十三のカーネルおじさん

十三に巣くってウン十年。ひとつここらで十三から飛び立ってみよう。

早起き

2007-10-25 06:51:12 | 思い出
 最近眠りに入るのは一瞬のことになった。枕もとの本はいっこうにページが進まない。ストント言った感じでねむりに落ちる。ところが厄介なことに目覚めがやたらに早い。年齢のせいにされるので、他人には言わぬ。災い転じて福と為す。この時間を散歩にあてることにした。そろそろ・・ではありません。大分前から腹の周りも気になるし、メタボリック撃退に重い腰をあげることにした。
 家の近くの水尾公園。一周400m弱。ストップウオッチ片手にひたすら歩く。とはいっても無理せず一周ごとに休憩。ここは平成になって出来た公園で、それまでは池であった。一面ヒシで覆われ、アヒルがのんびり泳ぐ水田灌漑用の池であった。碑文によると1599年に築造されたとある。永年の間、この地域一帯に貢献した池だ。私が大学生の頃、母とこの池に来たことがある。新婚間もない姉が辺りに住んでいた。野蒜を摘んだ記憶があるので、季節は春だ。昔の面影はすっかり消えているが、かすかに一本のシダレヤナギがここが池の跡であった事を物語っている。小学校の校庭にあった柳の枝を引っ張るのが好きであった私は、母が野蒜を摘む間、この柳の枝を触っていたことであろう。
 今朝も柳の向こうに明けの明星が輝いていた。

運動会

2007-10-21 09:22:52 | ジジバカ
 土曜日サイドバッグにカメラとデジカメを入れ、バイクで孫の保育園まで。やっと着くと、保育園はもぬけの殻。どうも場所が違ったよう。案内板をのぞくと、会場は小学校とのこと。地理不案内だが、バイクで走ればすぐにわかること。音を頼りに走ると、かすかにそれらしい音が流れてきた。急な坂を登ると小学校の裏門。
 運動場は快晴の下、日差しが強い。娘夫婦とおばちゃんに抱かれた志門を発見。挨拶もそこそこにくーちゃんを探す。今日来れない妻のために写真をとってやらねばならない。逆光を避け、南側にまわったので、より園児たちの姿は遠い。放送を頼りにやっと見つけ、写真におさめる。望遠を持って来なかったので、遠景ばかりでクーちゃんを探すのも大変だが、『ウオーリーを探せ』よろしく、妻にはくーちゃんを探してもらいましょう。
 0歳児から預かっている保育園で、あちこちで子供たちの泣き声が聞こえるが、若い先生たちよくがんばっていると感心。先日教え子が大学合格のうれしい報告に来てくれた。彼は中学校の時から保育士を目指していたが、やっと念願に近づいてうれしい笑顔を持ってきてくれた。大変だがやりがいのある仕事だと思う。

古いテープ

2007-10-12 11:42:49 | 思い出
 母の27回忌に姉たちに母の生前の歌をCDにとかねてから考えていた。テープは劣化するがデジタル化すれば聞きたい部分もすぐに聞けるし、保存するのも楽というもの。「レコードやテープがデジタルで蘇る!」のキャッチフレーズにI-O DATAのDAVOXを数年前に買っていたが、使わずに置いていた。やっと出番がきたという感じだ。試しにモーツアルトのレクイエムをCD にしてみたが、結果は音もいいし成功。今週は午前中母のテープを毎日聞いていた。歌が苦手な私だが、テープからは大変歌好きな母が浮かび上がる。私は小さいころから歌詞を覚えるのが苦手で今もカラオケから逃げている。二番目の姉が一番母の素質を引き継いでいると思う。母が繰り返し歌っている数え歌がある。意味不明瞭なところもあるが、書き出してみた。
 ひとつとせ 人も通らぬ 山道を 武雄と浪子は 手をつなぎ そら手をつなぎ
 ふたつとせ 二股大根 離れても 武雄と浪子は 離れきらん 離れきらん
 みっつとせ 三日月様は 雲の上 武雄と浪子は 草の上 そら 草の上
 よっつとせ 夜の夜中 吹く風は 寒くはないかと 武雄さん そら 武雄さん
 いつつとせ 今まで 映えらぬかんざしを 浪子にささせて 映えらせよ そら
       映えらせよ
 むっつとせ 胸に締めたるこの帯を ゆるめてください 武雄さんそら武雄さん
 ななつとせ 何で泣くのか 浪子さん 私の病気は 治らせぬ ほら治らせぬ
 やっつとせ 屋敷広めて 蔵を建て・・武雄と浪子は 坂になる ほら坂になる
 ここのつとせ ここで会わねば どこで会う 五趣極楽の 道で会う ほら道       で会う
 とうとっせ  とうと 浪子は死にました 武雄は花持ち 墓参り 墓参り

出だしは年代により「ひとつ出たほいのよさほいのほい」に微妙に変わったりしているが内容的には変わらない。武雄と浪子といえば徳富蘆花の不如帰。海軍少尉「川島武雄」とその妻陸軍中将の娘「浪子」。浪子は結核を患い無理やり、武雄から離されるという悲しい話。
このうたがどこかにないかとパソコンで調べた。まったく同じものは見つからなかったが福井県大野郡和泉村(旧穴馬村)の「穴馬の伝説と民話」(http://www3.ocn.ne.jp/~seasnow/)の中で紹介されている歌が母の歌と共通する部分があるので引用させていただく。
     お半と長衛
   一つとや 人も通らぬ 山道を
   お半と長衛は 通うわんす ササ 通わんす
   二つとや 二また大根 はなれても  
   お半と長衛は 離りょまい ササ 離りょまい
   三つとや 三日月さま 雲の陰
   お半と長衛は 笹の陰 ささ 笹の陰
   四つとや 用もない 道を二度三度
   お半に会いとて また一度 ささ また一度
   五つとや いつも裏から おいでるに
   今夜にかぎって おもてから ササ おもてから
   六つとや むけん地獄で 今おちる
   助けておくれの 長衛さん
   七つとや なんぼお半が いばっても
   金らんどんすの 帯はない ササ帯はない
   八つとや 山の中から とんででて
   お半をつれて 帰りゃんせ ささ 帰りゃんせ
   九つとや ここで死んだら どうなるか
   お半をつれて にげようか ささ にげようか
   十とや 遠いところへ 行くよりも
   近いところで おいとくれ ササ おいとくれ
お半と長衛というのは、歌舞伎「桂川連理柵」(かつらがわれんりのしがらみ)の話の元になった「信濃屋お半と帯屋長右衛門の道行」を歌ったものと思うが、母の歌とどこか共通するものがある。「不如帰」というより、内容的にこの「道行」に近いのではないか。
 テープの最後は度重なる大手術の後、家での最後の録音の歌で終わっている。
 
   カアカア 烏ガ
       啼イテユク。
   カラス カラス
       何処へユク、
   オミヤノ森へ
       オ寺ノ屋根へ、
   カアカア 烏ガ
       啼イテユク。
 講談社文庫の日本の唱歌「上」明治篇によると、『尋常小学読本唱歌』明43・7とあるが、小学校一年で学校を退学を余儀なくされた,明治37年生まれの母の最も貴重な歌だったかもしれない。





ランドセル改造 リトルカブのサイドバッグへ

2007-10-07 07:55:34 | リトルカブ
 娘たちも小学校を卒業して十数年。屋根裏には彼女らのランドセルが二つ。捨てるに捨てられず、ぽつんと仕舞われていた。そのランドセルの一つを私のバイクの
サイドバッグに変身させることにした。これでまたランドセルが生き返る。
 変身の要点は
 ① 色を変える。
 ② 薄くする
 ③ 雨が入らないようする。
 ④ ランドセルに見せない
以上4点に気をつけながら改造。まず蓋の部分を半分に切断、二重に張りあわせる。底部の錠前をはずし、前面に持ってきた。ポケット部分は一つ減らす。ベルトはすべて取る。接着剤の補強にカシメを使う。色は(染めQ)のブラックを吹き付ける。横面(マチ)経年で外へ広がっていたので、カードを内側に貼りつけ、その上に底敷きを切りかぶせ、解決。

地図とデジカメとスケッチ帳を入れて、また外に出てみよう。


成長

2007-10-01 11:24:51 | ジジバカ
 娘のお出かけで下の孫を預かった。一歳一ヶ月、まだ歩けないが、足も大分しっかりしてきたので、生まれてはじめての第一歩はもう近い。昔大学の入学式で当時の大学総長の訓示の中で「君たちは、自力で歩けるようになったと思っているが親の手を借りなければ、歩くようにはなれなかった。」という話を今でも思い出す。
 言葉も「マンマ」ははっきり意思ををこめていう。自分がほしいものには特に語調が強い。一人遊びも出来るようになった。ブロックをペットボトルに入れて遊ぶことも覚えた。入らないときはブロックを握る手を変えたり、それなりの工夫をしている。ざるを帽子にしたり、空の炊飯器を覗き込んだり、興味は尽きないようだ。さてさてこれからどんな遊びをするか、楽しみだ。