き人達がいた。最大六〇名になったという。嘉納治五郎の自宅と一軒の家で住いし、勉学の他に毎日必ず柔道をした

明治二十年には広瀬武夫らの生徒の要望もあり江田島の海軍兵学校に柔道科が設置され、山下義韶とともに佐藤法賢は教師として赴任している。明治二十一年警視庁での柔術との試合があった。双方14,5名。西郷四郎、山下義韶、横山作次郎、富田常次郎、有馬純文、川合慶次郎、宗像逸郎、竿代文蔵、大坪克和、小田勝太郎、吉村新六ら共に出場。戸塚流は本部が千葉にあり、当時柔術の最大権威であった。その内照島太郎と西村定助が強者として知られていた。照島太郎は山下義韶、西村定助の相手は佐藤法賢であった。この試合は講道館の圧勝であった。明治二十八年京都に大日本武徳会が設立され、明治三十八年武術教員養成所が開校。法賢は磯貝一、永岡秀一、田畑昇太郎と共に教員となっている。武術教員養成所は二年制で最初に武術教員養成所に入所したのは10人。6年後武道専門学校ができ、発展解消する。その間卒業生は58名。生徒はすべて寄宿舎生活で授業料はいらなく逆に武徳会から六円の補助が出たという。その10人の内の一人に岡野好太郎がいる。戦後10段になられた。私があった高齢の柔道家の父上である。岡好太郎十段の「学生柔道の伝統」に佐藤法賢のことが出てくる。養成所の生徒監であった佐藤先生の家に行き、姿三四郎のモデルの西郷四郎に紹介される場面である。『当時生徒監督であった佐藤法賢先生に、私のような背の低い者でも、将来歩みを続けて行けるでしょうかと問うた。佐藤先生は「背丈の低いことで悲観することはない。」といわれ、「磯貝君、永岡君の背丈は君くらいしかないではないか。僕の知っている西郷四郎という人は、磯貝、永岡君より小さいが、なかなよく動いた。それだから体の小さいことは気にせずに、体を柔軟に動かすというように稽古をしていけばよい。田舎で稽古したせいでもあるが、君の体捌きは非常に堅い。この点に気をつけて精進していけば、前途を悲観することもないだろう。」と激励してくれた。明治40年先生に呼ばれお宅に行くと、佐藤先生の側に、お茶の宗匠みたいな風格の体のちいさい人がいた。「この人は長崎で新聞の方に関係している人で、かねて話をした西郷君である。」と紹介された。西郷さんは、「佐藤君からきみのことを聞かされた。なかなか熱心に稽古を励んでいるということで、体の小さいことに悩んでいるそうだが、決して苦にすることはない。寝技が出来るということだが、技に自信をもって稽古することが一番大切なことである。」といわれ激励された。』とある。佐藤法賢の若者に対する心の内の優しさを強く感じる。若者の悩みに真摯に向き合っている佐藤法賢の人柄が伝わってくる。私事だが、老荘思想研究の第一人者の福永光司先生に紹介され、言葉を交わした情景は今も鮮明に覚えている。

 「王国の系譜」(吉田正昭)に法賢について次のように述べられている。 「満鉄の柔道は明治四十二年ころ、熊本五高の師範だった大木円治が開拓したという。初代の師範には、京都にあった磯貝に白羽の矢が立ったのだが、武徳会本部が磯貝に無断で拒否した。大黒柱の磯貝を、抜かれては困るというわけ。代わりに武徳会から佐藤法賢が渡満した」とある。その後のことは講道館発行の柔道年鑑でしか消息はわからない。大正11年の年鑑には住所は京都市仁王門通新高倉寂光時寺山 肩書はは講道館維持員 職業は日出生命保険会社員とある。大正14年の年鑑も同じ。いつも隣にある西郷四郎が死亡となっている。昭和3年の年鑑では住所は同じで職業は接骨業となり、昭和5年の年鑑で亡となっている。北野を辞めてから満州に行かれたのだろう。昭和4年3月29日63歳で亡くなられている。住所の寂光寺は碁の「本因坊」の起源となった法華の寺である。武徳殿から徒歩約5分の所にある。その境内の一角に住まいされ、時には武徳殿で若者と柔道をされていたに違いない。

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